彼女に振られた僕は、修羅場の胎動に気がつかない

@Arabeske

彼女に振られた僕は、修羅場の胎動に気がつかない


 「仕事上の、関係、

  だったん、だけど…。」

 

 あぁ。

 もう、わかった。

 

 兄弟でも、ない。

 血縁者でも、友達でも。

 

 目の前にいるのに。

 空間を、共にしているのに、

 ふたりを繋いでいたはずの、磁力が、掠れてしまっている。

 

 「ごめんなさい…。

  ごめんなさい、雄馬君。」

 

 「ううん。

  話してくれて、ありがとう。

  香奈の気持ちは、分かったから。」


 香奈が、僕から、離れていく。

 僕のことが、重しであったかのように。


 「…じゃあ、別れよっ、か。」

 

 「ああ。」

 

 僕は、ちゃんと、笑えてるだろうか。

 

 「…ありがとう、雄馬君。」

 「ああ。」

 

 そう、すべきなんだ。


 「幸せにね、香奈。」

 「……うん……。」


*


 香奈が、悪い訳では、まったくない。

 香奈と、釣り合わなかったのは、僕のほうなのだから。

 

 出逢ったのは、二年前。

 

 男子校から時期外れに転入してきた僕に、

 高校の施設を優しく教えてくれた香奈。


 が目の前にいることで、

 挙動不審だった僕に、誰からも親しまれる、

 柔らかい香奈の笑顔は、眩しすぎた。

 

 香奈がいなければ、

 僕は、シスヘテロだと、分からなかったかもしれない。

 

 ウェーブの掛かった長い髪をひるがえし、

 思い出したように笑顔で話しかけてくる香奈に、

 覚えたての外国語を使うように、

 たどたどしく言葉を返すだけの、ただ、それだけの関係。

 

 それだけでも、十分だった。

 ただ、僕の中に宿った秘めた気持ちを、暖めて、

 ベットの中でひっそりと眺めているだけで。


 一年前。


 「あれ、高宮君?」

 

 広大なキャンパスで、

 一人、彷徨うように生協に向かっていた僕を、

 零れるような笑顔で見つけてくれた香奈は、

 本当に、羽根が生えた天使のようだった。


 「高宮君、この大学だったの?」

 「ああ。春河さんも?」

 

 会話を、繋げるだけで。

 

 「ううん。サークルの試合があるから。」

 「そうなんだ。テニス部の?」

 「サークル、って言ったよね?」

 「あぁ。ごめん。テニサーか。」

 「ふふ、高宮君、よからぬイメージを持ってない?」

 「正直、持ってる。」

 

 だめだ。

 顔に、出すな。

 笑え。笑わないと。

 

 「あはは。そんなんじゃないの。

  ごく普通のテニスサークル。」

 「普通の基準が分からない。」

 「あ、懐かし。」

 「?」

 「いや、高宮君っぽい言い方だな、って。

  『基準が分からない』って。

  あははは。」

 「おかしい、かな。」

 「ううん。ちっとも。

  変わってないな、って嬉しくなっただけ。」

 

 (おーい、かなー!)

 

 「あ、ごめん。呼ばれちゃった。

  じゃあ、またね、高宮君。」

 「うん。」

 

 社交辞令だと、思った。

 

 「電話番号、文化祭の時と、変わってないよね?」


 心の動揺を気取られぬよう、

 モンタージュをMC68000級の速度で回転させている間に、

 香奈の手入れされた髪が、新緑の光を浴びながら、

 笑顔の輪の中に吸い込まれていった。


*


 (……、夢、か。)

 

 懐かしい、淡い春の、日向の真中の夢。


 もともと、夢のような関係だった。

 一夜の煌めく夢から醒めて、

 リノリウムの床色の鈍い現実に戻った。

 

 ただ、それだけのことだ。


*


 僕が香奈と別れた後でも、世界は、いつのもように廻っている。

 集中する粗雑な中間レポートの山は、

 心の叫びをやりすごすには、丁度いいのかもしれない。

 

 「よっ。」

 

 「…諸橋さん。」

 

 潔いまでのボブカット。

 生命力に溢れた、くりくりと輝く瞳。

 香奈との、共通の知人。

 

 「どうしたの? 高宮先輩。」

 「先輩はやめてって言ってるでしょ。

  同い年なんだから。」

 

 大丈夫。

 いつも通りに、笑えている。

  

 「先輩は先輩。同い年は同い年。

  それより、どうしたの?」

 

 のぞき込まないでくれ。

 空洞を、素手で、広げないでくれ。

 

 「何、が?」

 

 「……ひょっとして、

  香奈先輩と、別れ…たの?」

 

 どうして、そう、無駄に鋭いんだ。

 どう答えろって言うんだ。

 これからレポート課題が出るんだぞ。

 

 「ああ。」

 

 「ああ、って……。

  その、ごめん。」

 

 「気にしなくて、いいよ。

  ありがとう、諸橋さん。」

 

 分かってるなら、聞かなきゃいいのに。

 だめだ。口を開いちゃ、だめだ。

 

 「……あのね、高宮君。」

 

 「……なに。」

 

 「香奈先輩と切れても、

  課題は、写させてね?」

 

 あは。

 あはは。

 人間って、ほんと、現金だなぁ。

 

 「うん。いいよ。」

 

 お安い御用だ。

 

 「よかった。助かるよ。」

 

 少なくとも、その程度の存在価値は、

 まだ、残っているみたいだから。


*


 ……

 

 信じられ、ない。


 春河香奈は、

 ありえないくらいの馬鹿女だった。

 同郷の、同級生の有利さを、全て捨てるなんて。

 

 火遊びをしてるのは分かってた。

 

 あれだけ男好きのする顔を作って、

 あんな派手なサークルに入って、態度だけ清楚そうな姿でいれば、

 馬鹿な男共が入れ食いになるに決まっている。

 釣り堀じゃなくて生簀のほうだ。

 

 あの女は、自分の容姿が、

 そういう風に見られることを、熟知して生きてきている。

 

 分かっていてやっているもんだと。

 ちやほやさせておきながら、

 一生モノの本命はしっかり囲い込む計算高い女。

 敵ながら、天晴れだとすら思っていた。

 

 違う。

 ただの、大馬鹿だ。

 

 あの女は、何一つわかっていなかった。


 あの女の価値は、同性の間では、

 「高宮雄馬の彼女」

 というだけで保たれてた。

 少なくとも、私の友達の周りでは、だ。

 

 それよりも。

 

 雄馬君。

 

 (この講義は、ちょっと難しいけど、

  二年生になった時に役立つよ。

  7月になったらアンチョコも廻るけど、

  去年の僕のノートを貸しておくから。)

 

 まったく、気づいてない。

 

 (僕も、田舎から出てきて、よく分からなかったから。

  諸橋さんは、運動もできるから、

  名前だけでも入っておくと、いいと思うよ。)

 

 悔しくも春河に改造された容貌とセンス、

 誘惑に目もくれない一途さ、

 細かいところに気づく優しさ、

 聞き上手で、頭が良くて、そして、

 

 (瞳が、綺麗で…)

 

 ……hidden gem.

 

 絶対に、奪わせない。

 10年後、高宮雄馬の横に座るのは、私だ。


 …子どもは、一姫二太郎かな。

 ふふ。ふふふふ。


*


 「ねぇ、雄馬君。」

 

 まとめ終わった教材を手に、

 綾乃さんは、綾乃さんらしい率直さで、

 思いもがけないことを聞いてきた。


 「どうして、香奈さんを悪く言わないの?」


 「わる、く?」

 

 「そ。

  だって、香奈さん

  あんなにこっぴどく雄馬君を裏切ったのよ?

  なのに。」


 そうは、思わない。

 思いたくない。


 「それは、僕がふがいないだけですよ。

  それに、もともと、香奈は、

  僕には釣り合わない、勿体ない女性でしたよ。」

 

 「雄馬君…。」

 

 そうだ。

 そうだよ。そうだったじゃないか。

 

 「香奈は、高校の時から、人気がありました。

  明るくて、笑顔が可愛くて、気が優しくて。

  そんな香奈が、僕と付き合ってくれた、というのは、

  ただの、物珍しい、気まぐれだったんだと思います。」

  

 いまだに、

 どうして僕なんかと付き合ってくれたのか? が、全く分からない。

 ただ、たとえ気まぐれであったとしても、

 香奈から貰ったものは、間違いなく大きかった。


 そもそも、香奈が話しかけてくれなければ、

 形だけでも女性と会話する性能すら備わらなかったじゃないか。


 「あの春河香奈と付き合えた、というのは、

  僕にとって、光栄で、ただ、幸せなだけの思い出ですよ。

  これから、一生独身になっても、

  思い出を膨らませて生きていけるくらいには。」

 

 綾乃さんみたく、

 モーターショーから飛び出てきたような美しい人は、

 異性のパートナーに不自由していないから、

 わかりにくいかもしれないけど。

 

 「…じゃあ、香奈さんのこと、いまでも、好きなの?」

 

 考えたことも、なかった。

  

 「かも、しれませんね。

  僕にとって、はじめての、彼女でしたから。」


 最後の彼女、の間違いじゃないか。


 「でも、仮に、そうだとしても、

  それはもう、香奈に失礼です。

  

  香奈の隣には、もう、新しいひとがいる。

  僕だって、ストーカーにはなりたくありませんよ。」


 「じゃあ、雄馬君、いま、フリーってわけね。」


 追い打ちを掛けてくる綾乃さんの率直さが、

 いまは、めちゃくちゃ恨めしい。

 

 「そう、なりますね。

  残念ながら。」

 

 「ふふ、ほんと、残念ね。」

 

 「いいんです。

  もともと、釣り合ってませんでしたから。」

 

*


 ほんと、残念ね。

 春河香奈さん。

 

 はじめて聞いたわ。

 自分を振った女のことを、ほんの少しも、悪く言わない男。

 過去の女の幸せを、心から想える男。


 涙が、出てくる。

 まったく、逆なのに。

 

 のは、

 ね。

 春河香奈さん。

 

 どうして、貴方が道を踏み違えたのか、

 私には、分からない。

 

 わかりたくもない。

 

 アルバイト先の同僚として、

 お似合いの二人と上っ面で微笑んで、

 想いを胸に仕舞っておくくらいには、

 私も、上品でいられたのにね。


 雄馬君。

 ああ、雄馬君。

 

 「私」を信じてくれた、たった一人の人。

 

 (混雑しているときの身体的接触は

  当然、あるでしょう。

  

  しかしながら、異性の局部に

  右手の平を複数回接触させる、というのは、

  通常の接触状況とは、異質なものと思われますが。)

 

 面白くもないサークルの飲み会で、

 彼の姿を見つけた時、私が、どれだけ舞い上がったか、

 彼の横に当然のように居座る貴方の姿を見て

 私がどれだけ絶望を感じたか。

 

 もう、貴方に遠慮する必要はない。

 

 私の短い自由な時間で、

 こんな人と巡り会う機会は、もう、二度とない。

 あるわけがない。

 

 家は、説得できる。

 雄馬君ならば、条件は、整ってる。

 万が一、家の者が応じなかったとしても、

 雄馬君なら、一人で、身を立てられる。

 

 そうしたら。

 

 ふふ。

 気が、逸ってる。

 

 まずは、振り向いて貰わないと、話にならない。

 でも、雄馬君は、私に、彼氏がいると思ってる。

 ……できるか……

 いや、やる。

 

 もう二度と、後悔はしない。

 絶対に。

 

 10年後、高宮雄馬の横に座るのは、私だ。

 

 暫くは実家を継がずに、

 外の世界をゆっくりと二人で旅するの。

 それくらいは、いいわよね?


*


 「よかったですー。

  高宮君が、元気になって。」

 

 楓さんは、えりあしに器用に鋏を入れながら、

 おっとりとした口調で営業用スマイルを向けてくれる。

 

 「そこまで落ち込んでました?」

 

 「はい。そりゃあもうー。

  世界が千回終わったみたいな顔をしてましたよ。」

 

 ディープなループものかよ。

 

 「それは本当にふがいない。」

 

 「でも、よかったです。

  もう、いらして頂けないかと思ってましたから。」

 

 香奈に紹介された店だから、

 正直、辛い思い出もあるが、他のところを知らない。

 一度、思い切って違う店に入ってみたら、

 7:3分けみたいな髪になって心底凹んだ。

 

 「もとがよくありませんから。

  塾講師も、一応客商売なので。

  最低限、清潔感くらいはないと、生徒さんから嫌われます。」

 

 「そうですねー。」

 

 さすが有名美容室様。客を正面からdisって来る。

 ま、所詮そんなもんだ僕なんて。

 

 「清潔感、大事ですよ?

  高宮君、ほんと、酷かったですから。」

 「そこまで言いますか?」

 「はいー。

  そこは、感謝してますよ。」

 「?」

 

 「どうですかー?

  後ろ、少し短くしてみましたが。」

 

 といって鏡を見せられる。

 どうですかー? と言われても

 正直、全然分からない。

 

 でも、楓さんは、

 人なつっこい丸顔の満面に、達成感を浮かべている。

 きっと、うまくいったんだろう。

 

 「ありがとうございます。

  安心します。」

  

 つまり、これが僕の上限値ということだ。

 それすら、香奈に作って貰ったものに過ぎないが。

 

 「ほんとですか?」

 

 7:3分けじゃくて、

 ガキどもに笑われなければ、どうだっていい。

 痴漢に間違われずに、無難にひっそり生きていくための必要経費だ。


 「はい。

  いつも、助かります。楓さん。」


 ワックスの付け方を何度習っても忘れる。

 ごめんなさい、ほんとごめんなさい、

 向上心のない客がこんなところに来てごめんなさい。


 「……ありがとうございます。

  毎月、いらしていただいてもいいんですよ?」

 

 そんな金、あるわけがない。

 金持ち相手はこれだから。

 

 「あはは。

  社会に出て、稼ぎができたらそうしますよ。」


*


 …わっかんねぇ。

 

 あの女は、あれ以来、

 店に寄りつかなくなってくれたから、

 正直、ほっとしてる。

 

 あの女は、金を払った以上、

 全ての命令を聞くのが当然だと思ってやがった。


 モデルつったって、

 カタログギフトの端に映るようなのとか、

 七五三の記念写真に毛が生えたようなやつしかやってねぇのに。

 

 だけど、連れてきた彼氏は、

 本当に、いまどきめっずらしくデキた男だった。

 店長がお得意様の予約をゴリ押しされて、

 新規の客をあたしにたらい回しにした時。

 

 (いいよ、切ってもらおうよ。

  だって、手、怪我してる。

  ひそかに練習してたんだと思うよ。)

 

 身が、ふるえた。


 手のケガは、練習なんかじゃねぇ。

 やっすいバーで酔っ払いの客が

 グラスを割りやがっただけだ。

 

 あの女があたしを不満そうに見てやがったのは

 そりゃ見抜くわな、としか思わなかった。

 

 でも、あたしを信じたこのもっさり男に、

 恥をかかせるわけにはいかねぇ。


 あたしは、人生で一番頭をブン廻して、

 教室で見たうっすらとした3D画像を

 焼き切れるように振り返りながら、ともかく、カットを終えた。

 

 今から思えば、

 正直、野グソみてぇなデキだった。

 

 もちろん、あの女は騙せなかったが、

 あの男は騙せた。ただの詐欺だ。

 周りをクソだクソだと言ってたけど、

 あたしが一番クソじゃねぇか。

 

 あたしは、酒を断った。

 店長のクソみてぇな雑用も、全部やった。

 教本を、店中の雑誌と動画資料を、スカスカの頭に押し込みまくった。

 

 (あんたに指名よ?

  ま、がんばんなさい。)

 

 あの女の、彼氏だった。

 

 (また、お願いしますね。)

 

 後光が見えた。

 

 あの男は、あたしを、セカンドに押し上げてくれた。

 右手で数えるような数だけど、

 指名客がつくようになったあたしは、

 同期で、一番早く帰れるようになった。


 あたしを、目覚めさせてくれた男。

 あの女の彼氏にしておくのはもったいねぇ男。

 

 一瞬、あの女が価値のある奴に

 サッカクしそうになったくらいに。

 

 するかボケ。

 

 客商売、なめんなっつうんだ。

 

 モデル様に選ばれる店、ってのは、

 こっちも、客をよぉぉく見てんだよ。

 

 次にあの女が予約入れてきても、

 ×の表示しか出ないようにしてやる。

 店長もあの女嫌ってたから、文句言わねぇだろ。

 

 っていうか。

 

 あの男を、あの女ごときが、振った。

 …わりぃけど、ちょっと、ありえねぇなぁ。

 

 あんなもん、ちょっとでも勘のいい奴なら、

 ほっとくわけねぇじゃねぇか。

 

 10年後、あの男の横に座ってるのは、

 絶対にあたしじゃねぇ。

 

 地べたを這いずりまわってたあたしには、あの光は、眩しすぎる。

 一緒になったって、お互い、不幸にしかならねぇ。

 別世界の、カスりもしねぇ男だ。

 

 でも。

 

 掃捨てられる毛筋一本分くらいなら、

 あたしにだって、夢を見させてくれたって、いいじゃねぇか。

 

 「雄、馬…」

 

 ……ガラじゃ、ねぇんだよ。

 なんだよあたし。ただのガキみてぇじゃねぇか。

 ホント、なんだっつうんだよ…。

 

*


 「じゃ、

  別れようか、香奈ちゃん。」


 轟音が、鳴り響いた。



 了




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