彼女の好きなもの(色白・星空・甘党)
そこはサナトリウムを思わせた。山奥のロッジの中には簡素なベッドがあり、ウッドデッキにちょっとしたテーブルと椅子が一脚置いてある。
食事は週に一度車で買い出しに行く。一週間分ともなると大きな冷蔵庫にまとめて入れる必要があるため、仕方ないとはいえこの家で唯一違和感のあるものだ。異物感は抜けないが、彼女――石井志穂は割り切って置くことにしている。
それ以外で外に出ることはほとんどないため、彼女は日に当たることもなく肌は不健康に色白だ。まあ、誰に見せることもないのだが。
志穂がここへ越してこようと思ったのは、最初は療養のためだった。都会で働く日々が当たり前だった頃、精神を病んだ。かかりつけの医者に環境を変えることがいいかもしれないと提案され、思い切ってこんな田舎くんだりまでやってきたのだ。それでも志穂は後悔していない。これが自分にあった生活なのだと今では思う。
最初のうちこそ苦労はした。なにせ近くにコンビニがあるわけでもショッピングセンターがあるわけでもない。だがそれも慣れてしまえばどうってことはなくなった。住めば都とはこのことかと、都会生活時代の自分を振り返って思う。
今日は買い出しの日だ。日曜は特売品が多いので助かる。
車のキーを持って玄関を出る。このあたりでは鍵をかけなくても問題ないくらい静かな場所ではあるが、習慣として、そして一応の防犯として閉めておく。静寂な空間にガチャリと音が響く。志穂はこの無機質さが好きではなかった。
山道をガタゴトいわせながら下っていく。ここから大体一時間くらいだろうか。往復で二時間もかかるが、それ自体は苦ではない。志穂は軽自動車を走らせながらいつもの景色を通り過ぎていった。
それほど大きくはないスーパーに着くと、カートに買い物かごをふたつ乗せた。さて、今日はなにを買おうかと順繰りに回っていく。ほとんどの野菜類は大体同じだが、季節のものは多く取り入れるようにしている。
ああ、きのこが安いなと足を止めた。たくさん買って鍋やシチューに使おうか。ホイル焼きもおいしいなと献立を組み立てていく。志穂はこの瞬間が好きだった。
鮮魚売り場では秋刀魚がたくさん並んでいた。海の近くの店ではないから多少高いけれど、冷凍しておけばいい。じゃあ大根を少し多めに買おうと野菜売り場まで戻る。志穂にとって秋刀魚の塩焼きには大根おろしが欠かせない。少し醤油を垂らしてほくほくの身と一緒に食む。その幸せな時間を想像して彼女は四尾かごに入れた。
卵の棚には安売りのPOPが貼られ、これを毎週目当てにしている志穂は二パック買う。いや、今日は三パックにしようか。たまには自分でお菓子を作るのも悪くない。いつもより牛乳も多めにかごに入れ、段々一杯になっていくかごにうまく乗せていくのはもう慣れたものだ。
会計後は来た道をそのまま進み、日暮れ前に帰ってくることができた。大量の荷物を冷蔵庫に全部収めきると、肉を小分けにしてラップに包んで冷凍庫へ。これが彼女にとっての週一の大仕事。その他の日はほとんどを寝て過ごしている志穂は一息つくためにコーヒーを淹れた。これを飲んだらベッドに転がる。そして頃合いを見計らって夕食を作る。彼女にとってのルーティンはこうして過ぎていく。
翌日は快晴だった。秋を飛ばしてやってきた冬のような寒さでも、日当たりのいい窓際はあたたかかった。志穂はストールを羽織って朝のコーヒーを飲んだ。
さてと、と志穂は立ち上がってキッチンへ向かう。昨日買ってきた卵でプリンを作ることにしたのだ。オーブンはないから蒸し器で作る。卵液を作ればあとは蒸すだけでとても手軽なので、彼女はよく自作する。出来上がるまで放っておけばいいだけなのもいい。
待ち時間は本を持ってウッドデッキへ。天気がいいせいか、志穂の心まで弾んでいた。新しく用意したコーヒーをテーブルに乗せて、栞を挟んだところから読み進める。
セットしておいたキッチンタイマーが鳴って志穂はキッチンへ戻った。あとは粗熱を取ってから冷蔵庫で冷やす。夜にはいい感じになっていることだろう。
今日はなんだかいつものように寝るのがもったいない気がして、そのまま小説を読み進めた。いい一日だわ、と志穂は声に出さず思う。
気付けば外は暗くなっていた。本を読むのに没頭していたようだ。仕入れた秋刀魚を焼いて夕食を摂った。
久し振りに調子のいい彼女は珍しく酒を戸棚から出してきた。丸っこいグラスにウイスキーを注ぎ、部屋着をあたたかいものに替えて外に出る。ストールではなく毛布を肩からかけた。
椅子に腰かけて空を見上げると、雲ひとつない。満天の星が真っ黒な帳に張り付いて瞬いている。こればかりは都会じゃ体験できないことだ。
志穂は琥珀色の液体を舐めながら、しばしぼんやりとする。そこで冷蔵庫のプリンを思い出した。見るとちょうどいい具合になっている。そのままウッドデッキまで戻って一口食べた。甘い物が身に染みる。
志穂の好きなものがもう一つ増えた瞬間だった。
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