choice.35 歪な世界と素直な言葉(2)
世界の不条理に耐えきれず逃げ出した俺だったけれど、そもそも俺の心の弱さを許してくれなかった世界が、みすみす逃亡を許すほど甘いわけもなかった。
だから俺は今も、まだ逃げ切れずにいる。
俺があの部屋を飛び出したとき、御帳さんも父親さんも何の反応も示さなかった。制止の声を上げることも、驚きを態度に表すことも、追い掛けようと体を動かすこともなかった──それが、世界の『異常』が続いている一つ目の証拠だろう。
そう判断するだけの根拠は、他にもある。
「なるべく御帳さんの家から離れる」と、ただそれだけを呪文のように考えながら歩いていた俺が、いつの間にか御帳さんの家の前に戻ってきていたりもした。
その間も、腕に巻いた時計の針は微動だにしていなかった。空の色も雨の強さも、何一つ変化は見られないままで。
それは、明らかすぎる『異常』だった。
だが街行く人を見ていると、この状況を誰も『異常』と認識していないということも分かってしまう。
彼らは何に気付くこともなく、主観的にはただの日常を送るだけ──それこそが最大の『異常』だった。
今はもう歩くことにも疲れて、立ち止まってしまった。
かと言ってすることも出来ることもないので、ぼんやりと路上に突っ立っているだけなのだが。
時間が繰り返しているわけではなくとも、これはこれで立派な異常事態──それが継続しているということは、つまり御帳さん達がまだあの部屋から動いていないことを意味している。
まだあの場所で、俺の答えを待っているということを。
(……まるでゲームだな)
RPGなんかにいるような、「準備ができたら話し掛けてくれ」って言うキャラ。プレイヤーが別の場所に行こうが何をしてようが、「準備ができた」と告げるまではその場を動こうとしない彼もしくは彼女。
「…………」
まったく笑えないジョークだった。
いっそこの状況も、ただの笑えないジョークなら良いのに。随分と大掛かりで意図も不明だけれど、種明かしという「終わり」が用意されてさえいれば、まだ耐えられるのに。
「……はっ」
この期に及んでまだ逃避を止めようとしない心に、自嘲の笑みが溢れた。逃げても無駄だと証明されたばかりなのに、それでも逃げることを諦めないだなんて。
(……俺、何してるんだろうな)
「──何してんのよ、アンタ」
──声が、聴こえた。
自分の内側に渦巻く思考と内容の似た、不安定にぐらつく精神が聞かせた幻影にも思える声。
だけど、この不機嫌さを隠そうともしない、なのにどこか優しさを感じる声は、よく聞き慣れた少女のそれで。
耳が捉えた音に弾かれるように、俺は周囲を見回す。幻聴でないのならと、聞こえた声の主の姿を求めて。
だが、わざわざ視線を動かすまでもなかった。精神的に参っていて気付かなかっただけで、声は正面から届いていたから。
「……封伽」
思わず、その名前を呼んでしまう。
──傘を差した砺波封伽が、目の前に立っていた。
*
「なんで、ここに……」
次に俺の口を付いて出たのは、そんな陳腐な疑問だった。
ここは俺や封伽の家からそんなに遠く離れているわけでもないけれど、用もなく偶然に出会うほどの近場でもない。俺だって、御帳さんとのデートが無ければ来ていなかった場所だ。
こんな状況で最初に口にする台詞かと言われると微妙だが、しかし全く的外れな質問というわけでもないだろう。
だが封伽は俺の疑問に、顔を赤らめながら「そ、そんなのどうだって良いでしょ!?」と喚く。
言葉に含まれる割合は、怒りよりも羞恥が上回っている気がする。どうやら、触れてほしくない箇所だったらしい。
何だろうな……封伽の性格や状況から察するに、「約束で決めたこととはいえ、俺と御帳さんが二人切りでデートするのを放置するのは嫌だった。だから御帳さんの住んでいる辺りで、隠れてデートの様子を覗き見ようと考えていたけれど、詳しい集合場所や行動予定を知らないから計画は頓挫。かと言ってUターンして帰るのも癪だから、あてもなくブラついていた」と、こんなところだろうか。
ピタリ賞の自信は無いが、良い線はいってると思う。採点をお願いしたところで、拒否されるだけだろうけど。
けれど、口には出さずとも「都合の悪いことを考えている」ことは伝わったらしく、封伽はムスッと頬を膨らませた。
そして「それより、」と話題を変更してくる。これ以上この話を続けるべきじゃないと思ったのかもしれない。
「それより、今日は御帳さんとのデートじゃなかったの? アンタ、一人切りっぽいけど」
「──」
けれど理由が何にせよ、放たれた質問には、今の俺の胸を穿つには十分過ぎる威力があった。いや、状況的に訊かれない方がおかしいくらいの、当然の疑問ではあるのだけれど。
「あ、ああ……ちょっと、色々あってな」
「ふうん……」
咄嗟にそんな誤魔化しを試みるが、封伽は全然全くこれっぽっちも納得してなさそうだった。そりゃそうだ。こんな言葉で納得できるのなら、最初から訊いてこないだろう。
封伽は実に不満げな態度で、俺に視線を送る。封伽もまるっきりの無関係ではないところが無くはないし、詳しい説明を求めて根掘り葉掘り事情を訊かれることになるのだろうか。
想像しただけで気が滅入ってしまうけれど、残念なことに、封伽に問い詰められてしまえば俺に拒否権は無くなってしまうのだった──って、違うのか。
あれは俺の考えすぎでしかなかったわけで、実際はそんなことはなくて……駄目だ、頭がうまく回っていない。
──なんて俺がゴチャゴチャと考えていると、俺の方を向いていた封伽が、何かを諦めたように大きな溜息を漏らした。
そして、ギリギリ聞こえる程度の小さな声で、何事か呟く。
「うーん……そっちはそっちで気になるけど、でも今はそれどころじゃないしね……」
どうやら何か別に優先すべき用事があって、それで俺への追及を断念したということらしい。正直、すごく助かる。
「急ぎの用事があるんなら、早く行ったらどうだ?」
ならばと、俺は封伽にそう言った。
口にしてから、少し突き放すような口振りになってしまったかと不安になる。だけど、これ以上ここで封伽と話し続けるのは、何か訊かれやしないかと怯えるだけの自分が嫌になって、苦しすぎるから。
もっとも、いくら急ぎの用事だったところで、今の世界においては、時間なんてもはや何の意味も持たないのだけれど。
とはいえ、それは封伽には認識できない事情でしかない。
「いや、うん、急ぎの用っていうか、時間はもうあんまり関係なくなっちゃってるんだけどね。そもそもドコに行けばいいのかすら分かんないし……でも、そうね。そうさせてもらうわ」
俺の言葉に、封伽はそんな風に曖昧な相槌を打つ。
封伽らしくもなく、いまいち要領を得ない台詞ではあったけれど……とにかく、この場を離れるつもりらしいのと、俺を引き留めるつもりが無いらしいことは確かだった。
封伽の気が変わる前に立ち去ってしまおうと、俺は「じゃあな」とだけ伝えて彼女に背中を向ける。足を前に進めたからって、今の俺はどこに行けるというわけでもないけれど。
「あ、ちょっと待って。その……一個だけ訊いていい?」
その背中に、封伽から声が掛けられた。俺は足を前に向けたまま、身体だけ振り返って「何だ?」と先を促す。
すると封伽は躊躇いがちに、「あ、えっと……こんなこと訊いて、アンタに頭おかしいと思われるのも嫌なんだけどさ……」と前置きした。
封伽がこんな態度なのは珍しい。よっぽど突飛なことを尋ねるつもりなのかと、思わず身構えてしまう──とはいえ不本意ながら俺は既に、大抵のことなら動じないし信じてしまえるようなメンタリティを獲得しちまってるつもりだが。
けれど封伽が告げた言葉は、そんな俺の予想をも遥かに上回るそれだった。
本人いわく「頭おかしいと思われ」かねない覚悟を決めて、思い切った様子で、封伽は告げる。
「さっきからずっとなんだけどさ──この状況、『変』だと思わない? その……具体的には、時間とか」
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