choice.37 歪な世界と素直な言葉(4)
ふつかめ!
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あれから封伽と別れて、俺は歩き出していた。
向かう先は、言うまでもなく御帳さんの家──俺が後ろへと逃げ出した道を、今は前に向かって進んでいる。
足取りは、相も変わらず重い。
そりゃそうだ。本音を言ってしまえば、今だって逃げ出したい気持ちに変わりはないのだから。
気は進まないし、ここで走り出すような気力も湧いてはこない。背筋を伸ばしてまっすぐ歩くことさえ、満足に出来ているとは言えないのかもしれなかった。
けれど、それでも確かに、足は前へ前へと進んでいた。
さながら、もう姿の見えなくなった彼女に、今も背中を押され続けているかのように──いや、これはただの比喩なんかではなく、きっとその通りなのだと思う。
『アンタなら上手くやれるって、信じてるもの』
まっすぐに俺への信頼を語る封伽の言葉と笑顔が、まだ俺の頭の中に残っている──心に刻まれて、鮮明に残っている。
だから、どんなにボロボロでも、前を向いて、また歩ける。
(それに──やっと、気付けたんだ)
今更かもしれないけれど、それでも手遅れではない。
ようやく、俺は自分の気持ちに気付くことができた──
「……帰って、来た」
歩き続けて、ついに俺はその場所へと辿り着く。
御帳さんの住まう家、その門扉の前に立つ。
そうしていると必然的に、心の弱さに負けて逃げ出した記憶が胸の奥から呼び起こされた──けれど、今度は逃げない。
震える心を叱咤して、暴走する動悸を黙殺して、扉に手を掛ける。俺が出たときのままだから、鍵は掛かっていない。
「……お邪魔します、ってもう一度言うべきなのかな」
そんな益体のない思考で気を紛らわせつつ、俺はとうとう御帳さんの家の敷地内に一歩を踏み入れる。
──瞬間、俺の身に大きな変化が起こった。
さっきまで大雨の中を彷徨い歩き続けたせいで、ずぶ濡れになっていた服と身体。それが、一瞬の内に全て乾き切る。髪から滴り落ちる水も、濡れて肌に貼り付いた服さえも元通りに。
否、それは「乾いた」というよりは、「最初から濡れてなどいないことにされた」と述べた方が正確だった。
つまりは、封伽の予想が的中した形になる。
『世界』基準では時間が経過していない以上、客観的に考えて俺が家の外に出たはずもなく、だから雨で濡れ鼠になった事実もあるはずがない。
歪な時間の流れが招いた、世界による歪な修整だ。
「けど、その歪さを『異常』として認識できるのは、この世界でたぶん俺と封伽だけで……って、ちょっと待て」
そう納得しかけて、しかしはたと思い至る。
俺は確かに、今これを『異常』として認識できた。
けれど、封伽の認識ではどうなっているのだろう?
これまでは『異常』を異常として認識できなかったが、今回だけは『変』だと気付くことができた彼女は──果たして、俺と同じく記憶を保持したままなのか、それとも、例えば全てを忘れてしまうことになるのか。
俺達の前に横たわる圧倒的な『非現実』を、一介の人間でしかない俺に計り知れるわけもない──そのどちらの可能性も、等しくあり得てしまう気がした。
俺と今日出会ったことも、逃げ出した俺の背中を押してくれたことも、全ての記憶が封伽の中から消え去ってしまう可能性──杞憂かもしれないとはいえ、そんなものが存在しうるというだけで充分な恐怖があった。
「そんなことあるわけない」なんて薄っぺらい言葉では誤魔化せやしないほどに、それは大きな恐怖で。
おそらく、ギリギリで前を向いているだけの俺を再び踏み止まらせるだけの威力を秘めていた──だけど。
(──大丈夫だ)
もしここで踏み留まったりしたら、今度こそ俺は封伽に愛想を尽かされていただろうしな。
それに──もしも封伽が忘れたとしても、俺は思い出せる。
彼女がくれた物も、彼女が気付かせてくれたことも、俺の中から容易く消えるわけがない。それこそ、『世界』に阻まれたって絶対に思い出してみせる。
だから、足は止めなかった。
そして、御帳さん達のいる部屋の前へと辿り着く。開け放たれたままの扉からは、既に彼女達の姿を捉えることができた。
そこから一歩、また一歩と、俺は前に進む。
ここまで来たら、いくら俺でももう覚悟は決まったはずだろう──後は、ただそれを言葉にするだけ。
動かない御帳珠洲を正面に見据えて、止まった父親さんを尻目に、俺は告げる。
ずっと前に思える「さっき」投げ掛けられた、「それって……もしかして、私のこと?」という問いへの答えを。
「そうだよ──そうじゃなかったら、俺は御帳さんと付き合うことにはなってなかった」
*
名状しがたい空気の変化を、肌に感じる。
そう言うと、まるで空気が凍ったとか静かな怒りを買ってしまったとかの不穏な響きになってしまうけれど……そういうことではなく、止まっていた機械が動き出すような感覚だ。
俺の答えに、少なくとも世界は満足してくれたらしい。その結果に、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
──歪んでいた時が、世界が、正しさを取り戻していく。
視線の矛先で、御帳さんが動き出す。目を瞑り、俺に告げられた言葉を咀嚼するように、無言で葛藤と逡巡とを繰り返す。
その姿に俺は、思わず何か言葉を掛けようとした。封伽の期待に応える為には、むしろここから先が勝負なのだから。
とはいえ、掛ける言葉の当てがあったわけではない。ただ、何も言わずに突っ立っているのが躊躇われただけに近い。
けれど、すんでのところで思い止まる。今の彼女に何を言っても、それはきっと安易な慰めにしかならない気がして。
今の俺に、彼女へと掛けられる言葉の持ち合わせはない。
だから俺は、彼女が次に言葉を発する瞬間を待った。
御帳さんが今何を思い、何を考えているのか。その深い所までは俺には読み取れない。
けれど、胸の前で右手をぎゅっと握り、涙と想いの決壊を堪えている様子を見れば、彼女が並々ならぬ感慨を抱えていることくらいは分かる。
「あの……もう一つだけ、訊いてもいいですか」
長い沈黙を経て、御帳さんが口を開く。
俺は息を呑んで、頷いた。
「……私のこと、迷惑でしたか?」
弱々しい声で発された、新たな問い掛け。
それでも彼女の瞳は、震えながらも真っ直ぐ俺を見ていた。
その問いは、どんな意味を持っているのだろう。
御帳さんは、どんな答えを望んでいるのだろう。
肯定してほしいのか、それとも否定してほしいのか──その表情と態度からでは、内心は読み取れなかった。
「────」
けれど、どちらにせよ。
──俺がここで返すべき言葉は、決まっていた。
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