5話 パープルフリンジ
春休みに入って一週間が経過した今日。休みと名前が付いているとはいえ、僕らのような学生は休んでばかりではいられない。課題は勿論、満足な休みを過ごす為にも、自由に使えるお金が必要だ。これが仮に社会人であれば日常の労働によって対価を得るが、僕達の日常である学生生活には当然だが賃金が発生しない。つまり休みを休みではない日に変えて働く必要がある。そしてそこで得た賃金がようやく、休みの為に使えるのだ。労働と勉強と青春のどれも欠かせぬ同時進行が今年含めてあと2年……大人への道のりは険しいな。来年に迫った受験がより恐しくなってくる。
というわけで僕は今、近所の本屋さんでアルバイトをしていた。順当堂というそこそこの規模の街の書店。
「ありがとうございましたーっ」
立ち去っていく男性のお客さんの背中に、場所に合った適切な声量で感謝の言葉を告げ、頭を軽く下げた。思えばこの一連の動作ももうじき一年。今では結構手馴れたものだと思う。
しかし、先輩方に比べればまだまだなのだろうな。例えばそう、
「うーっす、間代」
この、矢森さんに比べればヒヨッコか。現在大学3年生の彼は高校生の時からここでアルバイトをしている大先輩。終始気怠げでやる気も覇気も全く感じられないが、接客スピードとトラブル対処はこの店一番。黒髪のパーマヘアに顎髭と、肩には何やらタトゥーも入っているらしく少々強面だが、遠出した時は必ずお土産を買って来てくれる優しくて頼りになる先輩……は言い過ぎか。
「お疲れ様です、矢森さん」
矢森さんはふらふら僕の隣に立つと、ぼーっとレジから店を眺め始める。相変わらず何を考えているやら、いや何も考えていないのかも。
「お前、もうすぐ上がりだろ? レジは俺が立っとくから、最後に整理してけ」
整理、ここは本屋なので当然本の整理を行う。巻数の抜けた漫画を補充したり、ズレた帯を直したり、順番を正しく戻したり高所の埃を除去したりと、要するに勤務中に好き勝手店内を歩いているだけで時間を潰せるという人気の作業だ。まあ僕は接客が好きなので別にどっちでも構わないのだが、
「良いんですか?」
矢森さんの接客嫌いは有名、というより普段の接客から見て取れる程である。愛想が無い上に面倒な注文を受ければ嫌な顔を全く隠さないから、整理となるといつも率先していたんだけど……というか良くここで続けてるなこの人。
「店長に説教食らってな。「態度変えなくて良いからせめて発注やれ」だってよ。仕事は増えるし時給は低いし休憩は短けえし、パートのババアとむさい男しかいねえし……そういやさっき事務所でバイトの面接してたぞ。それもまあまあ可愛い系の、若え女だったな」
「へえ、良い子だと有難いですね。それでは僕は整理に行って上がらせてもらいます。お疲れ様でした」
「おう。お疲れ」
長くなりそうな話を適当に切って、僕はレジを離れた。横目で見ると矢森さんが酷く億劫な顔をして、カウンター内に備え付けられたパソコンに向かっていく姿が確認出来る。きっとあのままレジにいたら妙な愚痴と世間話に付き合わされていたに違いない。
そうして歩き出した店内を眺めて思った……やはりここは、今日もかなり暇であると。平日の昼間にシフトを入れる事など滅多に無いけど、先輩方やパートさんの話に聞いていた通りだ。いつも入っている夕方とさほど様子は変わらないらしい。でも仕方ないか。ここは街の中心や駅からは少し離れているし、今は電子書籍やネット通販の時代。わざわざ紙の本を購入しようと考える人が自体が減少傾向にあるのだろう。レジから見える風景は春休み中とはいえ、いつもより少し多い程度のお客さんと、はしゃぐ子供がちらほら見受けられるばかり……児童向けの棚は後回しにしよう。何も荒れ狂う台風の中で瓦礫除去する必要は無い。
子供用に設置したブロックや積み木、それらが春休みで元気一杯の子供達に投げ飛ばされている光景を見て、僕は先に小説コーナーへ向かう。
人並みには本が好きな僕は、個人的にもこの棚を良く利用している。勝手は知っているので整理も楽。品揃えは決して悪くない。人気のシリーズも話題の作者も売れ筋も、無難だがしっかり抑える部分は抑えていると言えるだろう。しかしどうしようもなく暇だ。さっきからレジに応援を呼ばれる様子も一切無いし、無為な時間を過ごしているように感じてしまうし、賃金を受け取るのが申し訳なく思えてくる程に。
穏やかなのは嫌いじゃないけどなあ……と、バイト先の経営に一抹の不安を覚えていた時だ。
「あの間代さん、こんにちはっ」
僕が遠くから響く子供達のはしゃぎに戦慄しながらで本を整理していると、背後から声を掛けられた。その、やや緊張して上擦った挨拶と声色には聞き覚えがあった。振り返るとそこに居たのは……うん、やっぱり。
「いらっしゃい、望月ちゃん」
僅かな灰色にラベンダーのような色を帯びた、暗めの波打つボブヘア。ラウンドフレームの眼鏡が印象的な彼女、
「はい。また来ちゃいました」
週に二度、だが最近は多少頻度が増えている気がするな。まあ、だからこそ彼女は『えへへ』と照れ臭そうにしているのだろう。
以前、棚の高い位置にある本に手が届かず困っていた彼女を店員である僕がお手伝いした、というちょっとしたきっかけがあり、今では顔を合わせる度に軽い世間話をする知り合いくらいの間柄となっている。『読書が人並みに好き』であるという共通点もあるので、最近はこうして会話する事がバイト中のささやかな楽しみだ。年齢は1つ下の中学3年生で……そういえば確か、今年から僕と同じ高校に通うんだったっけ? だからつまり、これからは学校の後輩ということにもなるのか。だとすれば、今まで店員とお客さんだからと何となくしていた苗字呼びは少々他人行儀が過ぎるか? でも彼女も僕を、名札に『間代』と銘打たれているので当然だが、苗字で呼んでるし今更感が……
「いつもありがとね。それで、今日はどんな本を探してるの?」
いやまあ、そんなのどっちでもいっか。
それにしても私服とは珍しい。全体的に黒で統一されたコーディネイト、いつもは学校か塾帰りで制服姿だったからかなり新鮮。ネイルもバッチリ施されているし、少し気合の入った格好だ。これからどこかへお出掛けだろうか?
「あ、えっと違くて、今日はついでに寄っただけなんです。いや、ついでというか何というか、ついでっていうのは間違いないんですけど、ついでって言ってもちゃんと目的はあってですね」
一人でに慌てて小さい声量と身振り手振り。懸命に何かを伝えようとする望月ちゃんは大変可愛らしい様子だったが、やがて他のお客さんの視線が気になったのだろう。恥ずかしそうに俯き、次第に落ち着きを取り戻していった。それから一度軽く深呼吸をして、徐に口を開く。
「間代さん。こ、このあと時間ありますかっ?」
そうして望月ちゃんは顔を赤らめると、目の前で徐々に小さくなっていった。
「時間?」
僕は彼女の言葉の意味が分からず、首を傾げて聞き返す。
「だからその、バイト終わったあと時間あったらで、優太さんがすっごくすごく暇だったらの話なんで、迷惑じゃなければの話で……」
ここまで言われてようやく僕でも気が付いた。加えて、どうして彼女がこれほどおっかなびっくりしているかも。
「もしかして、僕を遊びに誘ってくれてる?」
言うと、望月ちゃんは大きく「そうですそうです!」と首を縦に何度か振った。言い辛いのは無理もなかったろう。こうした提案は僕らの間で初めてであるし、何より僕は歳上で彼女は歳下、店員でお客さん。気軽に誘える訳がない。緊張していたのはその為か。
「観たい映画があって。良かったらそのあとご飯も一緒に、なんて」
ぎこちなく引き攣った笑みを浮かべる望月ちゃんを横目に、僕はこれからの予定を脳内で振り返る。確かこの後は家に帰り夕食を食べ、お風呂に入って録画していた映画を観る予定があった筈。決して暇ではない、けど……せっかくの後輩の頼み、無駄にしたくないな。
「児童書のコーナーを整理してからになるから、後30分くらい掛かるけど良い?」
「全然良いですっ。立ち読みして待ってますから!」
望月ちゃんはそう言ってこちらへ詰め寄って来る。やや興奮気味な彼女の宣言は、本屋の店員として素直に賛成出来ないもので、思わず苦笑いが溢れてしまった。
「うん。分かった。じゃあいつもより頑張って早く終わらせてくるよ」
そんな僕の答えは満面の笑みで返され、飛び跳ねんばかりの喜びが滲んだ表情に、思わずこちらまで釣られてしまいそうだった……児童書から聞こえる保護者さんの怒号と子供の泣き声が、来たる残業を想像させるまでは。
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