教師Ⅰ

「先生、この言葉、わからない」

「ではスミス様、この辞書を使ってみましょう」


 このような会話をする度に、初めて出会った2年前に比べてだいぶ変わられたと感慨深い。


 当時この金色の髪を持つ子どもは、わかりやすく大人から見放されていた。

 風呂にはほとんど入っていないために体臭がひどく、服も着替えていないようで油じみていた。椅子に座ってきょろきょろと落ち着きなく目を泳がせ、時折私の方を見るが、目が合ったと思ったらすぐに逸らされた。痩せこけている身体が小刻みに揺れている様子は、ひどく病的だった。

「はじめまして」

 当時は6歳ということだったが、私のかけた言葉に反応はしても、答えることは無かった。

 それが一国の王子の姿だった。

「……少しずつ、私がお教えいたします」

 生来、憐憫れんびんの情にうすいと自覚している私でさえ、哀れに思ったほどだった。


 それから私は手や身体が汚れたら洗うこと、挨拶をすること、歯を磨くこと、決まった時間に行う日々の細々としたこと――本来だったら母親や乳母などの身近な大人から教えられることを、スミス様にお教えした。

 最初は自身が他者に構われることに戸惑っているご様子だった。人に触られることを嫌がりもした。それから少しずつ、関心を向けられることに喜んだり嫌がったり反発もした。

「お、あよぅ」

 そう朝の挨拶をしてくださったのは、出会ってから半年程たった頃だったか。初めて意思をもって言葉を伝えてくださったのがその時で、不覚にもおのれの目尻に涙が浮かんだことを覚えている。

 おおよそ赤子の時に経験する成長の過程を一気に経た今では、素直に私の言葉を聞き、答えてくださるようになった。さらには過去を取り返すかのように、あれこれと急速に知識を吸収していった。


「スミス様。そろそろ昼食の時間でございます」

「うん」

 何度か声をかけて、スミス様はやっとお顔を上げてくださった。最近は一度何かに没頭すると、外からの音が聞こえなくなるようだった。

「この観察記録はとても面白い。ランタンのようなこの花、僕にも育てられないかな」

「ラドリンでしょうか? 寒冷地帯で育てられている植物で、温暖なこの地域で自生している例は少ないですね」

「館の北ではだめかな。薬にもなるし、色も鮮やかで目にも楽しい」

「では種か苗を用意できるか、庭師に確認いたします。しかし、まずはご自分のために、昼食をとってくださいませ」

「うん。昼食後にこの本の続きを読んでもいい?」

「もちろんでございます」

 そこでようやく手にした本を閉じられた。

「今日の昼食は何?」

「確かキッシュがございます。豆の冷製スープも」

 それを聞いたスミス様はお腹をさすった。

「はぁ、なんだか僕、お腹が減っていたみたいだ。早く食べよう」

「では、準備をいたしますのでお待ちくださいませ」

「わかった」

 私は台所へと向かう。そこにはいつも食事が2人分用意されている。

 侍女は私がスミス様の世話をし始めると、より一層彼に近寄らなくなった。過去に王妃様付きの侍女だった彼女らと、スミス様との間には悲しい因縁があることは知っていた。だから何も言わなかった。

 部屋に戻ると、スミス様が身なりを整えて椅子に座っているのを確認してから、皿をテーブルに並べる。育ち盛りの子どもらしく皿の上の料理に目が釘付けになっている様子を見て、好き嫌いを治すのに苦労したあの日々が報われた気分だ。

「さあ、お召し上がりくださいませ」

 私もスミス様の目の前の椅子に座り、ともに食事を始める。ほぼ毎日の朝と昼は向かい合った席で食事をする。主従の立場では良くないとわかっている。しかし独りで食事をされる夕食は、気が乗らないのか食欲がわかないのか、よく食事を残される傾向にある。また、同席をとがめる人がいないということもあり、「いつかは……」と思いながらも一緒に食事をとり続けている。

「先生、そろそろ今読んでいる本はすべて読み切ってしまう。新しい本を持ってきてくれないか?」

「そうですね。ご用意いたします」

「それで……その、今までとは趣向の異なる本は、ないの?」

「趣向、ですか」

 スミス様から思いもかけない言葉が出てきた。

「うん。植物の本も興味深いけれど、他にも色々と読んでみたいな、と思って」

「さようでございますか。……すぐにとはいきませんが、確認してみましょう」

「うん。楽しみにしている」

 スミス様が簡単な読み書きと算術、そして基本的な礼儀作法について習得された今、上の許可を得て草花の育て方についてお教えしている。植物の分野以外の本をお持ちするために、どう上司を言いくるめて許可を得ようかと心中で頭を抱えた。

 スミス様が触れることができる知識は決められている。王家や貴族、はたまた市井の暮らし、風俗、商いーーそして神話。あらゆる可能性を考えて、安易に新しい物事に触れさせてはならないと厳命されている。政治や戦、外交に関係のある事柄がことさら遠くに置かれているのは、万が一にでも政治に興味を持たれては困るから。

 お立場の難しいスミス様に”王族のための教育”を受けさせるために教師がつけられたのは表向きの話である。民衆には隠されているとはいえ王族の一員であり、薄汚れ呆けているスミス様を良しとしない者がいたこと、二人の侍女だけではスミス様のお世話が大変なため男の手が必要であったこと。これが本当の理由であり、実際のところ王族としての正しい教育など期待されていない。


 私はこのままでよいのかと、ずっと煩悶はんもんしている。

 軟禁状態とはいえ、スミス様がこの屋敷の中で衣食住に困ることなく、穏やかに生を終えることができるのなら良いと思っている。しかし今のお立場は危うい。いくつかの思惑と問題の先送りの結果、やっとこの生活が成り立っているだけで、ひと度どれかが崩れれば、命すら危険だと思っている。

 それならば野に下り広い野山に隠れて細々と、しかし自由に暮らす方が幸せではないのか。その覚悟で新しい知識を学ぶよう、スミス様に進言する必要があるのではないか、と思うのだ。

 懸念は大いにある。余計なことを教えている事が知られたら私は罰せられ、二度とスミス様のお近くにはおれないだろう。スミス様は知識を得るあらゆる機会を、完全に失ってしまう可能性が高い。またこの館で孤独に椅子に座り、身体をゆするだけの子どもに戻りかねない。それだけは避けなければならない。

 私はずっと迷っていたが、どうしてもその先に一歩を進めることをためらっていた。


 それは雷雨がひどい初夏の日だった。

 昼頃から雨が降り始め、ひどくなる前にとスミス様の部屋を退出したが、館から出る直前に、傘をスミス様の部屋に忘れたことに気づいて舞い戻った。

「スミス様。失礼いたします。傘を忘れてしまい取りに戻りました。入らせていただけないでしょうか」

 しかし返事は無い。本に熱中しているのかもしれない。

 本来であれば翌日に改めるべきだが、図書館で借りた本を持ったまま雨に濡れて歩きたくはなかった。しばし逡巡した後、失礼は重々承知していたが、許可を得ぬまま入室することにした。

 きっとスミス様なら笑ってお許しくださるだろう、と思ったのだ。そこまで私達の関係は気安いものになっていた。


 予想に反してスミス様は部屋にはいなかった。壁に立てかけていた傘を取りながら、私は不思議に思っていた。スミス様は基本的に自発的に自室から出ないからだ。

 たまに館の中を散歩することもあるのだろう、と自分を納得させていた。しかし、何かが違う、と感じた。よくよく周囲を見渡す。

 大きなベッドに、古いけれども高級木材をなめらかに削って作られた棚や椅子。壁一面に天井から床まで垂れ下がった大きなタペストリー。

「空気が動いている?」

 水気を多く含んだぬるい空気の中で、少し冷えた風がふわりと私の首を撫でた。窓を見てもカーテンはピクリともしていない。しばし考え部屋をウロウロと捜索したのちに、壁のタペストリーをめくりあげると、そこには壁の色と同色の扉があった。冷たい空気は、わずかに開いているその扉から漏れていた。

「隠し扉か?」

 スミス様が何者かに連れ去られたか、と一瞬思ったが部屋が荒らされた様子も無い。それでは、と私は興味が引かれるままに扉を開けて中へと進んだ。狭い通路は私の背の高さくらいで、横幅も人が一人やっと通れるくらいだった。窓はなく、扉から漏れ入る部屋の光の他はなにもない。その光も自身の身体で遮ってしまっていて進む先の足元は見えない。しかし、よくよく目を凝らして前を見ると、うっすらと一筋の光が見えた。その光を目指して10歩程行くと木製の扉があり、それを開けて私は部屋の中へと滑り込んだ。

「本棚?」

 出た先の思いがけない部屋の正体に思わず呟いてしまい、あわてて口を閉じる。

 天井窓のある部屋には、見上げる程背の高い本棚がびっしりと並び、そこには本が詰め込まれていた。長く掃除をしていないのだろうか、かび臭い部屋だった。

 薄暗い部屋の奥で、ろうそく灯りが揺らめいている。本棚の陰から覗いてみると、長椅子に座って窓からの光と、ろうそくの明かりを頼りに本を読んでいるスミス様だった。手に持っているはどんな本かはわからないが、ずいぶんと熱心に読んでいるようだった。


「スミス様?」

 そう声をかけると、はっとしたように顔を向けた。私だとわかると途端に安心したようだったが、わずかに不安が表情に残っていた。

「先生。どうしてここに」

「傘を忘れて部屋に戻ったところ、スミス様のお姿が無くて探しておりました。そうしましたら、こちらに通じる通路を見つけまして」

「そう……」

 スミス様が不安げな様子なのは、この部屋について詰問される事を心配しているのだろう。

「驚きました。このような場所がこの館にあるなんて」

「うん。随分前に、偶然見つけたんだ」

「どのような本を読んでいらっしゃるのですか?」

「この本。知ってる?」

 手元の本の表紙を私の方に向けて見せてくださった。

「はい。市井によくある冒険譚でございます」

 双子の冒険者が不思議な事件を解決しながら世界を旅する物語で、私も内容を知っている。スミス様の顔が暗い。

「僕はこの本を知らなかった。きっとこの部屋を見つけなければ、この存在を一生知らなかった」

 その言葉には否とは言えなかった。スミス様もご自身のお立場について、色々と思うところがあるのだろう。

「僕はこの本にあるような事を、自分の目と耳で見聞きすることもできないの?」

「スミス様、これは空想の物語でございます。実際にこの本のような事は起こりません」

「その言葉が真実なのかも、僕は判断が出来ない。できないんだ……僕は」

 目を伏せたままのスミス様を見て、これは不幸な事だ、と思った。

 スミス様がこの館に閉じ込められていることではない。館の外には見た事もない広大な世界があり、魅惑的な言葉でそれらについて綴られている本を読んでしまった事だ。

 本の中の冒険者が夜盗相手に派手な立ち回りをし、火を噴く竜と出会い、魔人と遊戯をする夢物語のすべてが事実としてこの世の中にあり、外にいる人間ならば経験しうる事だと、スミス様の心を掴んで離さない。

 ――それならば。

「そうですね。今までの私の経験において、この物語のような人生を歩む人間はいないと言えましょう。ただ、私とて世界のすべてを見てきたわけではありません」

 続く言葉を言えばスミス様はきっと頷くだろう。それがスミス様の不幸につながるかもしれない。迷う。今、この時がスミス様の人生の転換期であることを確信していた。そしてそれを私がもたらす事に逡巡しゅんじゅんもしていた。

 脳裏に、薄暗く汚れた部屋で虚空に目をやり、ゆらゆら揺れている子どもがうつる。その瞳は――。

 その瞬間、鋭い光が部屋の中に入り、そしてすぐにドオォン!と重たい雷鳴が聞こえた。それが頭にあった暗い記憶を振り払っていた。

「……ですので、見に行きませんか。一緒に」

「え……?」

 思いもかけない言葉に驚いているご様子だった。

「簡単な事ではありません。準備には長く時間が必要です。しかしすべてが整いましたら、一緒に外へと行きませんか」

「ほ、本当に? 本当にか?!」

「はい。しかし重々承知していただきたいことは、一つが外の世界はこの本の様に楽しい事ばかりではありません。辛く苦しいことも多々あります。一度外に出ればどんなに後悔しても、ここには戻ってこられないという覚悟が必要です。もう一つは、準備をしている期間に少しでも迷いが生じるようでしたら、外に出ることは諦めることです」

 私の言葉を聞くと、スミス様はむっとして少し声を荒げるように反論してきた。

「……迷うにきまっているじゃないか。僕はここ以外を知らない。知らないんだ。この本の冒険者たちも冒険を始める前は不安を抱えていた。悩んでもいた。あんな勇敢な者たちでさえそうなのだから、僕が迷わないわけ無いじゃないか。先生の言葉はずるい!」

 驚いたと同時に笑いたくなった。久しく大人しいスミス様ばかりを見ていたから、根っこにある気性を忘れていた。武王様の子どもであるスミス様は本来、激しいお方である。カッカと怒りわめくことはしないが、心の中のお気持ちを熱いまま表に出すことに迷いがない。

「わかりました。外に出る準備期間は長く必要です。スミス様ご自身のお身体ももっと強くならねばなりませんし、ご年齢の問題もあります。あまりにお若いと人攫いに目をつけられたりもします。しっかりとその間にその不安や迷いと向き合ってください。蓋をして見ないふりはいけませんよ。準備が整い、迷いがあってもそれでも行こうと決めた時に、出発いたしましょう」

「ああ。冒険者たちはちゃんと不安にも迷いにも、試練として向き合ってきていた」

 どうやら、この本の人物を冒険の師として仰ぐつもりらしい。私も精進せねば物足りぬ師であるとスミス様に放り出されかねない。気を引き締めねば。

「それと、これは私達ふたりだけの秘密にしてください。どのような者が敵なのかわかりません。この計画が漏れたら私達は離ればなれ。二度と会う事は叶いますまい」

「そうだな。大切なものは隠しておかないと。取り上げられてしまう」

 妙に実感がこもった言葉に思わず問いの言葉が出る。

「誰にですか?」

「侍女の二人にだ。艶々した虫や庭師にもらった花を隠し持っていたら、見つかって取り上げられた。昔から、あの二人はよく僕から物を奪う」

 私にはだいぶ慣れた半面、あの侍女の二人にはいつも緊張を解かずに接しているとは思っていたが、そこまで警戒していたとは知らなかった。その用心深さはこれからスミス様が生きるために必要なものであると言える。

「先生。この本の部屋の事も、どうか内緒にしてほしい」

「もちろんでございます。一切の他言はいたしません。もちろん、外にいる兵士にも」

 そう言うと安堵したような顔をした。そこでようやくスミス様が長く緊張していて、やっとその張り詰めた糸を緩めた事に気づいた。私はいささか人の機微に疎く鈍感なので、改めなければならない――と思ってから長くたつのだが、どうも改善はされていないようだった。

「さて。これから長い長い準備期間に入ります。そうですね。少なくとも4年は覚悟してくださいませ」

「そんなにかかるの……」

 失望の声があがる。

「まず今のままでは外に出た途端に病に倒れかねません。身体を作り、身を守るすべも身に着けていただきます。また、市井における作法もございます。生活の糧となる生業なりわいを持つために勉強もしなければなりません。慌てずに慌てずにいきましょう。私の方でも準備が必要でございます。拙速に動いてしまっては失敗してしまいます。かの冒険者も待たねばならぬ時には、辛抱強く待っていたのではありませんか」

 そうお伝えするとスミス様は確かに、としたり顔で頷かれた。

「そう。不思議な炎の鳥を捕まえる時、彼らは湿地の中で何日も隠れていた。身体中かゆくても我慢して、ずっとずっと現れるのを待っていた」

「そうです。好機をまたねばありません。頑張りましょう」

「うん」

 スミス様のはちきれんばかりの笑顔を見て、私は歓喜の声を上げそうになった。

 あぁ、神の愛し子よ! あなたは幸せにならなくてはいけない子。自由に羽ばたきたいと願うのなら、私が必ず叶えて差し上げます。

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