9話 クローズアップ先生
始業式翌日、4月6日火曜日。
本格的な授業は明日からで、今日もまた午前中のみの登校だった。まず行われたのは新入生や在校生へ贈られた校長先生の有難いお話、形骸化した注意喚起の為の全校集会。次に埃の積もった我が校への奉仕である大掃除。しかし生徒にとってのメインイベントはやはり最後のLHRだっただろう。
僕達のクラスとてそれは例外ではなかった。そりゃクラスメイトへの自己紹介で数人がこれでもかってくらいスベりまくっていてとんでもない空気になった瞬間はあったが(理夢については後で慰めの連絡をしておこう)今日一日に僕は概ね満足していた。委員会の割り振りも望み通りの学園祭実行委員になれたし。本当に良かった良かった。そうして昼過ぎには下校出来る筈だった、4月6日火曜日の午後0時30分。
本来なら今頃帰り道を歩きながら昼食に想像を膨らませていた筈の僕は今……担任の先生から呼び出しを受けて職員室に来ていた。
思わず口から溢れた息は溜息かそれとも緊張故か。話し声など微塵も聞こえぬ静寂な廊下、独特の雰囲気と威圧感を持つ扉に僅かに背筋が伸びる。
「失礼します」
ノックをしてから一声掛けて開くと……室内には3人程度の教員が居るだけで、やけに閑散としていた。教室2つ分の広々とした空間だから余計に寂しく思えてしまう。加えて等間隔に並べられた机、雑多に積み上げられた書類や教科書、パソコンなどのあまりに事務的な光景にここが学校ではなく職場で、自分が居るべき場所ではないと感じるには充分だった。だからこそ早く用事を済ませて帰りたいと、僕は目当ての人物目掛けて一直線に歩き出す。
そうして仕事をしている……かと思えば何やらスマホを弄っている様子の先生に近付いてみると、どうやら僕の足音に気が付いたらしい。先生は徐に顔を上げて「久しぶり」と僕に一度微笑み、椅子を回転させながら机に肘を突いて口を開いた。
「こんにちは間代君、元気だった? いやあ急にごめんねぇ? 私だってまだ仕事あるから早く帰してあげたいんだんだけどさー」
まるで幼児にでも語り聞かせるようにゆったり間延びした口調は相変わらず、加えて今時珍しい、後ろで纏めただけのシンプルで自然な黒髪も、何年物ですかと言いたくなるほど目にしたベージュのパーカーも、何もかも変わらない。
「先生には去年からお世話になってますから。それで、何かお説教ですか?」
対面して改めて自覚させられた。この、僕が抱える先生に対する……ちょっとした苦手意識も相変わらずのようだった。しかし具体的な原因は未だ判明の兆しが無く、何故こうも緊張しているのか理由が思い当たらない。
「いやいや説教なんて私にはムリムリ、ってのは教師が言っちゃダメかなぁ?」
1年生時に続いて今年も僕の担任である
「まあそれはおいといて、間代君にちょーっとしたお話があるんだけど」
さて、また「ちょっと」した話か。終業式の日の出来事が激しくデジャブるな……しかしながら僕は先生が言う「ちょっと」は『かなり重要な』という意味だと一年生からの経験で既に知っているので、身構えられるだけ幾分マシだろう。
「ウチのクラスに衣原ちゃんって転校生がいるでしょう?」
「はい」
「あの子、どう?」
僕の若干首を傾げながらの肯定に、返って来たのはあまりに漠然とした疑問だった。どうもこうもない、普通に楽しそうに過ごしていると思うけど……そもそもまだ新学年始まって2日目だぞ? 今聞くのはどう考えても早過ぎと思うのは僕がおかしいのかな? まあ、音無先生が求めているのはそんな解答ではないのだろうが。
「えーっと……知り合いも居ない環境ですから若干の緊張は見られますね。でも僕や美央子、それに他のクラスメイト達とも問題無く打ち解けているようですので、あとは時間と慣れで上手く馴染めると思います」
「へーそっかそっか。それは良かったよ」
先生は重たげに垂れた目尻を更に下げて言った。それから回転式の安っぽい椅子、その背もたれを軋ませながら深く体を預けて天井を見上げている……そんな動作にしてもどこか眠たげで、自分で聞いたくせに、わざわざ呼び出した当人の返答に興味が全く感じられない。ふわふわした態度にこっちまで微睡んできたもんだから、いよいよ『もう帰っても良いですか?』と口にしようとした、その時だった。
「じゃあ星見さんは?」
先生は言って、宙を泳がせていた視線を僕に向ける。突然飛び出した友人の苗字で眉間に皺が寄った。
「美央子、ですか?」
「明るくて良い子だけど、少し真面目で責任感が強いでしょ? 新しいクラスメイトと仲良く出来そうかなーって気になってて。ほらあれ、去年の事もあるしさ」
と先生が最後の付け足した言葉に、僕は呑気な世間話程度の為に呼び出されたのだろうという考えを改めた。なるほど、本題はこっちらしい。とはいえこっちもまだ聞くには早くない?
「……知ってたんですね」
しかし去年の事、か。まあ確かに気にする理由は分かる。
「だって担任だもん」
だったらどうしてあの時何もしなかった、してくれなかったんだ……などとは今更追求しても仕方が無いのかなと、思わず握り締めていた拳と一緒に僕は吐き出しかけたものを飲み込んだ。何せ今こうして「どう?」かと聞いてくれているのだ。もしかしたら先生にも多少は思うところがあったかもしれないし。
あれは入学して間もない、僕と美央子が友達になったばかりの頃の話。学園祭の準備期間に起こったほろ苦い青春の1ページ。
先生の言う通りで真面目で責任感が強かった美央子は、当然学校行事にも全力で打ち込もうとしていた。初めての学園祭、つい最近まで中学生で幼かった僕達。誰もが浮かれている中で、彼女だけはずっと目指す目的地を明確に定めていたのだろう。クラスメイトだって別にふざけていたわけじゃなかったと思う。ただ……はしゃいでいたのは確か。教室展示、クラス発表、合唱曲、役割分担などが何一つ具体的に決まらず、ああでもないこうでもないと話し合っている瞬間ですら楽しかったであろう中、盛り上がった空気を貫くように……美央子が『どうしてみんな真剣にやらないの?』『成功させたくないの?』『私は何か間違ってる?』と言ったらしい。らしいというのは実際に聞いたわけじゃないから真相は分からない。当時学園祭実行委員だった僕が教室に顔を出した時にはもう、何もかもが凍り付いた後だったのだ。後に僕が美央子にどうしてそんな事を言ったのか聞いたところ、彼女は怒っていたのではなく、ただ「分からなかった」だけだと答えた。ふわふわした現状を誰も指摘しない事が疑問だったと……つまりはまあ、皆若かったのだ。
だが、それから僕は幾つかの勢力に分かれたクラスメイトに話を聞いたり誤解を解いたり、あっちこっちに走り回って何とか本番は終えたものの、関係の修復には実に一ヶ月の期間を要した。しかしそれでも完全ではなく、美央子に対して良い顔をしない生徒はまだ一定数居ると思う。
「で、どう? 今年は大丈夫そう?」
そんな酸味の強い記憶の回廊から、先生の一言で現実へ抜け出した僕は現在に焦点を当てた。
「大丈夫、とは思いますが……」
お祭り好きな僕は結局、今年も懲りずに学園祭実行委員を選んでいるから、クラスにはやっぱりあまり関われない。そりゃ不安が無いわけじゃないが、当時の話になると美央子は照れ臭そうに笑って「言い過ぎた」と後悔しているようだしもう平気だろうと。勿論去年よりは気に掛けるつもりだが、どうだろうな。
「そっかそっか。他の誰でもない、星見さんのお友達である間代君がそこまで言うなら大丈夫でしょうねー」
しかし先生はそんな濁った僕の答えに大変満足だったらしく、大きく息を吐いて椅子をくるっと回転させる。いや「そこまで」は絶対に言ってないし、あまり手放しで安心されても困るのだが。
「何かあったら、今度は助けて下さいよ?」
貴方は先生でしょうと、僕は去年の恨みと少しの皮肉を混ぜ込んでお願いをした。すると先生はピタリと回転を止めて……どうしてか小さく鼻を鳴らした。
「もちろんだよ。出来れば君達だけで解決して欲しいけど、ね?」
それから椅子ごと僕に近付いて、声のボリュームを少し落として囁くように語り掛けて来る。
「私さ、実は間代君にかなり期待してるんだよ。君ならクラスのいざこざをちゃんと解決してくれるんじゃないかって。だって他の生徒よりずっと落ち着いてるし、話をしてて凄く楽なの。もしかしたら……今までの教え子の中で一番かも」
「えっと、ありがとうございます?」
「ふふっ。どういたしまして?」
先生はニコりと微笑みを浮かべて、スッと僕から離れていく。その一回り年齢が離れているとは思えぬ程可愛らしい所作に僕は……僕がどうしてこの先生に対して苦手意識を持っているのか、同時に先生が生徒に人気がある理由についてを知った気がした。
これは手口か常套句かそれとも純粋か。「期待してる」「他の生徒より」「一番」などの、僕のような子供が大人から向けられるにはあまりに誘惑の強い言葉を、この先生は躊躇いもなく使うのだ。まるで手懐けられているような感覚、どうやらそれが僕は苦手だったらしい。まあ僕の考え過ぎなら良いけどさ、もし理解して意図した上で言っているなら……いや、よそう。
「聞きたいことはまだありますか?」
善意を疑うような、また素直に受け取れないような、かつ気分が落ち込むような事は考えたくもないし考えるべきじゃない。
「ううん、もう帰っていいよー。付き合わせちゃってごめんね?」
「いえいえ。じゃあ失礼します」
ひらひら手を振る先生に軽く頭を下げ、僕は踵を返す。
「あ、間代くーんっ」
「はい?」
呼び止められて振り返ると、先生は既に真っ直ぐこちらを見ていた。
「最後に一つだけ」
「なんでしょうか?」
「ごほん、えー間代君。節度と自覚を持って、素晴らしいスクールライフを送って下さい。先生からは以上です」
「は、はぁ? はい? 分かりました?」
頭頂部に大量の疑問符が発生している僕をよそに、それから先生は『もう話す事はない』と言わんばかりに机に向かってスマホを弄り始める……一体なんだったんだろうと僕は首を傾げつつ、再び軽く頭を下げて遂に職員室を後にした。刑務所から解放された事は無いが、仮に服役して釈放されたならこんな感覚だろうか? 廊下の冷たい空気が口内満たして頬を撫でられ、薄暗な光量が目に優しく誠に爽快な気分である。
途端に軽くなった足取りで歩き始めて下駄箱に向かいながら……しかしと思った。あの二人について「どう?」かと聞きたい理由は理解出来るが僅かに疑問が残る。だってやっぱりタイミングが早過ぎるよ。少なくとも僕が教師の立場なら、せめて一ヶ月くらいは自分で様子を見てから判断するだろうし。とすれば先生が本当に言いたかったのは、呼び出した理由は最後の……ありふれた注意喚起か? 僕に『節度を持って自覚ある行動を』と言いたいが為に呼び出したのか? 『素晴らしいスクールライフ』をと? わけわからん。尤も成熟した大人の内心など、幼稚な僕には到底測れないのだろうが……と、僕は先生に対する苦手意識を再確認しながら、午後は何をしようかと想像を膨らませつつ、家路に着くのだった。
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