そして悪魔に魅入られる
ドイツ、ミュンヘンに留学。十六歳。
日本に残って音高、音大と進み、バイオリンの勉強を続ける道もあった。けれど、私はなんとしてでも行ってみたかったのだ、ドイツへ。
なぜなら魔法の呪文、Toi, toi, toiはドイツの言葉。ドイツは幸運のおまじないの国だから。
ミュンヘンでは当たり前のようにトイトイトイの声が掛かる。音楽でも演劇でも、街中のいたるところで。
私からも積極的に、たくさん声掛けをして過ごした。独りぼっちで始まった留学も、魔法のトイトイトイで、みるみる仲間が増えていった。ドイツ語は難しかったけれど、たいていのドイツ人は英語が堪能で、私の陽気なカタコト英語を好意的に理解してくれた。
あるとき何かの拍子で、ミュンヘン音楽大学受講生仲間の一人、サラがこんなことを語ってきた。
「Toi, toi, toiは悪魔を追い払うためのおまじない。幸せな人をねたんで近づく悪魔を追い払うために言うの。昔は肩越しにツバを三回吐くのがならわしだったんだって。でもツバだと汚いでしょ? だから代わりに言葉でトイトイトイって言うわけ」
幸せの裏には悪魔が隠れている。私はまた一歩大人に近づいた気がした。
◇
エリザベート王妃国際コンクール。十七歳、私の誕生月。
それは、ベルギーの首都ブリュッセルで行われる世界三大コンクールの一つ。
毎年開催されるコンクールではない。基本的には四年間隔だけど、三年間隔のときもある。だからチャンスがあれば逃してはいけない大切な催しだ。
「
楽屋で暗譜の確認をしていると、突然声を掛けられた。しかも日本語で。ここはブリュッセル、知人は一人もいないはず。楽譜から目を上げると、真っ赤なドレスを着た堀井リエが立っていた。
「リエ……ちゃん!? どうしてここに?」
「私も出るのよ」
不思議に思った。ファイナリストの中にリエの名前はなかったはず。それどころか日本人の名前は、私以外にない。
「公式資料ではね、私はアナ・ライターになっているから。アナがドイツ名、堀井リエは日本名」
「リエってハーフだったの?」
「知らなかったでしょう」
「びっくりだよ、道理で色白だと思った」
リエは話し込んでみると、気さくでとても良い子だった。中学時代、私から一方的にライバル視して敬遠したことが悔やまれる。多感な時期をいい友達として過ごせたのに。もったいないことをした。
やがて出演の時間が来た。
「トイトイトイ!
リエは私をハイタッチで送り出してくれた。
曲はブラームスの「バイオリン協奏曲」。耳が肥えた人たちに聴かせるのは恐い曲。でも、チャレンジすることなしに後悔はしたくない。わたしは臆することなく挑み、そしてコンチェルトを弾ききった。
リエはシベリウスの「バイオリン協奏曲」を弾いた。ずいぶん男性的な曲を選んだなと不思議に思った。けれど第二楽章を聴いて疑問は氷解した。リエはこの楽章を弾きたかったのだ。
彼女の演奏はホールを完全に支配した。私の中の音楽家としての血が騒ぎ始める。説得力のあるフレーズに引き込まれる、伸びやかな重音がせつない男女のデュエットを奏でる。甘い旋律が次々と紡ぎだされ、感情が昂ぶる。リエが奏でるメロディは留まるところを知らない。幾度も幾度も波が押し寄せ、繰り返し心を揺すぶられる。
会場スタッフが泣いていた。太ったおばさんも涙をぬぐっていた。
リエは完璧だ。こらえきれなくなった感動の涙があふれ、私の頬を伝って流れ落ちる。爽快な気分だった。
すべてのファイナリストが演奏を終え、やがて結果が発表される。
コンクールの選考経緯がどうであったかは知らない。とにかく結果は出た。
私が一位、リエが三位だ。
どうして?
選考委員は耳が悪いのか。感性が錆びついているのか。どう考えてもリエが一位であるはずだ。私は再審査を請求すべきか思い悩んだけれど、一位の者が選考のやり直しを求めるのは馬鹿げている。かえってイカサマを疑わせかねない行為ではないか。
そこで恐ろしいことに気づく。
私はリエに「トイトイトイ」のおまじないをしていなかった……。
それが原因じゃないと否定する理性がある一方で、留学の間、ことあるごとに思い出しては心をチクチクと傷めた。
◇
日本での凱旋コンサート。十八歳になっていた。
エリザベート王妃国際コンクールで一位を獲得して以来初めての日本。
生まれ育ったふるさとでの晴れ晴れしい舞台。心が躍る。順調な私の人生に幸あれ。
コンサートが始まる十五分前。予鈴が時を告げ、着席を促すアナウンスが会場内に流れる。
まだオーケストラの団員が舞台袖に群れている頃合い。私は混雑を嫌って、控室にいた。ステージ脇の控室なので、声を掛けられればすぐに舞台へ出られる。
待機していると緊張でのどが渇く。スタッフさんにお願いして、急ぎペットボトルのミネラルウォーターを手配してもらった。ボトルなら舞台袖まで持っていけると考えたからだ。
「頑張ってくださいね」
水を運んで来たスタッフの女性が声をかけてきた。ペットボトルとストローを手にしている。ストローはルージュが落ちないようにとの配慮だろう、気づかいが嬉しい。
「ありがとう」
感謝の気持ちをこめて、ニッコリ大きな笑顔を返す。手早くボトルキャップを開けストローを差すと、水を一口含んだ。
五分前の本鈴が鳴った。舞台袖で待機する時間だ。
何かがおかしい。水を飲んだのに喉の渇きが癒えなかった。一度、舞台に上がったらトイレには行けない。そのため昨晩から極力水を控えていた。そのせいだろうか。
舞台袖へ出ると、やはり控室から持ち込んだペットボトルが役に立った。私は音響反射板の影に隠れて一口飲む。行儀が悪いけど仕方がない、この場所なら観客席から見えないので問題ないはず。
水を口にし、気分が落ち着いたところで、ようやく私は違和感の正体に思い当たった。
『トイトイトイ』だ。今日はまだ一度も言われてない……。
誰からも魔法のおまじないをかけてもらっていない。
自分で言えばいいのかしら? でもこれまで、そんなことをしたことがなかった。周りの誰かしらが、必ず気を利かせてくれたから。
誰かトイトイトイと言ってくれないかな。人を求めて、後ろを振り返ってみる。数人の舞台スタッフが音を立てないように、忙しく立ち働いていた。誰とも視線が合わない。そうだ、舞台監督を務めるステージマネージャーはどこだろう? 彼ならきっと私の不安な気持ちを理解して、おまじないをかけてくれるに違いない。私は舞台袖を端から端まで目で探してみる。いた! 彼は照明係と激しい手振り身振りと険しい表情で、無音の口論を行っている最中だ。
ステマネもダメとなると、次なる望みはオーケストラ団員。私は舞台袖のカーテン越しに舞台をのぞいてみる。団員の背中しか見えなかった。一番近いファーストバイオリンは皆、指揮台に向かって座っているから当然といえば当然。
額から嫌な汗が吹き出す。一方で喉はまたカラカラに乾きだした。
天井に目をやると、まぶしいライトが目を刺す。ああ天井を見なければ良かった。大きな照明器具がいくつも吊り下がっている。どれも不安定に揺れているじゃない。ワイヤーの取り付け方を間違ってない?
ステージに目を戻すと、バイオリン奏者が座る席と舞台の端までが狭いことが気になった。どうしてこんなギリギリのところに椅子を並べるのだろう。私は裾の広がったドレスを着ている。もし舞台の端を歩いて足を踏み外したら、観客席に真っ逆さまに転落する。なぜこんなに狭いところを歩かせるのだろう。
ところで調弦は出来ていたっけ? そういえば昨日はペグの調子が悪かった。完璧にチューニングしても、ちょっとした刺激で緩んでしまうときがある。今日は大丈夫だろうか? 凱旋コンサートなのに。
大丈夫。大丈夫と心に言い聞かせても、次から次へとたわいもない不安が不規則に湧き上がってくる。とめどなく、泉のように。
ああ、指揮者がステージへ出て行ってしまう。観客からの盛大な拍手を浴びている。満面に笑みを貼りつかせたステマネが、しきりに両手を大きく横に払い、空気を舞台へと送り出すかのような仕草をしている。私に早くステージへ出ろというジェスチャーだ。
どうしたらいい? 誰かトイトイトイと言って!
ふと私は留学中に聞いたサラの言葉を思い出した。トイトイトイは元々肩越しにツバを吐く魔除けの仕草だったことを。人前でツバするなんてどうかしてる。しかし、あえてツバを吐いてでもこのコンサートは成功させたい。
意を決してはみたけれど、口がカラッカラに渇いてツバが出ない。
「水……」
つぶやく私の背後からペットボトルを差し出してくれた女性がいた。さっきの気が利く女性スタッフだ。
礼を言う間も惜しんで、ゴクリと一口飲み込んだ。それでもなお渇きが引かない。脈絡もなくリエの顔が浮かぶ。トイトイトイと言われなかった彼女もこうやって悪魔に魅入られていったのだろうか。でも私は負けない。負けたくない。
ペットボトルを握りしめ、右肩越しに背後を振り返る。
目と目が合った。悪魔と。私の後ろに大きな悪魔がいた。
悪魔は血の色に濡れた瞳を光らせながら「トイトイトイ」とつぶやいていた。
いや違う、悪魔がおまじないを言うわけがない。「来い来い来い」と私を手招きしているのだ。
私はペットボトルを握り直し、悪魔の顔をめがけて思い切り水をかけた。悪魔は
◇
観客を退去させ終えたホール。
舞台袖に群がるオーケストラの団員たち、皆一様に肩を落としていた。スタッフの若い女性が床にへたり込み泣きじゃくっている。その群れをかき分け近づいてきた男たちがいた。ホールの管理事務所から駆け付けた警備員二名だ。
「こりゃひどい、」
年かさの警備員が、あたり一面に立ち込める白煙と肉の焦げた匂いに顔をしかめた。
「このお嬢さん、どうしてまた舞台制御盤に手を突っ込んだのかね」
「床が濡れてさえなければ、たとえ手で触れたって感電することはないんですがねぇ。どうして水なんて
若い方の警備員が受けて応える。
年かさが無線機を握って、管理事務所と交信を始めた。
「とにかく警察呼んで、警察。え? 救急車? いらないよ。もう手遅れだ」
しんと静まる舞台袖に、泣きじゃくるスタッフの嗚咽だけが響き渡った。
終
トイトイトイ。 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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