8話 黄色と赤と
下駄箱を出て正面に見えるのは木々生い茂る中庭。向かって左側が職員室を含む実習棟、右が教室棟。この武蔵田高校の校舎は4階建てで、最上階には僕達が去年まで使っていた一年生の教室がある。そこから一段下がる毎に学年が上がる仕組みなので、二年生になった今年からは四階ではなく三階と、単純に上がる量が減るのだ。労力が少なく済むのは確かに嬉しいけど……同時に自分が年齢を重ねているのだと実感してしまった。これから先は恐らく、新鮮だったものが古くなり、知らない事が減っていくのだろう。輝いていた筈の日常が色褪せて平凡に、退屈になっていくのだろう。これが俗に言う『大人の階段を上る』という事か。
「へ? 京都に行ってた?」
そんな下らない考えを巡らせながら下駄箱を出てすぐ、僕はそういえばと連絡が付かなかった理由を美央子に聞いて、返って来た答えに大きく首を傾げた。
「うん。ほらあの、私の許嫁の……許嫁だった人の実家が京都にあって、両親と一緒に行って来たんだ」
やたら「だった」を強調した彼女の話を聞いて、僕は以前あった出来事を思い出した。と同時に隣を歩く少女がこのご時世で「許嫁」という言葉を使う程にはセレブだった事も。何度か彼女の家にお邪魔した経験があるが、あまりの豪邸っぷりに最初は開いた口が塞がらなかったものだ。白くてデカくて、庭にプールがあって室内には大型犬がいて螺旋階段があって見上げてみたら天井には煌びやかなシャンデリアがあって……懐かしいな。当時の僕はあれでこの世が平等では無かったのだなと気が付いたよ。
「だから色々忙しくて連絡が返せなかったの。それに、優太とはちゃんと落ち着いてから直接話がしたかったから」
「なるほどね」
「ふふっ。優太にも見せたかったな。私が『貴方と結婚する気はありません』って言った時のあの人の顔を。もうすっごい、こーんな見開いててね? そのまま目が飛び出しちゃうじゃないかって思った。向こうのご両親も涼しいフリしてたけど、あれは相当怒ってたよ。だって手がプルプルって震えてたもんっ」
そうしてジェスチャー混じりに当時の状況を語る彼女の様子を見て、僕は胸を撫で下ろす。この元気一杯の振る舞いならば、どうやら京都旅行は成功を収めたらしい。
下駄箱を出て突き当たった廊下、右奥と左手前にそれぞれ階段が設置されている。教室の並びは右から順番で、去年の僕達は一年五組だったから右奥から上がっていたけど今年は一組だ。つまり今日からこの下駄箱すぐ近場の階段を使う事になるのでこれも労力軽減だやったーなどと思ったけど……そういえば自販機はこっちにないんだよなあ。
「ありがとね」
最初の階段を上りきった時、踊り場で立ち止まった彼女は唐突にそう言った。
「優太がお父さんとお母さんを説得してくれたから今の私はここに居られる。優太が居なかったらきっと、あのままずっと、決められた将来を生きてた」
「説得なんて……僕はただちょっと話をしただけだよ」
一年前の夏休み、クラスメイトの友人達と海水浴に行った時だった。僕が一人砂浜でボーッと海を眺めていたら彼女が隣に座って、無言で線香花火を手渡して来たのだ。そうして二人で弾ける火花の大きさを比べていた時に彼女は『許嫁が居る事』を打ち明けた。僕が「どうしたいの」と聞くと、彼女はただ微笑んだだけだった……望んでいないのは明らかだったから、僕は彼女の実家を訪れてご両親と少し話をしたのだ。それは不躾で無礼で、余計なお世話丸出しだったのは分かっていたから足はガクガクだったけど……でもいざ話しをしてみれば彼らはごく普通の、娘を思うただの親でしかなかった。
「あれからね、無口だったお父さんと凄く話せるようになったんだよ? お母さんは『将来何かしたいことはないのか』なんて聞いて来るようになった。まあ、相変わらずちょっと厳しいけどね」
厳格で寡黙な父に気を遣い、教育熱心で理路整然とした母を恐れていただけ。お互いちょっとすれ違っていただけ。あまりにコミュニケーション不足だった彼らは、自分の娘が結婚に乗り気でない事すら気が付いていなかっただけ。その程度。
「そっか。良かったね」
「うんっ」
そう大きく頷いて笑う彼女にはもう迷いの色は見られない。しかし……今考えると本当に僕は恐れ知らずな事をしたものだな。美央子だって今は望んでいないかもしれないけど、あのまま「許嫁」とやらと結婚したって不幸とは限らない。だって良家同士の婚約だ。きっと何不自由ない人生が約束されていただろう。それこそドラマのような上流階級的生活が出来た筈……まあ今更か。僕は機会を設けただけで、決定したのは美央子とその家族なのだから。
「──それでそれで、お父さんが京都があまりに気に入っちゃって「俺はここに別荘を建てる」とか言い出したの。当然お母さんには「ふざけるな」って止められてたけど、見ちゃったんだよね。ホテルのラウンジで、その日の夜にはもう不動産屋に連絡を取ってたお父さんを。でも私はまだ知らないフリしてるんだ。だって何かあった時の弱みとして使えるでしょ?」
「へ、へえ……そうかもね」
彼女のVIPで家族愛溢れた京都旅行の思い出に苦笑いを混じえて耳を傾けながら、ようやく僕達は三階へ辿り着いた。去年とは真逆方向から見える廊下の最も手前にある教室、二年一組の表札がある場所へ向かう。そうして扉に張り出された席順を確認すると幾つかの見知った名前の中で……ある一つが目に入った。
「
口に出して読んで、春休み初日、その夜の記憶がフラッシュバックする。あの万引き未遂のナンパ被害者で迷子の、慌ただしい少女の記憶が。同じ学校とは知っていたけど、まさかクラスまで同じとは。
「ん? どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。入ろうか」
そうして扉を開いた瞬間、何人かに向けられた視線の中……僕は彼女を見つけ、彼女もまた僕に気が付いたらしい。見覚えのあるワインレッドのポニーテールが、教室の6列並んだ座席の内の最も奥、窓際の最後尾でポツンと一人寂しそうに座ってこちらを見ていた。きっとクラス名簿に僕の名前があったもんだから先に座って驚かそうとでも考えて……でも誰も知っている人間が居なくて凄まじい孤独感に苛まれていたに違いない。その企ての楽しさは理解出来るが、だとしてももう少し直前に来れば良いのに。
「ゆ、優太ぁ」
最早彼女の脳内からは当初の計画など既に吹っ飛んでいるのだろう……理夢が満面の笑みを浮かべてこちらへ駆け寄って来る。
「もー、遅いよっ!」
言葉に反して彼女の表情には、これ以上無い程の安堵が滲んでいるように見えた。この様子では新たなクラスメイト達が絶妙な反応をしている事など全く気が付いていないだろうな。
「僕が遅いんじゃなく、君が早いんだと思うけどね」
そう笑って言うと、彼女はどうしてか僕の顔をジーッと覗き込むような仕草をした。
「あれ優太あんまり驚いてない? ウチ、学校が同じだって言ってないよね?」
相変わらずの慌ただしさと……その鋭い指摘に、驚くフリなど馬鹿らしい事をしなくて済んだと油断していた額に汗が伝う。
「あ、ああっオドロイター!」
「いや何してんの」
「ごめんなさい」
なるほど、どうやら僕には演技の才能が無いらしいと痛感していた時、隣に居た美央子が首を傾げて口を開く。
「優太。この人は?」
「ああ。えーっと、春休みにちょっとしたきっかけがあって知り合ってね。こちら衣原理夢さん。今年からこの高校に転校してきた日本で一番の慌てん坊だよ」
彼女が僅かに困惑した様子で放った当然の疑問に、僕は軽い人物評を混じえて紹介をする。この学校でまだ理夢には友達が居ないだろうし丁度良い機会になっただろう。今日からクラスメイトになるわけだし、この際仲良くなってもらえれば嬉しい限りだが。
「慌てん坊?」
しかし美央子は僕の軽い茶目っ気に随分引っ掛かってしまったようだった。気にして欲しい部分はそこではないが失敗。
「ちょっと優太! 訳分かんないこと言わないでよっ。初対面なのに変な誤解されちゃうじゃんっ」
いや、僕から誤解などではなく紛れも無い真実なのだが……まあいいさ。真実がいつだって人を幸せにするとは限らない。それにこのまま教室の端で立ち話をしていては皆の邪魔になるだろう。
「あはは、ごめんごめん」
適当に謝罪をしてから美央子に視線を送ると、彼女は納得したようにふわり笑みを浮かべた。聡い人だからすぐに僕の意図を察してくれたのだと思う。
「えっと衣原さん、だっけ? 私は星見美央子って言います。これから一年間よろしくね」
そうして百点満点の自己紹介を受けた理夢は僕に対する憤りを少しは忘れてくれたらしく、ちょっと照れ臭そうに目線を下げて言葉を返した。
「あーうん、よろ。てか理夢で良いよ? ウチも美央子って呼ぶから」
「うん、じゃあ理夢ちゃん。理夢ちゃんは転校してきたんだよね。学校や街の事何も知らないでしょ? 私で良ければ何でも聞いて?」
「ホントに!? いやガチ助かるよ。実は服とかどこで買ったら良いのか迷ってたんだー」
美央子のグッドな提案に対して、学生の本業である勉学そっちのけで「服屋」を挙げた理夢については少し苦笑いものだが、美央子がガイドになってくれるのならば問題などすんなり解消してくれるに違いな……いや、どうだろう分からん。
そうして僕達は軽い談笑をしながらでそれぞれ鞄を机に掛け、とりあえず一番スペースが取れそうな窓際の、理夢の座席付近に集合する。横目で黒板の上にある時計を見れば時刻は八時の十五分。早めに登校した甲斐があったな。担任が教室に来るまでまだ時間も余裕もあるし、初対面の二人が交流するには充分な間が……しかしそうなるとクラスが分かれてしまった円香が少し気がかりか。孤立していなければ良いけど、後で様子を聞いておこう。
「で、二人はどういう関係なん?」
「え」
と、僕が幼なじみの交友関係について杞憂していた時だった。机に腰掛けた理夢が唐突に、何とも気軽にそんな質問をして、僕は硬直した。窓から差し込む穏やかな陽の光にさえ冷えを感じる程に。いやまあ美央子とは一緒に登校して来た訳じゃないが教室に入ったタイミングは同時だし、理夢が疑問に思う理由も納得出来る、けどさ。
どう答えるべきか、その判断材料として僕はチラッと美央子に視線を向ける。
「ん?」
すると……何でか知らんが彼女はポカンと首を傾げていて、まるで『どういう関係かなんて優太が一番知ってるでしょ?』みたいな表情で僕を見ていた。確かに『友達だ』と知っている。しかし単純にそう答えるのは避けた方が無難と思った。これは何というかそう、直感だ。
「えーっと……彼女とは去年からクラスが一緒なんだ。入学以来僕とずっと仲良くしてくれているんだよ。海とか山とか色んな場所へ行ったりもしたし。そうだ。今度三人で何処かに遊びに行かない? 理夢もこの街を知りたいだろ?」
告白を断った相手から告げられる『友達』は、少し残酷かもと。
「あ、それアリ! いやーホント優太と会ってて良かったー。実は結構不安だったんだよね。ウチ、転校は何度もしてるけど一から友達作るのって大変でさ。荷造りでも色々捨てなきゃいけないし……あ、そっか! あのパーカー引越しで捨てたんじゃん! どうりで見つからないわけだよー」
うん。我ながら上手い言い回しが出来たようだ。加えてどうやら彼女も物を失くした原因を知れたようだし……美央子もそんな理夢を見て微笑んでいるので文句無い万々歳。しかし理夢には後でこっそり釘を刺しておく必要があるか。僕が言うのも何だけど少々デリカシーを覚えてもらいたい……そもそも初対面の相手に「どんな関係」などと気軽に聞けるものだろうか? もしかしたらという想像はしなかったのだろうか? 普通の女子高生ならば気に掛けてもおかしくない類の話題だろうに。それはあまりに無遠慮で、この複雑な関係が入り組む学校では破壊的過ぎる気がするぞ。
と……新生活の始まりは、外は快晴だけど、僕の内心にはやや暗雲が立ち込めていた。まるで針の穴に糸を通しながらで平均台を渡っている気分。そうして地元の話や我が校独自の風習などを語り合う理夢と美央子の二人を見つめながら、せめて僕の周囲くらいは、後半分の学生生活が平穏で健やかで、平和でありますようにと願うばかりである。
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