20話 レッドゴールデンレトリバー

「あ、やっぱり来たんだ」


 京華さんの部屋に入ると、美央子はパソコンのある机に備え付けられた、腰への負担が最小限であろうふかふかの回転椅子に腰掛けて、僕を見ると微笑んでそう言った。憔悴しているなどとは思っていなかったが、これはこれで、不自然なまでにいつも通り……それにしても静かな部屋だな。あるものと言えば机やパソコン、椅子くらいで。作家というには本棚すら存在しない寂しい一室。


「すっきりした顔してるね、優太。京華お姉ちゃんとはどんなお話をしたの?」


 こんな部屋で一人で、彼女は何を思って、誰を思っていたのだろうか。


「美央子の事を話してたよ」


 分からないけれど、今からは一人にしないように、一言も聞き漏らさないように僕は一歩、また一歩前に出る。


「へえ、今日は正直に言ってくれるんだね」


「うん。だから君にも正直に話して欲しい」


 僕が言うと、彼女はくるっと椅子を1回転させ、笑っていた。らしくない引き攣った大笑いだ。机を叩いて、時折息を引く音がしていて、まるで嗚咽にも思える。


「私が今更何を正直になるの? もう何もかも終わったんだよ、優太」


 似合わない。


「私と優太が望んで、終わらせたんだよ」


 この嘘つき。


「君の口振りは少し大袈裟過ぎる」


「優太はそうでも、理夢ちゃんはどうかな? そんな怪我を、それも好きな人に負わせてさ、平気でいられると思う? 時間が解決してくれる? 今まで通りでいられるかな? 優太がどれだけ『大丈夫』って言っても、あの子は心に深い傷を残したまま、だよね?」


 続々と突き付けられる疑問符は、1つ1つに殺傷力が込められていた。相変わらず痛い所を的確に突くのが上手えな。しかし、まあ何というか夕方の時よりは肩の力を抜いて喋れている気が、余裕が少し生まれている。もしかすると……心強い味方がここにいるから、かも。


「根拠が薄いよ。君のその期待は、結局この怪我に依存したものだ」


 僕は頬の、円香が「面倒臭い」と手当をしてくれた絆創膏に触れて言った。


「幸い深いものじゃないからすぐに消えるし、腕は痛むが傷は無い。見えなければその内誰も、僕自身ですら気にならなくなるし、気にしなくなる。だろ?」


 美央子の口が僅かに『むっ』って、可愛らしく言い淀んだ。初めて先手を打てたようで正直気分は悪くない……が、僕は言い負かす為に、口喧嘩をする為にここに居る訳じゃないからどうでもいい。


「優太は……何しに来たの」


 そうして美央子は、疑念たっぷりの視線を睨むようにして僕に送り付ける。なるほど。確かにこんなものを旅行中ずっと向けられていたら、美央子が僕を茶化したくなる気持ちも分かる。


「話し合いがしたい」


「何の為の?」


「理夢と仲直りして欲しいんだ」


 言うと、彼女の瞳が更に鋭く尖った。


「理夢ちゃん、と?」


「僕の君に対する思いは変わっていない。今でも大切な友達だと思ってる。円香は……そうだな。多分ちょっと煙たく思ってるけど、殆ど気にしてないだろう。だから後は君達2人の問題なんだ」


 彼女から放たれている雰囲気は、疑心を通り越して最早敵意に近いものに感じられた。


「友達、ね」


 完全にコントロールされた破裂寸前の激情。冷静な害意は、あの時の理夢に似た様子。


「私はもう仲直りなんてするつもりなんてない」


 しかし膨れ上がっている事に変わりはない。


「違う。君は諦めているだけだ」


 ならば好機。そして恐らく僕の……仕返しが出来る最後のチャンス。


「あの子に期待していたことは終わったの、だから用済みだって分からない?」


「それも違う。君がそう思いたいだけ。言い訳だ」


「なんで? 友達で居る必要性はもうないんだよ」


「絶対に違う。もう友達では居られないって勝手に決めつけているだけだよ」


 首を横に振って否定して、詭弁でも無理矢理否定し続けた。話し合いをする気のない彼女へのささやかな仕返し。これをやられて気分が良い人間は居ないだろう。


「うるさい……うるさいなあ、優太」


 まあやった側も全然気持ち良くないけど、だってこれくらいしないと彼女は混乱してくれないし、失言をしてくれないだろうから仕方無い。


「どうして言い切れるの? 私のことなんか、何も知らないくせに」


 そう、待っていたのはこの態度とこの『失言』だ。だがいざ吐き捨てるように、突き放すような目付きで本当に言われてしまうと……ああ、本当にキツい。もう二度とやりたくない。胃がもたれる。


「君とはこの1年弱、ずっと一緒に居たんだ。良く知ってるさ」


 彼女は何か、僕の言葉にまた『失言』を返そうとしたらしく口を開いたが、やがて閉じたのを確認したので続ける。


「君は、理夢を一目見た瞬間に同類だと悟ったって言ってたね。友達になれば、自分からは誘い辛い僕を誘って、ゴールデンウィークに勝手に旅行を計画してくれると。転校を繰り返しているから、前からある繋がりを優先して協力してくれるだろうと『期待』したって、言っていたね」


 彼女は黙っていて、僕はまた続ける。


「君はそれらを『期待』とやらで纏めて、全てその通りになったと」


「そうだよ……だから何?」


「だが本当はこれ、全部偶然だろ?」


 最初に結論を口にすると、彼女の目からスッと力が抜けていくのが分かった。割と当てずっぽうだったが、何とか当たりを引けたらしい。


「京華さんがどうして僕達の引率を引き受けてくれたのか……僕は何か明確なメリットがあるからだと思っていた。会社経営者でお忙しい筈の大人が、何の利益も無いまま見知らぬ子供を預かるなんて面倒は考え難いって。だからさっき理由を聞いて、僕は恥ずかしくなったよ。だって単純な事だったんだ。ただ『可愛い親戚の為なら無理にでも』、だってさ」


 そう、そんな事考えもしなかった。


「思えばこれも、偶然予定が空いていたとか、偶然暇だったとか、幾らでも他に理由があったのにさ、君の言う通りだね。猜疑心の塊である僕はその、偶然を疑ってしまうんだ。違和感に必然性を求めて、メリットデメリットで物事を考えた。何もかも、君の思い通りで期待通りに、僕という人間は疑ってしまう」


 彼女の、物腰の柔らかさが徐々に戻りつつある。


「で? 分からないなあ、結局何が言いたいの?」


 だが未だ空気は張り詰めたままだ。確かにふんわりしちゃいるが、地上から遥か高い場所に絹糸一本でバランスを取っているような危うさは拭えない。


「でも君は何もしていないよね」


「?」


「京華さんのような無理矢理をしないまま、自分の思い通りにした。だがそれはあり得ない……計画通りというにはあまりに、偶然に頼り過ぎてる」


「ふふっ。そうかな? 偶然しては出来過ぎてるって疑わないの?」


「旅行の終着点はざっくり分けて2パターン。1つはこの現状。僕がまんまと嵌められて、理夢と君が友達でなくなる最悪のケース」


 彼女は椅子に深く腰掛けて、最早僕の方さえ見ていない。余裕があるのか諦めているのか。


「もう1つは……僕が何も疑わず、或いは疑っても尚その疑問を誰にも打ち明ける事なく、誰もが平和に帰宅する未来」


 遂には鼻歌まで繰り出すもんだから、もう判断が付かない。


「君がこの2つを考え付かない筈がないんだ。事実、今日まではどちらのパターンもあり得た。だが夕食の準備時、僕が君に話し合いを持ち掛けた最大のきっかけは、あの池で君が言った『焦ってる?』という発言。あれ、本当に焦っていたのは君だろ? 確かに散りばめられた違和感はあったけど、もしもあの言葉が無ければ確証も薄かったし、決断を先延ばしにしていたかもしれない。思えばこれが、これだけが、君が直接僕を誘導した無理矢理」


「だったら?」


「後は簡単だ。いざ話し合いになってしまえば、君は理夢にこっそり通話を繋げて『期待』していた事を口にすれば良いだけなんだから。僕が疑っていようとそうでなくとも、例え他全てが偶然であっても、ここまで来れば君が計画を打ち明ければ最悪の結末は起こせる。そしてそれら全てを思い通りだと言い切ってしまえば良い。それで充分、僕を騙せた」


「だったら? それがどうしたの?」


 彼女は、とても小さく鳴らした。


「騙されたのはあくまで僕だ。理夢は違う。君があの子に『期待』した全てには根拠が無い。そんなもの期待には程遠い、ただの小さい願い事程度のものだ」


 僕は、ただ続ける。


「ここからは想像になる。君が誤魔化すのも嘘をつくのも自由だよ」


 だが口を挟ませるつもりは、毛頭なかった。


「そもそもこの旅行、理夢が言い出さなければ始まらなかったものだ。始まってしまったから君が終わらせただけで。他に君が言った『期待』とやらも全部、何もかも結果論に過ぎない。君が誘導したのは僕だけで、理夢には何も仕向けたりしていないんじゃないのか?」

 

 答えない、か。


「入学してから一ヶ月、今までの日々の全てが僕の為だった? アウトレットで僕抜きで2人であんなにはしゃいでいたくせに、あれが全部打算からだったって? 旅行が無ければ君のその努力は全て無駄になっていたんだよ? これが全部計画通りっていうなら、つまり君は相当の馬鹿野郎じゃないか」


「馬鹿なんて……酷いなあ、酷い」


「『仲直りするつもりがない』とは元の関係があったから使える言葉だ。『用済み』とは元の用があったから使える言葉。『友達でいる必要性はもうない』とはそもそも友達で無ければ使えない。それに君は、数時間前に僕と話したあの時には『友達になって良かった』とも言ってたよ」


「……」


「君はいい加減、自覚した方が良い。そんな冷たく突き放すような、似合わない強がりはやめてさ」


 美央子の動作が、ピタリと一時停止した。


「君が理夢をちゃんと『友達』だと認識していた事を。確かに思惑はあったろうけど、それでも彼女が友達であったのは事実。偶然ではなく期待でもなくこれは、はっきりと君の言葉から出た根拠じゃないか。何度も何度も、自分に言い聞かせるみたいに口にしてさ、君は君が思うよりずっと理夢が友達だった。なのに勝手に、終わったと言い張ってる」


 頼むよ、美央子。


「そろそろ正直に話してくれ。君は、本当は理夢と」


 と、そこまで言って僕の言葉は遮られた……彼女が初めて感情を露わにして、机に恐らく力一杯に掌を叩き付けたからだ。響いた音で一瞬、室内に静寂が走る。切り裂いたのは美央子。


「私の気も知らないで、なんで……なんで今更そんなことを言うの。優太はまだ何にも分かってないくせに、どうして理夢ちゃん理夢ちゃんって」


 唇を噛み締めて、震えた声で、


「今更になって、私と理夢ちゃんが友達だったって突き付けてさ、楽しい? 楽しいよねえ優太は……得意げに自慢げに語ってくれちゃってさぁ……だからなんなの? 私と理夢ちゃんの過ごした時間は本物だったとか、言いたいことってそういうこと? 偶然だった? でも結局私の思い通りなら同じことでしょ? もう終わったんだよ、優太。良い加減全部諦めてよ。優太が諦めてくれないと、私は、私がっ」


 彼女は立ち上がる。


「私が諦められないっ!」


 立ち上がって叫んで、


「諦めなくて良い。だって君が本当に望んで、期待した未来は、こんなものじゃなかっただろ」


 僕の言葉に見開くと力無く、足場が崩れたように、倒れるようにもう一度座り込んだ。


「やめて……やめてよ……もう何もかも遅いの」


「それはどうして? 君が本当は理夢とどうなりたいのか、じっくり話し合えば遅いなんて事はないんじゃないか? 話し合いが出来ない理由が何かある?」


「私は、理夢ちゃんも皆も騙してたから」


「騙してたと言うには無理があるね。だって君は何もしていないじゃないか」


「私が、こういう人間だから」


「悪い人間って事?」


「……うん。だからもう」


「いいや。君は優しくて明るくて朗らかで、他人を思いやる事が出来て、見ているだけで暖かい気持ちになれる人間だ。但しちょっぴり欠点、まあ計算高い? みたいなものがあるだけで。でもそれは、良い面も悪い面もあるのは誰にとっても、普通な事だよ」


 僕が言うと、彼女は首をずっと横に振り続けた。彼女の元へ歩き出すと、その震えた肩がビクって飛び上がっていた。


「僕と同じ」


 彼女は本来これくらいの、所謂小心者なのだ。ただ馴れない事をしただけ。


「改めて聞くよ、美央子。本当は理夢とどうなりたいんだ?」


 僕は俯く彼女の視界に入るよう……スマホを置いた。


 これが僕と理夢の仕返しだ。受け取ってくれと願って。


 理夢と通話中である事が分かるようしっかりと目の前に。会話中ずっと点けっぱなしだったからバッテリーが心配だけど、まあ大丈夫だろう。


 後ちょっとなんだ。後、ほんの一押しで。


「わ、私、は……」


 やがてずっと堪えていたであろう一粒が彼女から、画面に落ちた。


「君は?」


 落ちた雫は数を増し、どんどん画面を溢れさせていく。


「もう一度……友達に」


 しかし言葉は溢れず、そこで彼女は口を開くのを拒んだ。喋れない程に喉が詰まった訳では無く、口を自らの意思で閉ざしたように見えた。


 2階から駆け降りる音が聞こえる。木の床を強く踏み締める振動に、美央子の表情は恐怖染まっていた。手先が震え、まるで迫る死神を目の当たりにしたみたいに、呼吸さえ止まったかのように。


 その足音は扉の前まで来ると一時停止し、


「……ごめん」


 完全に殺した勢いで、ゆっくりと開かれた先に居た理夢は、開口一番にそう言った。泣き腫らした美央子が「え?」と、吐息を漏らす。その瞬間、僕は肩の荷が殆ど全て抜け落ちた気分だった。開かれた扉から見える空間が、この閉塞感のある孤独な一室に突然彩りを与えたように思えたから余計に。


「カッとなって色々言い過ぎた。だから、ごめん」


 理夢は視線を切らしながら、ちょっと照れ臭そうに頬を掻く……何だかカッコイイな。まるで喧嘩したカップルの彼氏が、彼女に恥ずかしがりながらも謝罪して贈り物をしている光景のようだ。


「なんで、理夢ちゃんが謝るの?」


「……打算で友達付き合いって、よくよく考えたら全然ある話だし。多かれ少なかれ、皆やってるし」


「ちが、違うよ……私のは、そんなんじゃ」


「ウチも100パー無かったって言ったら、嘘になるし」


 と、理夢は僕を見てそう言った。いや、それはまあ、なんというかコメントに困るよ、理夢。


「だからさ……ウチにさっきの言葉の続き、聞かせてよ」


 ぐんぐん、理夢はこちらに近付いた。待ち侘びた仕返しの機会、迫り来る死神の到来に美央子の腰がどんどん引けていく。しかし……距離が離れない。


「ウチの目を見て、直接」


 何故なら理夢が、机に手を強く置いて、片手で美央子の襟を掴み上げて離さないから。鼻先が触れ合う程の近さで、威圧的で冷淡な口調の理夢に、美央子は口を開いたり閉じたり。


「わ、私……私は」


「言えよ。言えって」


「も、もう一度」


「もう一度?」


 でも、そこから先は……同じだった。やはり美央子は先程と同様に口を閉ざした。涙を溢しながら、前髪が揺れる程に震えながら、それでも理夢から視線を外さずに。


「……」


「どしたの美央っち。ほら、言ってみなよ。もしかして言えない?」


 澱む美央子へ対する、理夢の変わらない、恫喝に近い様子にチラッと夕方の出来事が僕の脳裏に蘇って、間に入ろうか一瞬迷う。


「言えないよ」


 だが美央子が口を開いたから、必要無いとも思えた。


「は?」


「私は、だって……やっぱり言えない」


「言えないってアンタ、たった一言でしょ。簡単じゃん。なにを迷ってんのさ」


「私にとってはちっとも、簡単じゃないっ」


 か細く声を張り上げる美央子を、理夢は暫く見据えて、やがて「あっそ」と興味が失せたようにパッと手を放す。


「じゃあ許したげる」


 刹那、理夢から放たれた一言に僕と美央子の「へ?」が被った。何だ、一体どういう事? 今の会話の流れでどうして「許す?」になる?


「な、なんで」


「簡単じゃないんでしょ? んじゃ少なくともウチのことはそーいう風に考えてくれてたってコトじゃん。じゃあそれで良いし……許す」


 あー、そういう。


「はぁドキドキした。僕はてっきりもうダメかと思って」


 ったく、花瓶で僕をぶん殴ったり素直に謝ったり、かと思えば胸ぐら掴んで恫喝したり……ヤンキー漫画のような子だな。相変わらず慌ただしい。


「は? 何言ってんの? 許すは許すけど、ウチはまだ全然怒ってるからね」


「え」


「口をきく程度には許してあげただけだから。それにまだ、美央っちから一番大事な言葉、聞いてない」


 ああ……言われてみれば、確かにそうだった。


「大事な、言葉?」


 美央子を見ると、彼女は口をポカンと開けて首を傾げていた。あまりの状況の変化に脳が追い付いていないのだろう。あれほど頭が回るくせに、ここまで言われて気が付けないのはそれほどに、やっぱり彼女の中の、理夢が占める容量が大きかったらしい。彼女が本当に何でも期待出来る程に、全てが思い通りだって言うなら、この場を収める為に真っ先に飛び出す筈の言葉が出ないのだから。


 僕は美央子の肩を軽く叩いて促す。


「……そっか」


 なんだ、やっぱり君は、理夢がそんなにも大事だったんじゃないか。


「ごめん、理夢ちゃん……本当に、ごめんなさいっ。傷付けて、嫌なこと言って、ごめんなさい」


 美央子は深く、机に引っ付くくらいに頭を下げた。そんな彼女からは多分……同じように涙を流す理夢の姿は、見えていないだろうな。


 正直言うと、僕はこの問題をそこまで根深いとは思えなかった。最初に抱いていた危機感は美央子の話を聞く度に徐々に、彼女の、理夢に対する思いが漏れ出す度に薄れていった。理夢の言う通り、打算での友達付き合いは決して珍しいものじゃない。100%『期待』が存在しない人間は、それこそ存在しない、と僕は思っている。それを誰もが口にしないだけで。


 だからこうして一言謝れば、機会さえあれば関係は充分修復出来る。


「あーあ。なんかお腹空いた」


 涙を拭って、拭い終わってもう涙が出ない事を確認した理夢が、それでも枯れかけた声で、明るい声色でそう言った。


「そうだね。きっと京華さんも円香も……美央子も、だろ?」


 美央子は俯いたまま目元を袖で擦って顔を上げた時には、


「……うん」


 僕達の良く知る表情があって、良かった。


 時刻は壁掛け時計より、20時を過ぎた頃。思えばここ数時間は激動だった。心身の疲労はほぼ頂点。だが理夢の言う通り、腹の虫から察するに今から夕食の支度をして風呂に入って……一体就寝出来るのは何時になることやら。


 しかも肝心要、決定的な疑問がまだ解消していない。


 そもそも美央子が何故、こんな出来事を引き起こしたのか。


 そもそも美央子は何故、僕に自覚して欲しかったのか。言ってしまえば理夢の問題は巻き込み事故のようなもので、彼女は本当は僕に何を『期待』したのか。


 未だその動機は不明なまま、聞けていない。


 って、またやってる……疑ってる自分に本当に呆れる。でも、どうしてだろう。


 どうして僕は、疑うんだろう。


 どうして僕が疑う事を、美央子は知っているんだ?

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