7話 スターと
4月5日の午前8時ジャスト。
本日晴れて始業式を迎える僕の足取りは羽付きだった。
「円香ー。早くしないと遅れちゃうよ?」
まるで気持ち良くすっきり起床した朝に、好きな音楽を掛けながらで身支度をしている時のような高揚感に包まれているし、実際今朝はそうした。
「うるさい黙れ童貞あっちいけ」
隣を亀と同じ速度で歩く幼馴染は、どうせ夜更かし癖のせいで頭痛でも響いているのだろう。両こめかみを執拗にマッサージしながら、青白い顔で僕に時折暴言を吐いていた。
およそ二週間ぶりのいつもの通学路。住宅街を抜けた先、この近辺で一番大きい通りに面した白い校舎が、道路を挟んで向こう側に見え始めていて自然と頬が緩む。隣の車道を走るバスの中、自身の歩く歩道の前と後ろ、向かいの歩道などあっちこっちに同じ学ランを着た生徒の姿。シーズンを僅かに過ぎても花弁の残る桜、通勤ラッシュで混雑する道路。それらの光景は僕に学校生活の再開を強く実感させた。友人と笑い合うあの日々が帰って来たのだと……いやまあ休みでも会ってたけどやっぱり学校が良い。休日は休みたい。
と、僕がこんなにも上機嫌なのに対して円香の表情は未だ微塵も晴れていない。それどころか僕が嬉々として見ていた光景の全てを、彼女は親の仇かのように忌々しそうに睨み付けている。
「今年は同じクラスだといいね」
この様子だと彼女は今年もまた周囲から孤立してしまうに違いないな。本人は別に気にしないだろうけど、気にしないのと満足するのはまた別の話だと思う。余計なお世話かもしれないが、僕は彼女にも楽しい学校生活を送ってもらいたいのだ。そう思って投げた言葉だった。
「……嫌」
しかし円香は一瞬の躊躇いの後、視線は正面に固定したままで首を横に振る。当然同意してもらえるだろうと考えていた僕は「どうして?」と聞いてみるけど、
「言いたくない具合悪い頭痛い、帰りたい」
何が気に食わないのか知らないが、目に見える程のバッドコンディションを身に纏って口に出している状態の彼女から理由は引き出せそうにない。まあいいさ、同じクラスでなくても家は隣だし、そもそも学校は同じだ。
「今日は始業式だけだし頑張ろう? そうだ、終わったら進級祝いって事で何処かに遊びに行かないか?」
僕が言うと、彼女はまるでホラー映画の悪霊に取り憑かれた少女が如く獰猛に、軽く垂らした首ごと瞳をギョロっとこちらを向けた。
「うん行く」
表情には一切の変化が無かったけれど、先程まであれだけ陰鬱としていた容態が嘘のように彼女の足取りは軽くなって、僕の少し前を歩き出す……素直というかなんと言うか。格段に上がった速度、何人かの生徒を追い越して進んでいく彼女の後ろ髪は、陽の光に照らされて鮮やかに輝きながら、大きく揺れていた。
信号が青に変わって横断歩道を渡り、正門を潜ればそこはもう敷地内。足を踏み入れると、僕は歩みを止めないままで学舎を見上げた。正面にある教室棟と、向こう側にある実習棟。その二つを連結させて四角形の形を取る白い校舎。隣接した体育館、その奥に見えるグラウンドの砂色。送迎の車が多く停められている駐車場には生い茂った緑。2階建ての駐輪場の錆びてボロボロになった屋根……当然だが何も変わっていない。不思議と久しぶりな気もしなかった。
「わー、すごいねあれ」
むせ返るような青春の香りに息が溢れそうになっていた時。正面玄関にいるかなりの数の人だかりの狂喜乱舞の阿鼻叫喚に、僕は思わず言った。どうやら……新しいクラスの割り振りが下駄箱に張り出されているらしい。まるで入試発表と同じような雰囲気、ここからでも絶望と歓喜が聞こえる程だ。
「……また気分が悪くなってきた。さっさと退けっての邪魔くさい」
対して円香は足取りと共に暴言のエンジンも回転させてしまったようである。たまたますぐ近くを歩いていた男子生徒がその発言を耳にしたのか、遠慮の無い言葉使いに思い切り顔を引き攣らせて足早に去っていった。
「まあまあ。だってクラス替えだよ? 僕には気持ちが良く分かるなぁ」
彼女が自分の気持ちに正直なのは美点と思うが、もう少しTPOを弁えて欲しい。
「あいつら減るまでここにいる」
だが今にも地面に座り込まんばかりの勢いで立ち尽くして文句を垂れる円香には、最早僕が何を言っても無駄なのかもしれない。
「それだと日が暮れる。僕は教室に焦って行くのは嫌だよ」
「じゃあ一人で行ったら?」
と、口先を尖らせながら頑なに動こうとしない彼女を、僕がいよいよ手でも強引に引っ張って行こうかなと考えていた時だった。
「私と優太は二年一組で、円香ちゃんは五組だよ」
背後から声が聞こえて誰かが間に割って入って来る。視線を正面玄関から真横へズラすと……僕はその顔を見てホッと胸を撫で下ろした。
「……久しぶりだね、美央子」
何故ならそこには、僕の良く知る人の微笑みがあったから。
「うん、久しぶり。優太」
この一週間、会うどころか連絡すら取れなかった友人の変わらぬ様子に抱えていた心配が霞んでいく。消息不明だったのも気がかりだったけどそれ以上に……僕はもう嫌われてしまったのではないかと思っていた。嫌われても距離を取られても避けられても、仕方が無い事をしたと。
「ごめん、連絡返せなくて。心配かけちゃったよね?」
しかしどうやら彼女は違うらしい。だってあまりにも真っ直ぐ僕を見つめていた。こちらが感じていた僅かな気まずさなどは、所詮自分だけのものだったのだろう。一切の曇りが存在しない表情は、まるで僕らの間には何事も無かったかのように明るくて活発で、真剣だった。
「円香ちゃんもごめんね?」
そうして僕が呆気に取られていると、次に彼女は円香へそう言った。二人は僕が知らない間に「相談」をしていた間柄だ。だから同じく僕の知らない交流をしていても不思議は無い。想像はし辛いが友達のようなものかも。
「私、もう行く」
だが言われた当人は、想像とは真逆で思い切り顔を顰めると足早に去ってしまった。その……逃げたとも取れる素早い動きに、いよいよ二人がどういう関係性なのか分からず、僕は下駄箱付近の集団の中へ飲み込まれていく後ろ姿を「え?」とただ眺める事しか出来なかった。そうして僕が幼なじみの理解不能な行動に首を傾げて立ち尽くしていると、停滞した思考に美央子の言葉が聞こえて来る。
「円香ちゃん……気を遣ってくれたのかな? 後でお礼を言わないと」
「あの円香が気を遣う、っていうのは考えにくいなあ」
再度回転を始めた思考や共に過ごした記憶が『あり得ない』と告げている。というかそもそも何に? 一体誰に気を遣う必要が……いやそうか。
「えー、円香ちゃんはとっても気遣い出来る良い子だよ? 寧ろちょっと自分を押し殺し過ぎてるくらい。昔の私そっくり」
もしかして僕達に気を遣ったのか? 美央子と二人きりにさせる為? だとすれば妙だ。僕と美央子の関係は『これからも仲良く』と決着が付いているし、その結末は円香も知っている筈。
「優太、どうしたの? 早く行こう?」
分からない。
「う、うん……そうだね」
自分だけが何かに気が付いていなくて、置いて行かれている。そんな漠然としたモヤモヤが残ったまま、僕は言われるがままに歩き出した……まあ分からない事はあれこれ考えても仕方が無いか。だって今日から学校が始まるのだし、切り替えていこう。
そうして僕達は未だ熱狂する正面玄関に割って入り、三つの区画に分けられた下駄箱の内の中央に足を踏み入れた。去年までは右側を使っていたから、これだけでもう超新鮮である。今年から三年生になった先輩が綺麗に清掃してくれたであろう、二年生用の下駄箱、案外すぐに見つけた自分の名前。靴を入れるとリュックから上履きを取り出して履き替え……あ、そうだ。
「美央子、はいこれあげる」
僕は上履きを床に落とすと、次にリュックのポケットから小さめの紙袋を取り出して美央子へ差し出した。本来なら一週間前に渡そうとしていたものだ。上履きの踵に指を入れながら「え?」と、絵に描いたようなキョトン顔をして受け取った彼女を見て、僕は内心ほくそ笑む。
「誕生日おめでとう」
「……あ」
見開いた瞳で、彼女が紙袋から取り出したのは掌サイズの小包。それは黄色の包装紙で包まれていて緑のリボンが口を締める。更には手書きのバースデーシールと……素人ながら自分でも渾身のラッピングと思う。
「当日は祝えなかったから、会ったらすぐ渡そうと思ってさ」
中身は彼女の髪色と同じで薄く黄金色に輝く細身のブレスレット。一ヶ月程前に美央子含めたクラスメイト数人で行ったアクセサリーショップにて、チラリだったが彼女が「可愛い」と言っていた物だ。
「もうっ……だからってここで渡すかなぁ」
彼女は苦言を呈しながらも瞳を若干潤ませて微笑む。渡した小包を胸元で抱える様子から喜んでくれているのは明らかだった。
「良いサプライズだったでしょ?」
いやまあ本当はどこか遊びに行った時にでもと思っていたけど、だって連絡が付かないので予定も立てられないし……何より今思い付いたから即実行してみたのだが、結果成功したらしいので万々歳だろう。
「うんっ。今まで一番びっくりかも」
彼女は目元を軽く拭うと、包みをそりゃもう丁寧に大事そうに自らの鞄に収納していった。
「ありがとう、優太」
こうして僕の春休み期間中に抱えていた気がかりは完全に消失し、新しい学生生活の始まりとしては最高スタートになった……ずっと下駄箱に居たもんだから周囲の生徒達が『何事か』と怪訝な視線を僕達に向けていて、気が付いてから足早に去った時に交わした照れ臭ささえも、多分忘れられない思い出になったと思う。
「次の誕生日も楽しみだなぁ。えへへ」
「いやいや、そりゃいくらなんでも気が早すぎるんじゃないかなー」
うん。僕はやっぱり美央子の事が(人として)好きだ。明るくて真っ直ぐな彼女と話していると安らぎだけじゃなく暖かいものを感じられる気がする。
「え?」
「え?」
ただ何というか、そう。
「気が早い? どうして? だって誕生日はこれからも毎年あるんだよ?」
「え、えーっと、そうだね?」
たまに会話が、というか致命的な何かが噛み合わない。この朗らかな傲慢とも言うべき彼女の感性と僕とで噛み合っていない瞬間がある。
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