吉兆夢の使者(雨上がり・トカゲ・つる草)
秋の長雨は当分止みそうにない。天気予報を見ても数日はぐずつくようだ。これでは洗濯物が干せないな、とため息をつく。うちには部屋干しできるようなスペースはない。だから晴れの日を狙ってまとめて干すしかないのだ。車もないのでコインランドリーに行くこともできない。困ったな、ともうひとつため息をついた。
ただ雨自体は嫌いではない。窓際で雨音を聞きながら読書をすることもある。雨上がりのしっとりとした土の匂いも好きだった。
今日も雨粒が窓を叩く。先ほどよりも雨脚が強くなった。これでは歩いて買い物に行くのも億劫だ。雨は好きだけれど濡れるのは好きになれない。これだけ土砂降りでは傘を差していても意味がないだろう。
と、ここまで考えて僕は雨が好きなんだか嫌いなんだかよくわからないな、と苦笑してしまった。嫌いではないけれど好感は持てる、が正解なのだろうか。
ちゃんとした晴れ間を見るのは実に五日ぶりだった。それでも分厚い雲が通り過ぎることもあり、洗濯物は大丈夫だろうかと一抹の不安がよぎる。とにかく雨に降られなければいい。乾いてくれさえすれば問題ない、のだが。
嫌な予感とは的中するもので、ちょうど会社から家に着くか着かないかのところでパラパラ降ってきた。幸いベランダの軒下で揺れていたのですぐ救出することはできた。間一髪。やり直しにならなくてよかった。ほっと胸をなで下ろし、一息つくためにコーヒーを淹れることにした。
やはり雨音だけなら心安らぐ。窓際に大きなクッションを置いてもたれかかりながらカップに口をつけた。インスタントでも美味しく感じて、僕は疲れたからだを癒やすことができた。
そこに珍客があらわれた。こいつは……トカゲか?
尻尾が切れていて、なんだか痛々しい。きっとさっきベランダの窓を開けたときにでも入ってきたのだろう。僕は追い出すこともなく、隠れもせずテレビボードのあたりを徘徊するトカゲをぼんやり眺めていた。
トカゲの尻尾はすぐ再生すると聞くけれど、実際にはどれくらいで生えてくるものなのだろう。ちょっと興味の湧いた僕はしばらく観察してみることにした。奇妙な共同生活だな、と笑いながら。
けれど二日経っても三日経っても変化は見られなかった。なにか異常があるのではと心配になった僕は、ネットで調べてみた。そして大変に驚いた。すぐだなんて聞いていたものだから、その日にはもう生えてくるものだとばかり思っていたが、完全に再生するにはなんと二週間くらいかかるらしい。そりゃそうかと頭で思う一方、このトカゲはなぜ自切しなければならなかったのかと根本的な疑問を抱いた。うちに現れた時点で数日経っている可能性だってある。
僕はこの同居人のために小さな水槽を買ってやることにした。彼か彼女かわからないが、これで安心して尻尾を生やしてくれるといいのだが、さて、どうなるだろう。
面白いもので、ひとり暮らしの僕にできた同居人と日々を過ごすうち、愛着のようなものが湧いてくるのがわかった。少しずつだけれど尻尾も伸びてきている気がする。
僕はこの同居人を最終的にどうするのだろう。このまま飼う? いや、こいつは野生だ。そこまで面倒をみるつもりはない。でもいなくなったらなったで、さみしさを感じたりするのだろうか。奇妙で不思議で面白い関係。ならば当分は楽しんでやろうじゃないか。朝顔のように観察日記でもつけてやろうか、なんて僕らしくないことまで考えた。冗談だよ、冗談、と目の前にいる彼か彼女かに話しかけた。
また雨雲が空を覆う日々がやってきた。僕はいつも洗濯物の心配をしているな、などとテレビの天気予報を見て思った。そこで気付いた。トカゲは変温動物だ。あの日、小雨とはいえ雨が降っていた。この同居人は僕のうちへ雨宿りしに来たのではなかろうか。そこでたまたま僕が窓を開けた。そしてたまたま部屋の中へ侵入してきた。
ははあ、とひとり納得して、同居人の家を小突いた。お前、いいところへ来たよ。こんなに好待遇を受けるなんて思ってもみなかっただろう?
同居人は水槽と一緒に買ったトカゲ用の餌を無心で食べていた。
同居人の尻尾はどうやら完全に再生したようだ。そろそろ外へ帰してやろうか。昨日の大雨が嘘のように、今日はきれいな秋晴れだ。
僕は水槽ごと手にして表に出た。近くの公園あたりに放せばいいだろうと歩を進める。これでお別れだな。尻尾、大事にしろよ。心の内で声をかけながら僕は同居人からただのトカゲになったそいつを放した。一目散にどこかへ消えて行き、あっという間に姿は見えなくなった。薄情なやつめ。
空になった水槽を抱えながら帰路につく途中、つる草に覆われた家が現れた。厄介者の雑草か。トカゲだって普通は厄介者なのだ。僕のしたことはただの気まぐれなんだ。しかも、相当なお節介の。
おい、聞いてるか薄情者。早く幸運を連れて恩返しに来いよ。
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