存在証明(夏・自傷行為・恐怖)
ああ、イライラする。汗をかく季節ほど嫌いなものはない。外では蝉がわしゃわしゃと大合唱していて、苛つきを加速させる。部屋はエアコンの温度をガンガンに下げて寒いくらいだけど、夏だというだけで最悪なのだ。わたしはカーテンを閉め切り、少しでも日光が入らないようにしていた。
なにもする気になれない。ぐだぐだとベッドに転がったままスマホを眺めている。冷たいシャワーでも浴びればいいのかもしれないけれど、そんな気力もどこかへ行ってしまった。とにかく夏は嫌なのだ。なにがレジャーシーズンだ。みんなおとなしく家に引きこもっていればいいのに。
わたしはがばりと起き上がり、机の引き出しを漁った。もう限界だ。こんな時はこれしかない。
これを始めた当初にたくさんできた躊躇い傷の上から、思い切り、力いっぱい剃刀を当てた。一息に手をスライドさせる。溢れ出す液体。ついでのようにもう一本。さらにもう一本。肘を曲げると滴り落ちてくる鮮血は筋を描き、わたしはそれをしばらく眺めた。
気分が落ち着いたところで流れ落ちたほうからティッシュで拭った。すでにちょっと乾いてきていて、きれいには拭ききれない。手首は新しいティッシュを押さえつけて止血する。適当に絆創膏を貼って、腕の部分はウェットティッシュできれいにした。
ああ、スッキリした。この瞬間はたまらなく好きだ。恍惚感がわたしを支配する。
起きたついでに冷蔵庫までお茶を取りに行った。グラスに注いで喉を鳴らしながら数口飲んだ。そして減った分を足して部屋まで持って戻った。
高校生活最後の夏休み、わたしはこんなことばかり繰り返している。傷が癒えないうちからすることもある。だからって罪悪感はない。いつの間にか習慣化して、いつの間にか欠かせなくなったもの。毎日学校に行く必要がないから夏のわたしは外になんて出ない。だから余計に傷が増えてしまう。だって、外だと隠さなきゃいけないから。
なにも痛みが好きなわけじゃない。そこに幸せが転がっているからだ。自傷中はドーパミンがドバドバ出る。楽しい。気持ちいい。それを求めてなにが悪いのかわたしにはわからない。いいじゃん。わたしのからだだし。
数日後、よりによって天気予報で「今日は猛暑でしょう」なんて言われた日に外に出なくてはならなくなった。ああ、最悪だ。こんなの予定になかった。わたしはいつも通りエアコンの効いた部屋でごろごろしていたかったのに。
でも、仕方なかった。詳しくは知らされなかったが、大切な話があるとかで学校へ行かなければならなくなった。召集はわたしだけではなかった。学生全員が集められるらしい。
でもわたしは察していた。あれだけニュースでやっていたら誰でも気付くと思う。昨日、うちの生徒が自殺したようだった。学年は下だったからどんな子かは知らない。自宅のマンションから飛び降りたのだと報道されていたから、まあ、そういうことなのだろう。
学校集会には保護者も集められた。興味のなかったわたしは話半分で聞いていて、校長だったり担任教師だったりが事実関係を調査中だとかなんとか謝罪していた。なにもこのひとたちが謝ることじゃないのに。どうせあれでしょ、遺書がなかったらしいからいじめがどうのこうのってやつでしょ。かわいそうに。わたしみたいな楽しみがあればよかったのにね。
わたしに怖いものなんてない。自殺なんて一番縁遠いところにあるものだと思っている。だってわたしには剃刀がある。それだけでいい。友達がいなくても、親との会話がなくても、わたしは生きていける。
その日、激しい夕立があった。すべてを浄化してくれているような、嫌なことを洗い流してくれるような、そんな気分になりながら雨音を聞いていた。轟く雷鳴はあの子の悲鳴かな。誰にも届かないSOSがその子を追いつめたのかな。じゃあこの雨は涙なのね。もう泣く必要なんてないんだよ。
わたしは、弔いの気持ちで雨粒の代わりに血を流した。
それからさらに数日。外は相変わらずうだる暑さのようだった。今日も猛暑日でしょう、といつもの気象予報士が言うのをテレビで見た。まあ、涼しい部屋にいるわたしには関係のないことだけれど。
もうあの子のことが報道されることはなくなっていた。次々と舞い込むニュースは、どれも似たり寄ったりだけど確実に過去を上書きしていく。そうして忘れられていくんだ。あの子のことも、誰か別の子のことも。
ああ、そうか。わたしにも怖いものがあったんだ。自分のことなんてどうでもいいと言いながら、「わたし」がいなくなることが怖いんだ。だから生きる証を刻んでいくんだ。左手首の、躊躇い傷からずっと続くこの痕を。
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