6話 パープルレイン
近場のショッピングモール。2階の映画館。スクリーン内の座席にて。
現在、僕は幾つかの酷い罪悪感に苛まれていた。
荒れ果てた児童書コーナーを、ようやくと整理し終えたのが45分後のことで、約束した30分を超えてしまったのだ。これが1つ目の罪悪感。自分なりに懸命に急いだつもりだったけど、結果が伴わなければ意味が無い。だから僕は当然の報いとして、望月ちゃんの分もチケットとポップコーンの代金を払った。そうして「割り勘で良かったのに」と、微笑む彼女を見た時に感じたのが2つ目。だってこんなの……まるで金で誤魔化したようなものだから。
3つ目は現在進行中だ。
僕と望月ちゃんは、スクリーン内の座席で、SF映画の予告を横目に談笑していた。プライベートでの会話は初だが、趣味嗜好が似ていた要因も相まって、特に気不味い瞬間も途切れる事もなく話せていたと思う。
しかし、ここで問題が発生した。
「その服凄く可愛いね。望月ちゃんの髪色に良く似合ってるよ」
どうにも僕が何の気無しに言った、この言葉が原因らしい。
「あ、ありがとうございます……」
そう望月ちゃんは一瞬照れて微笑んだ後、咲いた花のように朗らかだったが突然……今は困ったように顔を顰めてしまっている。どうしよう、何か気に障る事だっただろうか? 僕はまたデリカシーの無い発言をしたのだろうか……などと抱えた罪悪感と共に慌てふためいていたら、沈んだ様子の彼女がポツリ呟いた。
「私、今月からあの書店でバイト始めるんです」
「え?」
驚き2割の意味不明8割な発言に、僕は首を傾げた。矢森さんが言っていた「面接してた女の子」とは彼女だったのかという納得もあった。しかし何故今、そんな話をするのかがどうしても理解出来なかったのだ。
「それは……驚いたな。一緒に働けるなんて凄く嬉しいよ!」
これは本音。だけど僕は望月ちゃんに元気を取り戻して欲しくて、少し大きく反応をした。勿論館内なので周囲に配慮した最大限の声量である。しかし、彼女の表情はまだ晴れない。
「だからその、私と間代さんは学校でも先輩後輩で、バイト先でも先輩後輩ってことになります。だから、えーっと」
指先を膝の上で忙しなく動かして、言い難そうに言葉を濁す彼女の様子は、まるで告白でもするかのような緊張感を持っていた……一体、これから何を言われるのだろう。鼓動が高鳴って、しかし僕の受け入れる覚悟が整う前に、望月ちゃんはレンズの奥の潤んだ瞳をこちらへ向ける。
「私のこと名前で呼んで欲しいんですっ。私も、間代さんを名前で呼びたい」
そうして切実な声色で、言った。
「ダメ、ですか?」
ああ……なんだそんなことか。と、僕はすっかり肩の力が抜けた気分だった。同時に申し訳ないとも思う。
「もちろんいいよ。ごめんね。歳下の君から言わせてしまって。本来ならこういう提案は僕からするべきだったのに」
僕を映画や夕食に誘ったということは、彼女はこちらを少なからず好意的に見てくれていたのだろう。距離を縮めたいと考えてくれていたのだろう。でも、そんな相手がいつまで経っても苗字で呼んでいたら不安を抱えてしまうのは無理もない。距離を置かれているのではと疑ってしまうのも理解出来ない話ではない。僕の配慮が足りなかったせいだ。僕のせいで……こんなに悲しい顔をさせてしまった。
「
僕が言うと、彼女の表情はパアっと晴れる。薄暗いスクリーンの中で僕達が居る座席だけが、陽の光に照らされたみたい。
「はいっ……その、ありがとうございます……優太先輩」
そうして語尾に近づくにつれ、徐々に小さく萎んでいく祝の声。それはか細く、微かに震えの伴ったものだったが、しかしその視線だけは真っ直ぐに僕を見つめていた。
「先輩か。なんだか照れるな」
そう、僕は中学以来また先輩になるのだ。これからはもう少し歳上として、上級生として自覚を持たねば。もう同じ失敗をしない為にも……と、僕が久しぶりの先輩呼びの感慨に耽っていた時、最後の予告が終わりを告げ、スクリーンの照明が落ちていった。最後に見えた、暗がりで画面の光に照らされたその表情を、笑顔を、僕はきっとこの先も忘れられないだろう。
「慣れて下さいね? だって私、これから何度でも呼びたいですから」
「うん。もう慣れたよ」
大画面には盗撮防止の映像と注意喚起が流れていて……そろそろ映画が始まるらしい。それから僕達は無言になって、示し合わせたように姿勢を正した。だけど僕は『本当に大丈夫かな』と、何だかちょっと不安になってしまって、思わず視線を横へとずらす……するとどうやら、彼女も全く同じ事を考えていたらしい。暗闇の中で、彼女のレンズ越しに光る瞳がこちらを見ていたのだ。偶然にも互いに顔を合わせてしまった僕達は、またしても同じタイミングで苦笑いを浮かべた。そうして一度笑い合った後、これもまた同じようにスクリーンへ視線を戻したと思う。そして僕が今笑っているように、きっと彼女もまた、まだ笑顔なのだろうと……うむ。意図したものではないが、映画の前振りとして最高のやりとりだったかも。だって聞くところによるとこの映画は、恋愛モノらしいから。
タイトルは確か『空が青くて』だったっけ。何年か前にベストセラーになった小説だ。僕は表紙を見た事がある程度だが、祝は原作の読んだ事があるらしい。彼女曰く何でも「めっちゃ面白い」らしいので、僕は僅かな期待と上がり過ぎたハードルを胸に、首と腰をふかふかの座席に深く預けて手元のドリンクに手を伸ばした。
配給会社のロゴから始まり、スクリーンに最初の場面が映る。
教室、生徒達の好奇心に溢れた視線が集中する先には一人の男子生徒。どこか影のある色白の美少年といった印象だ。黒板に大きく名前が書かれているので恐らく転校生だろう。教師が『東京から越して来た』と説明すると教室が湧き上がる。となると舞台はどこかの田舎か。そしてそんな彼を、爛々と輝いた瞳でじっと見つめる女子生徒が一人。机の脇に掛けられたエナメルバッグや、血色の良い肌色から運動部所属の活発な生徒と分かる。都会から田舎に来た少年と、田舎から都会に憧れる少女。閉鎖的な彼と開放的な彼女の二人は、幾つかの経験をして仲を深めて……遂には恋人となった。
そうして時が進み、卒業の日。
『俺さ、東京に帰るんだ』
少年は大学進学の為再び都会へ帰ってしまうらしい。『ここでは夢を叶えられない』とも言った。少年は少女の悲しむ顔を見たくないばかりに、この決断を告げる事を先延ばしにしていたのだ。当然少女は動揺し、少年もまた不用意な言葉で傷付けて、そうして遂に二人は言葉を交わさないままで別れてしまう。
場面は移って大学の構内。
抱えた夢の為に勉学やアルバイトに励むも、未だ少年の心の傷は癒えていなかった。あの子が好きだった食べ物を見る度、夕焼け空を見上げる度、何をしていても少女の幻影が脳内で微笑んでいる気がした──そんな時、少年は運命の再会を果たす。しかしそれはあの少女ではなかった。偶然にも同じゼミだったのは幼馴染のまた別の少女。田舎へ越した際に離れた、片想いの初恋相手だった。
ここで視点は少女へ変わる。
少女は少年との別れが心の影になりつつそれでも前を向いて、進学の為に勉強をしていた。東京の専門学校だ。でもそれは少年を追う為ではなく、少女もまた自分自身の目標の為に。連絡先はもう必要無い。会うことも無いだろうと。そうして無事合格した少女は上京をする。駅から街へと踏み出した瞬間に初めての都会と雑踏、ビルの高さに圧倒された。いつの日か抱えていた憧れを目の前にした少女は、新生活に心を躍らせていた。それにまた、別の出会いもあった。目が眩むような慌ただしい日々の中で、少女から徐々に少年の面影が薄れていく──もう一度、彼に会うまでは。
そこからは何やかんや紆余曲折あって、少年は少女への、少女は少年への想いを再確認した。だがしかし少年の手には留学の誘いがあった。そして少女もまた道半ば。だから少女は言ったのだ。
『私には私の道が、貴方には貴方の夢がある。いつまでも待ってるなんて言えない。それじゃ前を向けないから、振り返っちゃうから……だから今度はちゃんとお別れを言おうよ。私が貴方の背中を押すから、貴方は私の背中を押して?』
『でも……俺はまた君を……離したくない、忘れたくないんだっ』
『大丈夫。だってこんなに広い世界で、私達は二度も会えた。きっとこれも最後じゃないよ。だから今は……さよなら』
少女の微笑みはあの頃のままでも、それは悲痛に耐えながらも懸命に緩ませた表情であると少年には分かってしまった。だから少年もまた、想いを殺して呟いた。
『……さよなら』
そして少年は飛行機へと乗り込み、彼方へ消えて行った。少女が見上げた青空は雲一つなく何処までも澄んでいる。そのあまりの広さに少女は、今まで必死に堪えていたものが、無意識に溢れ出しまったのだった。
「うぅっ、ぐすっ」
因みに僕も溢れ出していた。
映画が終わり、流れ始めたエンドロールの文字が見えない。だってそこには彼らがまだ手を取り合って笑い合っていたあの日々が写真として映し出されているもんだから、余計にセンチメンタルになってしまう。そのズルい手口からスクリーン内のあちこちからも同じように鼻を啜る音が聞こえていて、僕は長時間座った事による腰の痛みなどお構いなしに、一刻も早くこの感情をシェアしたいと隣へ視線を送った。だがそうして目にした祝は……何というかそう、
「……」
無だ。画面の光が反射したレンズ、その奥から、研ぎ澄まされたように冷えた瞳が画面を覗いていた。そこには感傷に浸っている様子など一切存在しない。いや、どちらかと言えば興味を失くしているというか、不満があるというか、納得しかねるみたいな顔だった。少なくともこの映画の原作を「めっちゃ面白い」と評した人間の表情ではなくて……とりあえず見なかったことにしようと、僕は改めて画面だけを視界に収めて映画の余韻に身を任せた。
やがてエンドロールが終わってスクリーン内が明るく切り替わる。僕がチカチカする目を慣らしてから隣へ恐る恐る視線を向けると……そこには穏やかに微笑む彼女の姿、先程のあれは見間違いだったんじゃないかと思わせる表情で、僕を見つめる祝が居た。
「良い映画でしたね。優太先輩」
変貌っぷりが少し怖いが、僕の良く知る彼女そのものだ。
「ああ、うん。とっても良い映画だったよ。僕は結構泣いちゃったんだけど、祝はどうだった?」
「私は原作を読んでたし展開も殆ど同じだったので、あんまり泣けませんでしたね。でも一人で見てたら、やっぱりボロボロだったかも」
僕が軽い探りを入れて聞くと彼女は照れ笑いながらで答えた。それはあの無表情にも納得の出来る回答だったのだが……と僕は、本当に些細なモヤモヤした何かを抱えながら座席を立ち、退場を始めた。
映画観賞後の独特な浮遊感と解放感、そして登場人物達に移入した感情の置き場が迷子になっていて足元がフラつく。スクリーンを出てから薄暗で長い通路を抜けた先、視界に広がったショッピングモールの吹き抜けがあまりに明るくて腫れた目が痛んだ。スマホで時間を確認すれば19時を過ぎた頃。現実世界はまだまだ賑わいの最中らしい。
僕達は人の流れに身を任せるように、エスカレーターで幾つかの飲食店が立ち並ぶ1階へと降りた。鼻先を擽る何かが焼けた香り、便乗して空いた腹に僕が何を食べたいか内心で聞いていた時、
「さっきの映画の結末ついて、優太先輩は賛成ですか? それとも反対?」
隣を歩く祝が正面を向いたままで僕に質問した。一見何気ない感想交換にも思えたけど……難しいな。何を思うかでも何を感じたかでもなく、賛成反対の二択とは。そう一瞬あれこれ悩んだけど、結局僕は直感的な答えを選択する。
「反対、かな。僕ならやっぱり好きな人とは一緒にいたいと思うよ。離れるなんて寂しいしね」
すると祝は少し長めに息を吐き、首を軽く垂らす。どうやら僕の回答は彼女の望んだものだったらしい。同意を得られて安心して、抱えていた緊張が解れたと言わんばかりの仕草だった。
「ですよねですよね? そうですよねっ? 私あの原作は結構好きなんですけど、結末だけは納得出来なかったんです! 別れるなんてやっぱり寂しいですよね?」
矢継ぎ早に疑問符を並べる祝に、僕は先程の無表情の理由に検討が付いて苦笑いを浮かべた。要するに彼女はあの切ないエンディングが気に食わなかったのだろう。中学3年生にはちょっぴりビターな話だったらしい。
「だって彼らは結局、色々理由を付けて諦めただけですよね? きっと努力も根性も準備も覚悟も足りてないから、あんな結末になっちゃったんだと思うんですっ」
口先を尖らせて不満を吐き出す祝の様子を見れば、エンドロールで確かにあんな顔になるだろうなと思った。まあ概ね同意。そりゃ僕だってやっぱりあの二人には幸せな最後を迎えて欲しかったと……そう、途中まではそうなるだろって思ってさ……ああ、やばい。また涙が溢れ出しそう。
「私なら欲しいものを手に入れる為に何でもしますよ。諦めるなんてありえない。だって私、欲しいものは絶対に手に入れたいタイプですから」
視界の中では彼女の髪の紫さえも滲んでいて、上手く表情が見えない。
「ねえ、優太先輩?」
僕は対面から向かってくる人影を避けながら袖口で目元を拭った。
「そんなわけで、晩御飯はあそこにしませんか?」
何度か瞼を開いて閉じて、ようやく確認出来た彼女の指先。それが示す方角にあったのはビュッフェ形式の店舗。好きなものを好きなだけ選べる、買い過ぎたポップコーンと適度な疲労で完全な空腹ではない気分には最高の場所だった。
「いいねいいね。おっ、チョコレートファウンテンもあるんだってさ。祝はあれやった事ある?」
僕が店先に掲げられたどデカいポスターに興味を惹かれていると、どうしてだか祝に小さく笑われてしまった。
「ふふ。優太先輩って意外と子供っぽいとこあるんですね」
「え、そ、そうかな? 経験が無いから一度やってみたかったんだけど、もしかして高校生がやってたら変に見えちゃう?」
「いやいや凄く可愛いと思いますっ。食べてるとこを撮って良いですか?」
「それは、ちょっと恥ずかしいな」
「お願いしますっ! 一枚だけ一回だけですからっ、ね? ね?」
「……分かったよ。SNSとかに投稿しないでね? あそこはとても怖いところだから」
「え? ああ、はい。それはもちろんですよ」
そうしてスマホ片手に笑みを浮かべる祝には、最早緊張の色は窺えない。思うに映画が始まるまでは少し距離が開いていた。恐らくあのおっかなびっくり本屋で僕に挨拶をしていた頃の彼女はもう何処にもいないのだろう。それほどに近付いたのはお互いに名前を呼び合う関係になったからか、それとも同じ映画を見るという経験をしたからか……どちらにせよこの小さな強欲に付き合うのは、少しだけ骨が折れそうだった。
「だって私だけのものにしたいですもん」
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