涙の大河

 向こう岸が見えないほどの大きな河がゆったりと流れていた。その流れを見やり、一人の老女が涙を浮かべている。

 どうかしたのですか、と尋ねると、彼女は首を横に振り「いつも思い出してしまうのです」と口にしてから、それを語り始めた。


 かつてこの地域には富希村ふきむらと呼ばれる小さな集落があった。七龍川しちりゅうがわが運んでくる恵まれた土は、この地で作物を育てるのにうってつけだった。

 詠華えいかはそんな村にとついできた女性で、今日も畑の手入れに精を出していた。

「あら、あなた。お帰りなさい」

 彼女の夫長明ちょうめい鍛冶職人かじしょくにんをしており、あれこれと頼まれては器具の修繕をしていた。ただ最近、その仕事を全て放り出し、一人でどこかに出かけているようなのだ。何をしているのかと尋ねても彼は「お前には関係ない」の一点張りで、気難しい人だと感じていたのが最近はこの人と一緒にやっていけるだろうかと、不安ばかりが詠華の心に影を落としていた。

「そういえば今年も雨季が近づいてきましたね。また去年のようなことにならなければ良いのですが」

「村の人間どもはいつもそう言っておきながら何一つ対策を講じてこなかった。雨季になればいつ洪水になるだろうとびくびくおびえ、いざ村が流されれば天災だとあきらめる。俺はそういう村の奴らが嫌なんだ」

 そう言うと、さっさと家に入っていってしまった。


 雨季になり、村は雨の日が多くなった。

 詠華は家の中でつくろいものをしながら、こんな天気にもかかわらずに出かけていった夫の身を案じていた。

 そこに近所の春未しゅんみあわてた様子でやってきた。

「詠華さん、上流で村が一つ流されたそうよ。村のみんなが避難ひなんしようって」

「そうなんですか。ただ、まだ夫が出かけたままで」

「旦那さんだって考えてるわよ。とにかく大事なものだけ持って、早く逃げるのよ」

 それでも詠華は雨の中、しばらく夫の姿を探した。しかし彼はどこにも見当たらず、言われるがまま春未たちと共に村を離れた。

 それから雨が止むまでに、実に十日余りを要した。

 誰もが村が流されているだろうと思って戻ってきたのだが、そこには水たまり一つない、以前のままの村の姿が残っていた。

 村の皆は口々に今回は神様が見逃してくれたのだと感謝した。だが詠華が後で聞いた話では、川が氾濫はんらんしなかった訳ではなかったそうだ。村の方に水が流れないよう、誰かが石と鋼で水路を造っていたらしい。

 詠華は夫の仕業しわざなのだと直感したが、あの日以来、彼は二度と村に戻ってこなかった。

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