飛んで、堕ちて、溶けていく(首筋・伊達眼鏡・トランス)
今のわたしの状態を他人が見たら、なんと言われるのだろう。
隣にいる男とはそういう付き合いであり、それ以上ではない。いつものようにいつもの準備をしてから、いつもの音楽をかける。すると恍惚感が湧き上がってくるのが自分でもわかる。ああ、きた。男のほうはもう完全に入っているようだった。
お互いに躊躇うことなく服を脱ぎ、ベッドの上でまずは抱き合う。だんだんと意識が不明瞭になっていき、貪るようにキスをする。気分は昂ぶり、自分でもなにをしているのかわからなくなると、そこから先はもはや動物のそれだ。
求めるまま、求められるままに動く。いや、動いているのかどうかもわからない。頭の中はぱちぱちとカラフルな色が弾け、サイケデリックな景色が広がる。きっと男のほうもそうだろう。視界は揺れ、自分が何者なのかもわからない。素面の自分では感じられないものがここにはある。高まる感度は何倍にも膨れ上がり、まるで世界と一体化してしまったようだ。
男は執拗に首元を攻める。痕をつけられた気もするが、どうだっていい。今がよければそれでいいの。
動きは緩慢さを捨て、次第に早くなる。そう、それ。もっとちょうだい。もっと、もっと。
わたしは果て、男も続くように果てた。
けれどまだ酩酊感の中にいるわたしたちは、そこで行為をやめることはなかった。飽きるまで抱き合い、いや、抱き合うという表現が正しいのかもわからないくらい陶酔し、それを繰り返した。
恍惚感が抜けてふたりともが素に戻る頃には日はとっぷり暮れていた。いつから始めたのかも覚えていなかったので、それが何時間くらいのことだったのかもわからない。ただ、元に戻ったわたしたちはそれまでのことが嘘のように「普通」になっていて、ホテルのルームサービスでごはんを食べながら笑っていた。先ほどまでの笑顔とは違う。あれは、あの時のわたしたちは、明らかに狂っていた。
まるで夢だ。起きてしまえばどうってことはない。でも夢を見ている間は現実感などない。醒めない夢などないのだ。
男と別れたあとは電車に乗って帰路についた。焦点のおかしくなった目には伊達眼鏡をかけて周囲の視線もごまかす。今は冬だしこんな暗い時間にサングラスをかけるのは余計に怪しい。だから今日みたいな日は伊達眼鏡を用意しておく。それがあの男と会うときの決まり事みたいなものだ。普通じゃない関係は異常な事態も想定しておくのがいい。転ばぬ先のなんとやら、だ。
あの男は「あのとき」だけ会う。これでも一応、わたしには決まったひとがいる。罪悪感がないと言えば嘘になるが、あれにハマってしまったのだからしょうがないと割り切っている。自分の彼氏には到底勧められない。
けれどわたしはもう物足りなくなってしまった。抜けられない世界に到達してしまうと、すべてを投げ出してでも足が向いてしまう。だから男と会う。気持ちごと持っていかれているわけではない。それはいけないことなのだろうか。
わたしの彼は優しい。きっと疑うことを知らない。仮に疑われていたとしてもうまくやっていく自信がわたしにはある。酷い女だという自覚はある。
家について鏡を見ると、やはり首筋には痕がついていた。明日は彼とのデートがある。でも大丈夫。そこにしっかりとファンデーションを塗り、メイクを施し、それでわからなくなる。やっぱり酷い女かもしれないわ、とわかりきったことを嗤う。
事のあとに疲れるのは普段でもそうだが、今日みたいな日は特にぐったりするほど疲労困憊だ。今日はおとなしく寝よう。そして明日に備えよう。「いつもの」わたしで、「いつもの」笑顔で、彼に会うために。
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