19話 ゴールデンタイム
美央子と初めて出会ったのは入学式当日の朝、場所は通学路。
例によって僕は円香と登校していた朝。隣の景色は昔からずっと同じものだったけど、学ランからブレザーに制服が変わって、たったそれだけで僕は新鮮で、また一つ大人になった気がして……そんな感じ。そうして円香による「頭痛い具合悪い帰りたい」などの愚痴に愛想笑いで返していた時だった。
車道のど真ん中から、少し離れてこっちをじっと見つめる誰かの姿。最初は中学の同級生かもって思ったけど違った。道の真ん中で呆然と立ち尽くして、寂しそうな顔でこっちを見る少女には、僕も円香も見覚えがなかった。その……泣きそうで笑いそうな無表情には。
やがて少女の背後に一台の車。速度を徐々に落としながら、近付く一台が目に入った。少女はまだ僕達を見つめたままだった。
だから僕は走った。
クラクションが鳴り響いてようやく少女は振り返る。だが動かない。あの時どんな顔で、少女は振り返ったのかは知らない。車は速度を落としてはいたけど、止まる気配がなかった。
だから僕は彼女の手を引いた。
車道の端に引っ張って、横を通り過ぎた車の運転席から怒声が飛んで来たのを覚えている。
「どうして避けなかったの?」
僕は当然聞いた。当然ちょっと怒りながらで。
そしたらさ……美央子は微笑んだ。微笑んで、泣いて、笑って、謝って、震えた声でこう言ったんだ。
「避けてくれると思ったの。でも、違ったみたい」
これが僕と美央子の初対面。実を言うとこの時、思えば僕は、彼女に強く惹かれていた気がする。多分、一目惚れに近い何かだったかもしれない。車が避けると『期待』していたくせに、いざ助かった時震えて笑って、安堵して涙するという、この強烈な矛盾に僕は比類の無い何かを感じたのだ。
そしてこれこそが、今となっては彼女の告白を拒絶せざるを得ないただ一つの、明確な理由となっている。
「それじゃ、お話聞かせてもらいましょか。優太くん?」
京華さんの落ち着き払った口調や態度は、教師に近い。呼び出されたこの車庫も、初日とシチュエーションこそ同じではあるが僕の心境はあの時とは程遠い。
「この喧嘩、詳しい事情は何も知らんけど想像はつくで。大体全部優太くんのせい、そやろ?」
「……はい。そう、ですね」
「ふむふむ。自覚があるようで結構結構。ああいう揉めは大抵男の取り合いで出来るもんやからなあ。まぁ、まさかここまでとは思わんかったけど」
何を話せば良いのか、何を話して良いのか分からなかった。出会って間もない殆ど他人の大人に話すには、少々事情が複雑でかつプライベート過ぎたから。
「私かて、本当はガキんちょの喧嘩に首なんぞ突っ込みたくない。でもな? 私は自分らの親御さんから身の安全を預かっとる、責任ある立場なんよ。口を出さんのは無理」
「……はい。分かっています」
「で怪我は? どう説明するつもりや?」
「遊んでいて木に引っ掛けたと言えば、僕の両親は納得すると思います」
失笑、加えて「そーいう事やないやけどなあ」と、深い溜息が聞こえて来た。
「泊まりがけで旅行に行った可愛い我が子が、帰って来たら暗ーい顔しとんねん。親御さん、どー思う? こんなんクレームもんやろが。美央子っちゃんのパパママにもアホ程どつかれるのが簡単に想像出来るわ。もち理夢ちゃんも、円香ちゃんも同じ。分かっとるか? これ、もう優太くんだけの問題やない」
「分かっています。だから、僕はこんな事をしてる場合じゃ」
「ほぉ。流石は優太くん」
ぐいっと、京華さんは詰め寄って僕の顔をジロジロと。
「込み入った事情を聞く気はないで。やけん、おばちゃんが一番聞きたいのはな……君これ、どうするつもりや? ってこと」
「それは、あの子達ともう一度」
「話し合って? 凝りひんなあ……君が美央子っちゃんと話してああなったんやろ? それじゃまた同じ失敗すんで」
「それでも、僕は……」
分かっている。このままでは穏便な解決など到底不可能。美央子は僕の……僕が気付けなかった僕を、僕よりずっと良く理解している。いつか円香に言われた通りだな……『表面だけ取り繕って取り入るのが上手い』だけなんだ。ただの猜疑心の塊で、それが認め難く拭い難く染み付いている。結局それが今回の件を招いた。僕が僕であったから、僕の今までの行動が原因で起きた事。
「どうすべきか分かっているのに、どうしたら分からない。また余計な事をして彼女らを傷付けてしまうかもしれない」
いつも余計に働く頭の中は、今は混乱していて、ごちゃごちゃで気持ち悪い。
「この旅行は誰にとっても良い思い出で終わらせようって決めていたんです。でも、どうにも自信が無くなってしまって……」
「どアホ。弱音なん興味無い」
あまりに突き放されて、僕は思わず言い返しそうになって口籠もる……ぐうの音が出ない正論だ。僕がこの場ですべきなのは、京華さんの言葉にただ頷き、説教を素早く終わらせて彼女達の元へ向かって話をする事。言い返している場合でも、ましてや弱音を吐いて良い瞬間じゃない。ならどうする。決まっている。頭を働かせて解決策を……と、これこそがまさに美央子が僕に自覚させた悪癖か。
「なあ優太くん」
見兼ねた京華さんは、車にもたれて、さっきよりもちょっとだけ優しい声色を発した。
「どーして、美央子っちゃんの想いに応えてやらんの? あの子、まあ信じられんかもやけど根っこはむっちゃええ子やで?」
「……そりゃ勿論分かってますよ。というか、やっぱり知ってたんですね」
「当たり前や。あの子は男友達が多いタイプでも、遊び呆けるタイプでもない。純情無垢な雪見だいふくみたいな女の子や。そんな子が旅行に男の子連れて行きたいとか、まあ直で言われんでも分かる。ごっつ可愛かったなあ。おばちゃんが「その男子くん好きなん?」って聞いた時の美央子っちゃん。顔お猿さんみたいに真っ赤にして、プルプル震えながら首だけ頷いて……見た目は随分大人っぽくなったけど、今も昔のまんま。なーんも変わっとらん」
過去を振り返り慈しみ、懐かしんで頬を緩ませながら語る京華さんの、
「あと、婚約者の話も聞いたで。君が破談にしたってな」
浮ついた視線が、突如僕に注がれた。
「おばちゃんな、元相手方も小ちゃい頃から知っとるんよ。ええ子やったで、イケメンで。美央子っちゃんも、そこまで嫌な顔はしてへんかった。それに……君にもちょっとは想像出来るやろ。良家同士のしがらみがどれほどのもんか。単純に『ごめんなさい』や済まん世界ってことは」
怒りなのか、それとも別の何かか。どちらにせよ形容し難い複雑な感情が渦巻いている事は明らかな様子だった。
「……はい」
「それでもあの子は君を選んだ。色んなもん飲み込んで堪えて押し殺して」
そう、僕がお節介を焼いたんだ。僕が招いた……考えてみればこの状況もしかすると、美央子からのささやかな復讐みたいなもの、なのかもしれないな。自分だけ無傷のままでは許さないと、そんな仕返しのような。
「それでも君は、あの子を選んでやらんの?」
淡々と粛々とした問い。向けられた瞳は、まるで僕の答えが分かっているような静けさがあった。でも、僕は京華さんの問いには答えない。答えず、ただ真っ直ぐに見返しただけに留めた。だってこの想いを言葉にする相手は京華さんではないし、まだ言葉にするべきでもないと思ったから。
やがてこの睨めっこは、京華さんの「そっか」という失笑にも似た呆れと、共に吐き出された溜息によって幕を閉じる。
「難儀な性格しとるな自分。若いんやからもっと気軽に付き合ったり別れたり、おばちゃんはしてもええやろって思ってまうけど。全く、どーしてそない面倒な人間になってまったのか、なんや重ためのトラウマでもあるんか? 自分」
緊張した雰囲気が拡散して弛緩していく。
「トラウマなんてそんな。こればっかりは生まれつきですよ」
「生まれつき、ねえ……まあ何でもええわ」
交わされた視線が切られて、京華さんは億劫そうに後頭部に手を置き、また溜息。それから数秒程瞼を閉じた後開き、
「で?」
と、何だか一頻り落ち着いたが、『どうするつもり?』と未だ何の解決にも至ってないという現実を僕に一文字で伝えてきた。
「どうにかしますよ。京華さんと話していたら、何とかなりそうな気もしてきましたし」
「ハハハっ。今の話の流れのどこで『何とかなりそう』ってなったんや?」
「すべき事は分かっていました。足りなかったのは自信だけだったんです。先程は痛いところを突かれてしまったので少し、何というか自己嫌悪で」
「ほーん。なんや、せっかく大人として相談乗ったろと思っとったのに、可愛くないガキンチョやなあ。ほんま美央子っちゃんとは大違い」
京華さんは軽く笑って和んだ空気。
しかし、
「じゃあ優太くん。最後に一個だけ」
車にもたれていた京華さんが、僕に目の前に立つ。そうして、自分の車だというのに……僕の右頬を、京華さんの突き出した腕が素早く通り過ぎて行った。耳元で破裂したように、車のボディーが凹んだ音が響いた。まさか、歳上の女性に壁ドンされる日がやってこようとは。
「私は君の言葉を一ミリも信用も期待もしてない。ただ美央子が選んだ君だから任せてみるだけ」
唐突な訛りの無い言葉遣い。どうやらあのエセ関西弁は、恐らく僕らに親しみを与える為の……いや、この女性の対人テクニックか何かだったのだろうと悟った。それほどに、標準的な冷たい態度。加えて、この攻撃的な視線。
「私の可愛い可愛い美央子を、これ以上悲しませるのは許さない。失敗も許さない。私が失敗だと思ったら、それはもう失敗だよ。だから完璧にやりなさい」
有無も疑問も指一本も動かす事すら許さない、高圧的な威嚇、脅迫。
「もし失敗したら」
加えてこれは、最後の注意か。
「殺すからそのつもりで……気張ってな?」
最後にニコリと微笑みはしたが、これは多分例えではなく冗談でもなく、富や権力を用いた、恐らく社会的に抹殺するという意味でもない。単純に生命の話でと、そういう風な口調だった。
「は、はい、分かりました」
あまりの恐怖に即座に肯定したら、どういう訳か笑われてしまう。
「ほんま? 自分で言っておいてアレやけど、君って結構頭おかしいんちゃう? こんなん言われたら普通動揺とかするやろ」
「いや動揺したらしたで、それはまた怒らせるかなと思って……」
また笑われた。しかも今度は声高らかに。目尻には少々涙さえも浮かべられて、腹を抱えられて、息苦しそうな顔まで見せられてしまった。
「いやあこりゃ美央子っちゃんが好きになってまうの、分かるわ。ほんまオモロいな自分」
一体全体何だか良く分からんが、とりあえず気に入ってもらえたらしい。そうして暫く笑われて……落ち着いた様子の京華さんが口を開く。
「あー疲れた。もう行ってええよ。あとその怪我も、ちゃんと手当してな」
正直このまま時間を無駄にしているのはあまりに勿体無いなあと思っていたところだったので、この解放の申し出は待ち侘びたもので、有難い。
「え、あ、はい。じゃあ失礼します」
踵を返すとまだ時折、後ろから吹き出す音が聞こえて来る。
「あ」
ちょっと早く立ち去りたいような気もしたが……僕はとある事を思い出してしまって振り返った。
「京華さん。1つ聞いても良いですか?」
「ん?」
「どうして僕達を旅行に連れて来てくれたんですか?」
聞くと京華さんは、意味不明だと首を傾げた。
「社長さんに作家業務の二足の草鞋。とてもお忙しいと思います。ただでさえ見知らぬ学生の引率、僕なら断っているかもって」
これは、僕の疑いが確信に変わったきっかけの1つ。美央子との話では出なかったものであり、本人以外知り得ないものであり……聞く価値がある。僕は京華さんがこの旅行を引き受けた理由として、新作小説の取材目的だと考えていた。しかしもし、この予想が外れてくれたならば、
「ああ、単純な話やで?」
僕のこの、疑心が間違っていてくれたなら、
「可愛い親戚の子にお願いされたら、そんなん無理でも断れんやん?」
「……そうですか」
あっけらかんと答える京華さんの表情に、僕は……なるほどと。どうやら僕が人を疑うばかりというのは本当。勿論、美央子に誘導されていたという影響も多少はあるだろうが。
「改めて、連れて来てくれてありがとうございます。京華さん」
「いや礼はいらんから、はよ何とかしーや」
信じることを忘れていた、かもしれない。こんな単純な話、通常なら気が付いてもおかしくないのに何でもかんでも疑って考えて……これこそ、美央子が突き付けた僕の本質、我ながら嫌になる。
車庫から別荘に入る為一度外に出た。新鮮で少し冷えた空気が鼻奥を刺す。もう辺りは随分暗くなっている。大体19時前後だろうか、木々や山々は黒く染まり、空には月が、星が、いつもよりずっと近くて大きく見えた。
「肌寒っ」
まずは……理夢と話さないと。僕が思うに、彼女は美央子に対して少し誤解があるのだ。
ウッドデッキをそれほど重くない足取りで踏み締めて別荘に入ると2階へ上がる。大きい一間のその端に座っている2人が見えた。理夢は膝を抱えていて、円香はただ隣に腰掛けている。やがて僕に気が付いたであろう、円香が先にこちらを向いて、少し遅れて理夢が、腫らした瞼を見開いた。
「理夢。ほら、言う事あるでしょ」
円香が肩を叩いて言った。しかしそれは決して優しい口調ではなく、毅然とした平坦な声色だった。理夢は一度息を飲み込んで俯き、それからゆっくりと僕を見て口を開く。
「優太、ごめん、ウチ」
「謝るのは僕の方だよ。ごめん。僕が何も疑わずにいられたら、こんな事にはならなかった」
「違うっ! 悪いのはウチと美央……アイツ。優太は何も悪くない」
理夢の『アイツ』という言葉に、名前さえ口にしたくないという明確な拒絶の意思表示に、実際に傷のある頬なんかよりずっと胸が痛んだ。理夢の気持ちは分かる。自分が友人と思っていた人間が、実はその友情を恋愛の為に利用していたと、そう感じてしまうのは無理のない話。
「それでもやっぱり、きっかけを作ったのは僕なんだ」
「優太は、悔しくないの? 騙されてたんだよウチら。ムカつかないの? あんな事言われて、ウチはもう……無理」
「理夢は僕も嫌いになった?」
「え?」
「こんなに楽しい旅行でさ、美央子が何か隠してるってずっと疑ってたんだ。皆が笑いながら夕食を食べていた時、アウトレットで買い物をしていた時、遊んだ場所、眠る前、話している瞬間もずっと。疑念を隠して笑顔を作って、言葉を選んで会話して探って……こんな僕を嫌いにはならないの?」
「それは、だってっ」
言おうとして口を噤み、膝を抱えて強くその身を抱く理夢からは強い葛藤が感じられた。恐らく僕に対してだって何か思うところがある筈。
「嫌いになんて、なれない……」
それでも首を横に振ってくれた理由は僕が好きだからとか、そんな理由じゃないと彼女自身も分かっている筈。
「一度だけで良いんだ、理夢。チャンスをくれないか?」
だから僕は言った。
「美央子に仕返しをしよう。一緒に」
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