4話 逃避行の果て、赤の知人
僕の住むこの近辺は街灯が少ない。
明るい時間ならまだしも、夕闇を過ぎれば途端に恐怖の暗がりとなる。加えてかなり入り組んでいるから抜け道も裏道も多く存在する。もし仮にここで鬼ごっこを行ったとすれば、住み慣れた者を捕らえるのは容易ではないだろう。しかし見通しの悪い通路があるということはそれだけ交通事故のリスクも考えられるし、あまり褒められたものではないかもしれない……まあ要するに、逃げ込むには最適の場所ということだ。
だって後ろを振り返っても誰もいない。足音も聞こえない。そもそも突然現れた男の……というか、僕の奇行に動揺して彼らは追跡どころの騒ぎではなかったろう。咄嗟に思い付いたにしては、我ながら良いアイデアだったのではないか。追って来ている気配も無いし。
僕はホッと胸を撫で下ろして、掴んでいた手を離して、軽く深呼吸をした。
「いやー疲れたね。君は大丈夫?」
とりあえず目に付いた自動販売機の前で立ち止まる。明かりに照らされた赤髪の彼女の額には汗が垂れ、大きく肩で息をしていた。走った距離はそれほどではないと思うけど、まさかこんな風に朝のジョギングとラジオ体操の効果を実感出来る日が来るとは。
「はぁっ、はぁっ大丈、ぶっ」
膝に手を付き、降参のポーズをする彼女はやがてしゃがみ込む。まだ若いだろうに運動不足か? 袋から買っておいた飲み物を差し出すと、彼女は覚束ない手付きで受け取り蓋を開けて喉を鳴らして、遂には……咳き込んでしまった。あまりの慌ただしい挙動に思わず笑みが溢れる。凄まじく忙しい少女だな。そうして僕が頬が緩みそうになるのを必死に抑えていると、
「その……ありがと。色々とさ」
少しは落ち着いた様子の彼女はそう呟いた。恐らく「色々」とは自らの行動や状況について整理が付いたのだろう。表情には重たい気不味さ、強い反省や後悔が滲んでいるように見えた。
「あそこで止められてなきゃ、きっととんでもない……ううん。取り返しのつかないことしてた。もう絶対、あんなことしない」
「そっか。それじゃあ僕からは何も言わないよ」
それに一番引き出したかった一言も聞けた。ならば万引きについてはこれ以上詮索しない方が賢明だろう。理由については、多分進んで話したいようなものじゃないのだろうし敢えて聞く必要性も感じない。結果として何も犯罪は起きていないのだからもう充分。というか早くしないとアイスが溶け……ああクソ、炭酸も買っていたんだったっけ。
「でも、暫くはあのコンビニに近付くのは避けた方が良い。こんな夜中に一人で出歩くのもね。さっきみたいな人達にまた出会す可能性もあるし」
まあ良いさ。僕一人に買い物をさせた彼女らへのささやかな仕返しだ。
「家はこの近く? 良ければ送っていくけど」
聞くと彼女は途端に顔を顰めた。まあ警戒するのも当然だろう。先程のような出来事の直後だし。だが直後だからこそ余計に心配する気持ちを分かって欲しいのだが、さてどう説明するべきか。
僕が思案していると、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「えっとさ」
表情は相変わらず気不味そうだが、忙しない指先の動きから、今度は僅かに恥じらいのようなものが見て取れた。言葉の続きを待っていると、彼女は苦笑いを浮かべる。
「ここ、どこか分かんない」
え……ああ、なるほど。衝撃の告白に一瞬フリーズした脳内を夜風で冷やしながら、しかし僕は苦言を呈する必要があった。
「万引き未遂にナンパ未遂に、極め付けは迷子? 飲み物を渡せば咳き込むし、とんでもなく忙しいね。えっと、先に聞いておきたいんだけど、これ以上は何も無い?」
僕のちょっとした皮肉に彼女は顔を真っ赤に染め上げると、突然声を荒げた。
「しょーがないじゃんっ。ここには最近引っ越して来たんだからっ!」
それこそ通報されかねない音量で。
「今度は警察と追いかけっこになっちゃうからもう少しボリュームを落としてよ……しかし困ったな」
しーっと指を立てれば、彼女はまたも恥ずかしそうに口籠もる。しかし目線はしっかり僕を睨み付けていて、ここからでも喉の唸りが聞こえてきそうだった。だがまあそれは小動物の威嚇のようなもので。初見では顔付きやら髪型から確かに怖そうなタイプと思ったけど、今もうただの迷子ちゃんにしか見えない。
「あまり気は進まないけどコンビニまで戻るよ。そうすれば道は分かるだろ?」
「多分分かる、と思うけど」
口先を尖らせて自信無さそう、というか無いのは一見して理解した。家で僕の到着を待ち侘びている二人には申し訳ないが、どうやら先にこの厄介な迷子をどうにかしないとならないらしい。せめて遅くなりそうだと連絡はしておこう。帰ったら何を言われるか分かったもんじゃないが。
スマホで確認すると時刻は22時過ぎ。未成年が外出するには制限も迫っているし、どれだけ時間が掛かるか分からない状況。今すぐでも出発しないと。
「お疲れだろうけど、立てる?」
と、僕はしゃがむ彼女に手を差し出した。万引き未遂にナンパ未遂に現在絶賛迷子中で大変だとは思うが、ここは是が非でも立ち上がってもらわないと。しかし本当にとんでもない少女だな。いつか大事になる可能性も充分考えられるぞ。と……そういえば、色々あり過ぎて失念していた。
「間代優太。高校1年、じゃなかった。この春から2年になるのか。歳は16だよ」
僕としたことが、対人関係に於いて最も重要な自己紹介を忘れていたのだ。名前すら名乗らないとは、少し失礼だったかもしれないな。それにここまで付き合ったんだ。せめて名前くらい聞いておきたいし、というか……本音を言えば連絡先まで知りたいくらいだ。いくらなんでも危なっかしくて心配過ぎる。
「え?」
いや、流石にお節介か。止めておこう。
「自己紹介がまだだったのを今思い出したんだよ。それにこれから夜の散歩するのに名前も知らないんじゃ不便だし。君は?」
差し出した手に、一度軽く見開かれたが、後は意外にもすんなりと握り返される。良かった、別に警戒されているわけじゃないらしい。そうして軽く力を入れて立ち上がってもらうと、
「あ、ご、ごめんっ」
えーっと、何故だろう? もの凄い勢い良く手を引っ込められて突然、強引に離されてしまった。何か気に食わないことをしてしまっただろうかと、あわあわする彼女の様子を眺めていたら……幾つかの理由に思い当たった。
「いや違くてっ、別に触られて嫌だったとかそんなんじゃない、から」
あれだけ走った後だ、もしかして手汗でも気にしたのだろうか? ああ駄目だな。こういう部分が円香に「デリカシー」と言われる原因だろうに。
「
そう名乗った彼女は、俯くとすぐにポケットへ手をしまう。それから万引きの事が頭の過ったかどうか知らないが慌ててポケットから手を出して、納め方を忘れたようにまたあたふたして……と、忙しい。笑い堪えるのにも体力が必要なんだぞ全く。腹筋が爆発しそうだ。
それにしても2年生とは、意外。
「同世代だとは思ってたけど、まさか同学年とは思わなかったなあ」
正直言えば、最初見た瞬間は一つか二つ上だと考えていたし。まあ一連の行いを見て歳下と修正したけど……とは秘密にしておこう。これもデリカシーだ。
「でも敬語使ってなかったよね。ウチのこと歳下に見えてたの?」
僕の反応に理夢が怪訝な表情を向けて来る。しまった、彼女は歳下に見られたくない系女子だったか、なら失言。迷子中のくせに鋭いやつめ。
「敬語はあまり使いたくないんだ。確かに無難だけど色々面倒だしね……歩きながら話そうか。悠長にしていると本当に補導されちゃうよ」
ほぼほぼ本音で、しかし苦しい言い訳をして適当に会話を切る。それから僕は一旦地面に置いたレジ袋を持ち上げると歩き出し、これ以上『歳下歳上議論』をするつもりは無いと意思を示した。理夢はどこか納得のいかぬ表情で首を傾げていたが、付いて来る他無いと理解しているのだろう。早足で歩調を合わせて来ると、やがて肩を並べる。
「優太、って言ったっけ? 通ってるの高校はこの近くなん?」
狙い通り話題が変わったことに一安心をすると、僕は答えた。
「すぐそこの
しかし返答は無く、代わりにあったのは一瞬の間、そして「ふーん」と軽く鼻を鳴らした音だけだった。
「そっか、そっかそっかー」
隣に目をやると彼女はどこか楽しそうに、微笑みを浮かべていた。思えば出会ってからそれなりの時間が経過しているというのに──今、初めて笑顔を見た気がする。年相応の穏やかな表情だった。やはり人はこうして笑っているのが一番だな。しかし、問いの答えがまだ聞けていない。なので試しに再度、繰り返してみる。
「君は? 引っ越して来たってことは、この辺りの高校に転入したんだろう?」
「なーいしょっ」
すると、やはりというか何というか具体的な回答は無く、先程よりも大きくかつ悪戯っぽい笑みで返される……この様子だと、どうやら転入先は僕と同じ高校らしいな。恐らく春休み明けにでも学校で姿を見せて驚かそうという魂胆なのだろう。これでは益々歳下の印象が募る。あの慌ただしい挙動といいこの悪巧みといい、見た目の印象に反してなんと愛らしいことを。
「まあ、言いたくない構わないけど」
これは……今の内から驚愕の表情を練習しておかねばならないな。
こうして僕達は夜道を歩く。身の上話の幾つかや下らない掛け合いをしながらで。そして流れた時間は、万引きもナンパも迷子の事実も掻き消す程に穏やかだった。目的のコンビニに到着し、理夢が「やっぱり分かんない。どうしよ」とか言い出すまではすこぶる楽しい散歩だったと言えよう。それから彼女を無事に送り届けて、僕が家に帰り、玄関で仁王立ちをした二人へ溶け切ったアイスを渡すまでは。
「本当にありがと、優太。またね」
でもまあ……新しい出会いと、別れ際のあの表情を見られただけでも充分に、満足な夜だった。
そんな夜、というか深夜。
帰宅して数時間後、いつの間にか眠っていたらしい僕は突然目を覚ました。妹が押し入れの奥底から引っ張り出して来たボードゲームに付き合って、2人がかりで打ちのめされた疲れがまだ癒えずに頭がボケている。だから最初はどうして自分が瞼を開いたのか分からなかった。もしかしたら僕の膝を勝手に使って寝息を立てている円香の重量が原因かもと考えたりしたけど、
「……美央子?」
時間を確認しようと触れたスマホに表示されたメッセージを見て理由を知った。午前2時29分を告げる文字の下、
みおこ『起きてる?』
どうやらこのたった一言の通知音に僕は起こされたらしい。星見美央子からの、僕が告白を断ったあの日から、初めて送られた連絡にしてはやや簡素過ぎる一言だった。
M,Yuta『起きてるよ』
あの生真面目な彼女がこんな時間に連絡とは珍しいなとぼんやり思いつつ、寝ぼけ眼を無理矢理に開いて返信をした。そうして隣で眠る妹や円香を起こさぬように設定から通知音を切った瞬間、すぐに返事が返って来る。
みおこ『ごめん。昼間のことは気にしないでね?』
みおこ『あんまり重く受け止めないでね?』
みおこ『これからも仲良くしてくれる?』
スタンプも絵文字も無く次々と送られる疑問文に、僕は思わず顔を顰めた。一瞬迷って『君がそれで辛くないなら』と打ち込んだ文字を消す……だって辛くないわけがない。思いをすぐに断ち切れるわけがない。きっと彼女は『大丈夫』だと言うだろう。そして僕もそんな彼女を拒めないだろうし。
M,Yuta『もちろんいいよ』
と、結局あれこれ悩んだ末に何とか返せたのは肯定だけだった。こんな言葉しか出てこない自分が情けない。
みおこ『ありがとう。これからもよろしくね』
みおこ『大丈夫。私は分かってるから』
みおこ『おやすみ』
M,Yuta『おやすみ』
どうやら何かしら分かってくれたらしい彼女に、簡単に挨拶をして、それからこれ以上の返信が無い事を確認した僕はスマホを放り投げると、また目を閉じる……彼女にまだ何か伝えたい事があったのだと知った時には、もう翌日の朝だった。運良く気が付けたのは昨晩の僕が軽く寝ぼけていたから、会話の内容に問題や不備は無かったか振り返ろうと考えたからだ。
みおこ『このメッセージは消去されました』
そうして見つけたこの無機質な言葉に、僕は慌てて即座に『おはよう』と返した。しかし待てど暮らせどこの挨拶には返事どころか既読が付く様子すら無かった。一日過ぎても、二日三日と過ぎても……一週間間が経過した今でも、電話さえ繋がっていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます