彼女に振られた僕は、修羅場の蠢動に気がつかない
「あれ、高宮君?
どうしてここ、ひとりなの?」
ウェーブの掛かった長い髪をかき上げながら、
笑顔のまま、覗き込んでくる。
「…ぶ、分担、だから。」
「え、そんなわけないんだけど。」
息が、近い。
からだから、ほのかに、甘い香りが、する。
「みんな、呼んでこようか?」
「い、いや、いいよ。
あ、ありがとう。慣れてるから。」
「ふぅん。」
近すぎる。
心が、持たなすぎる。
「じゃ、わたし、一緒にやろっか?」
「え。」
「あはは。大丈夫、大丈夫。釘打つの、ニガテだけど。」
「……ありがとう。春河さん。」
*
(……、夢、……か。)
あの日。
夕暮れを浴びた香奈の笑顔は、涙が出るほど眩しかった。
もう、他の男のモノなのに。
夢に出してすら、いけない人なのに。
ごめんね、香奈。
僕は、まだ、君を、忘れられない。
忘れる、から。
ちゃんと、想い出にしてみせるから。
*
試験期間前ともなると、
どこから沸いて出てきたのかというくらい、
食堂も混み合ってしまう。
経験は、人を賢くも、狡くもする。
僕が、こんなことをするようになるなんて。
「あ、高宮先輩っ。」
生命力に溢れた、くりくりと輝く瞳が、
好奇心旺盛に僕を覗き込んでくる。
「諸橋さん。
一年生から講義をサボるのはどうかな。」
「先輩が教えてくれたんじゃない。
最終講義は試験に出さない教授のリスト。
ここ、いいよね。」
「僕というよりも、ふつうに出回ってる奴だから。
サークルで廻ってくるでしょ。まだ入ってたよね?」
諸橋さんは、ごくごく、当たり前に横に座ってくる。
(これが普通だって。
講義でも、横、並ぶでしょ?
吉野家の牛丼、横に並んでる人、気にする?
先輩、気にしすぎ。)
そう言われてしまうと、どうにも反論できない。
食堂でも、男女が横に座る姿は、別に珍しくもない。
諸橋さんの言う通り、気にしすぎなのかもしれない。
「あ、B定だ。」
「うん。」
「炊き込みご飯だ、豪華ー。」
「だね。」
「高宮先輩、もしかして金持ち?」
「んなわけないでしょ。」
香奈と使っていたお金が動かないので、少し余裕があるだけ。
塾講師、コマ数減らしてもいいんじゃないかな。
「あ、先輩。」
「なに?」
「ビレッジグリーンのシャツ、去年も着てたね。」
ぐさっ!
「……よく気づいたね。」
「あはは、見てる見てる。
ドラマの背景画、男はビルを見て、女は服を見てるんだって。」
「へ、へぇー。」
「東京に来てから、いろいろ知りましたとも。いろいろ。」
確かに。
諸橋さんは、びっくりするくらい変わった。
潔いまでのボブカットだったスポーツ少女の面影はどこにもない。
量産型女子大生とは良く言ったものだと思う。
……量産型の水準ではまったくないと思うけど。
ボブカットもカットとカラーの入れ方だけでだいぶん違う。
ココアブラウン、だったっけ?
合わせてる服とチークが違うだけで、こうも雰囲気が変わるのか。
ショートでも、眼元が整ってるから、フェミニンな感じなのに印象が強い。
だから。
「ひややっこ、もらうねー。」
近い。
近すぎる。
スタイルいいのに、胸、ちょっとあるから。
一瞬、胸が頬を触ったんじゃないかと錯覚する。
絶対に言えない。もう、何の関係もないのに。
注意しても、気にしすぎ、とか言われちゃうんだろうな。
気取られない。気取られない。ただの外部性。公害、公害の一種。
「じゃ、先輩、
お、お買い物、付き合ってよ。」
「お買い物?」
「ほら、先輩も、服、ないんでしょ?
去年の服、着替えないと。ね?」
…着替えないと、か。
そう、かも、しれない。
「じゃ、先輩。
す、スマホ貸して。」
「え?」
「どうせできないんでしょ?」
「う、うん。」
できない。
香奈の時も、香奈にやってもらったから。
……って?
「あはは、先輩、顔に出てる。」
「え。」
「ほんと、気にしすぎ。
ただの事務連絡用。女子、みんなこんな感じ。」
そ、そうなのか……。
「はい、出た出た。見て?」
「お……。」
ぴこん
「に、24日?」
「そそ。
先輩が、試験なくて、アルバイトもない平日。」
「はは、良く知ってるね。
すっかり、知られちゃってる。」
「……。」
「ん?」
「ううん、なんでもない。
じゃ、じゃあ。」
「あ、うん。おつかれさま。」
*
やっ………た。
自然に、自然にできた。
シミュレーション、完璧だ。
挙動練習に二時間掛けた甲斐があった。
高宮君がサークルを辞めた以上、
講義が終わってしまえば、話す機会は消え失せてしまう。
自然に繋がるには、今日が最後のチャンスだった。
「おー、泉じゃん。」
「ぇ。」
「なにお前、結構可愛くね?
ってかすげー可愛いんだけど。俺と付き合わない?」
「あはは、ないない。ないわー。」
「うわ、お前、そういう感じかよ。
外面変わっても中身、変わんねー。」
「そういうこと。ごめんねー。」
……いいんだけど。しょうがないんだけど。
楓さん曰くの「ワンカールなのに童貞を殺すボブ」。
破壊力ありすぎて、こういう手合いを食いつかせてしまう。
「奥手の男の子に近づきたい」なのに、
男の子一般が近づいてきてしまうし、女子ウケがめちゃくちゃ悪い。
いや。
成果は、あった。
犠牲を払っただけの、絶大な成果が。
スマホの、
いちばん、うえに。
「………。」
こみ上げて、来る。
手の中に、高宮君が、いる。
この機会、何ヶ月待ったことか。
高宮君、分かってないね? SNSとは違うんだよ?
男の子、君だけしかいないんだから。
君が、いい。
君だけで、いい。
……
なんて送れば、いいんだろ……。
う、あー……。
*
「あ、先生。
去年と同じ服きてるー。」
ぐさぁっ!
……そうみたいだね諸橋さん。
服、みんな見てるんだなぁ……。
「ほんと見た目だけ爽やかって感じだよねー?
こないだ七三分けだったのに。」
「速やかに忘れてください。」
「忘れられるわけないじゃん。焦げ茶のスーツ着ててさー。」
「あ、あれは、その。」
「知ってる知ってる。彼女に振られたんでしょ?」
ぐさっ!
「あはは。まだ彼女いないんだねー。
去年の服着てるんだから。」
「その話はいいから、
ちゃんと手を動かしてね桑原さん。」
「終わってるもん。」
「え。」
「だから、終わってるって。
確認してもいーよー。」
そ、そんなバカな。
………た、確かに……。
「……きっちり今日の分だけね。
時間があるなら先に進んでください。」
「えー。そしたらこの時間遊べないじゃん。」
「桑原さん、何しに来てるの。」
「んー、トークの時間?」
「違います。」
綾乃さんいない日、ほんと自由だな。
僕に威厳、ないもんなぁ。
「もう、ほかの子のトコ行くからね。」
「あー! 待って待って待って。
ここ、分かってないから。」
「ん?
tan1°は有理数か?」
「そうそう、証明問題。
無理数です、おわり、では終われないっぽいやつ。」
「うん確かに終われない。
終われないけど、センターでこんな問題出るかな?」
「出ないと思う。」
「桑原さん、君ねぇ……。」
「分からない問題、ちゃんと教えてくれるんでしょ?」
「そうだけど……、分かりましたけど、
次の子もいるからね? 手短にやりますよ?」
*
さらさらと、流れるように、
ペンが走っていく。
「だからね、加法定理を使うと…」
声が深くて。優しくて。
(気にしなくていいから。
君のせいじゃ、ないから。)
誰も、言ってくれなかった。
(ちゃんと教えてくれる人が、いなかっただけだから。
桑原さん、賢いよ?)
親すらも、信じてくれなかったのに。
「で、tan30°は、実際には無理数だから…」
わかりやすい。
かゆいところに手を届けてくれる。
「と、いうわけ。
桑原さん、ちゃんと聞いてた?」
「あはは、聞いてた聞いてた。」
行って、しまう。
先生と、塾生、だから。
勇気が、出ない。
せっかく、あの女と別れたのに。
チャンスが、目の前に来てるのに。
「ん? どうしたの?」
「ぇ…。」
「また、悩んでることでもある?」
悩んでる。
悩んでます。
先生のことで。貴方のことで。
「……ううん、なんでも、ない。」
「そう? 夏期講習、ちゃんと選んだ?」
「選んだ選んだ。」
行かないけど。
先生のいない場所なんて。
「ちゃんと行ってね?」
あはは。
バレてる。見られてる。
好きだよ、雄馬先生。大好き。
*
「…綾乃、本命の元カノよ。」
げ。
あの娘、どういう神経してるのかしら。
「モデルと付き合ってるのよねあの娘。」
「いや、別れたって聞いたけど?」
!!
「言いなさい。梨花。」
「え、あ、綾乃?」
「綾乃、がっつきすぎ。彼氏、いるんでしょ?」
そ、そうよね。まだ別れてない設定だった。
わ、私としたことが。まどか、ナイスアシスト。
「へー、もう別れたんだ、あの娘。」
「あ、うん。みたい。一人で歩いてたし。
あの娘、見せびらかしたいほうでしょ?」
「まぁね。高宮君、可愛そうだった。」
「高宮君、やめちゃったもんね。いい子だったのに。」
「そうそう。やっちゃった時に爆弾処理してくれたし。」
私の雄馬君になにやらしてんのよ。
「…あれ、なんか、揉めてない?」
「って、綾乃?」
「や、やめてくださいっ!
け、穢らわしいっ!」
…なに酔っ払った男に燃料注いでるのよ。
この娘、本当にバカだわ。
「お、お前、読者モデルくれぇで
調子こいてんじゃねえぞこのアマっ!」
「きゃっ!」
まったく。なんで私が。
「読者モデルくれぇに、
酔っ払って手を出そうとしてる奴が、
なに調子こいてんの?」
「か、関係ねぇだろ。」
「ああほんっと穢らわしい。
穢らわしい穢らわしい穢らわしい穢らわしい穢らわしい。」
「なっ……。」
「暴力を振るう男なんてただのクズ。
一生、童貞でいるべきね。この場で去勢してもいいくらいよ。」
……ちょっと言い過ぎたかしらね。
本当のことだけど。
まったく。
「貴方。」
「ぇ?」
「ちょっと来なさい。」
「え、あ、あの。」
「あーあ。やっちゃったなぁ綾乃。」
「高宮君いたら、引き取ってくれるのに。」
「高宮君いたら、こうなってないって。
あー、はいはい、
河岸替えするからお会計してー。」
*
まったく。
やっぱり、来なきゃ良かった。
まどかには悪いけど、もう
「あ、あの。
あ、ありがとうございます。」
…礼くらいは、言えるのよね。
「勘違いしないで。
貴方のためにやったんじゃないから。
貴方になにかあったら、高宮君、哀しむから。」
「!」
「香月綾乃。
高宮君のアルバイト先の同僚。
そして、将来の、っ妻よ。」
「ぇ。」
「貴方が高宮君を解放してくれたことには礼を言うわ。
でも、もう彼に、近づかないで。」
「……。」
睨んで、戸惑って、落ち込んで。
表情の、豊かな娘。
男って、ほんと好きよねこういう娘…。
「それとも何?
キープでもしてたつもり?」
「違いますっ!
雄馬君は、そんなんじゃ」
下の名前で呼べる関係。
そう、そうだったわね。過去は。
「じゃあもう、お互い、後腐れなしよ。
貴方から振ったんだから。貴方からね。」
「……。」
まずいわ。唇、噛んでる。
どうして、私が悪役みたいになってるの。
おかしいじゃない。
「……いいわね、可愛い娘は。」
「……ぇ。」
「なんでもないわ。
高宮君、サークルも辞めたし、住所も替えたから。
貴方が探しても無駄よ。」
「! な、なんで。」
「……高宮君、
本当に……、
本当に、好きだったのよ、貴方のこと。」
「……。」
その髪型で、俯かれて黙られると、私、完璧に悪役じゃない。
ああ、もう。いいわ。きっちり演じきってやるから。
「高宮君、別れた後も、
貴方のこと、一つも悪く言ってない。あんな男、いないわ。
だから、不釣り合いなのよ、貴方には。」
「!」
「貴方、自分のほうが上だと思ってたわね?
逆よ、逆。せいぜい身の程を知りなさい。」
「……。」
「振った貴方にできることは、きっぱりと忘れることだけ。
じゃあね。春河香奈さん。
もう二度と、逢うことはないでしょうけど。」
「……。」
まったく。なんて日なのほんとに。
一人で飲み直したほうがい
「……諦め、ませんから。」
「……は?」
「わたし、雄馬君、
絶っ対、諦めませんからっ!!」
っ!?
了
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