第五話⑥
まずはスープから。こわごわレンゲで白濁のスープをすくい、楓香と同じように口へ運ぶ。とろんと柔らかな舌触りで、すぐにこってりとした甘さと鶏ガラの旨みが広がっていく。まるでポタージュスープを飲んでいるかのごとくしっかりした味わいなのに、後味はスッキリしている。また、熱々のスープが体の奥底をあたためてくれ、もう一度スープを味わいたい衝動に駆られる。三回スープを飲み、次は麺をつかんだ。無言のまま麺をズルズルすする。もちもちとした食感がなんだか懐かしく、喉越しも良い食べ心地でもう引き返すことはできない。手羽先は箸を差し入れるとホロホロ崩れ、スープと一緒に口へ運ぶ。白髪ネギと糸唐辛子のコンビネーションは百パーセントの相性で、麺と一緒に食べると爽快感を得られる。
「あぁ、もう、だめだ。罪悪感しかない。でもおいしい……」
月歩は麺をすすりながら言葉を漏らした。おいしい。この一杯のラーメンが世界一おいしい食べ物だと思えた。
煮卵をかじる。薄く色づいた煮卵は半熟で、濃厚な黄身がスープの中へとろけていき、すくいとって飲む。はふはふと喘ぎながら麺をすするうち、視界がどんどん曇っていった。涙の膜がラーメンを遮っていき、月歩は食べる手を止めた。
「おいしいよ……」
我慢していた思いが一気に溢れ出した。しょっぱい涙を流しながら、麺をすすっていく。すると、横で楓香が苦笑した。
「もう、食べるか泣くかどっちかにしなよ」
「だっておいしいんだもん。うぅっ……ひどい、楓香のバカ。こんなもの食べさせて、また太ったらどうしてくれるの」
「たかが一杯食べただけで大した脂肪にはならないよ」
楓香はどんぶりを抱え、スープを豪快に飲み干した。
「ふぅ。おいしかったぁ〜。あ、ねぇ、棗ちゃん。お手洗い貸して」
「はいはい、二階に上がってすぐ右だからね」
楓香は勝手知ったる家のごとく慣れた足取りで、暖簾の先にある二階の階段を上がっていった。一人取り残される月歩はそれからも鼻をすすり、涙を拭いつつもラーメンを夢中で食べた。
「どうする? おかわりする?」
棗が心配そうに訊いてくる。その横で、真心が口を挟んだ。
「棗、ラーメンは替え玉だ」
「あぁ、はいはい……月歩ちゃん、無理はしなくていいからね」
棗の言葉に、月歩はただ頷いた。麺がもうなくなってしまう。最後の一口を頬張り、名残惜しむように何度も噛み締める。そして、月歩はようやく顔を上げた。
「ごめんなさい。あまりにもおいしくて、泣けるくらいおいしかったです」
気恥ずかしくなったのでついおどけた風を装うと、棗と真心は顔を見合わせて笑った。
棗の破顔に対し、真心は控えめな笑みだったが、おいしいラーメンを作ってくれたというだけで好感度はかなり跳ね上がっている。頬に張り付いた涙を拭おうとすると、棗がおしぼりを用意してくれたのでありがたく受け取る。
「楓香ちゃん、すごく心配してたんだよ」
おもむろに棗が言った。月歩は顔を拭いて首をかしげる。
「えっ? 楓香が?」
「うん。昨日、急にうちに来てね。『ダイエット中の友達のために何か作ってもらえませんか』って。詳しく聞けば、月歩ちゃんが無理な食事制限をしてるって言うから、大急ぎでレシピさらって作ったの」
「そう、だったんですか……」
あの楓香がそこまで考えてくれていたとは。体育祭も文化祭も球技大会もやる気がなく、必死に何かをやるのは試験前だけの楓香が誰かのために動くなんて考えられない。
「あのね、月歩ちゃん」
棗がわずかに声を落として言った。
「食事制限は正しくしなきゃ、肌も髪もボロボロになっちゃうし、何よりメンタルも悪化しちゃうのよ。心当たりない?」
優しく諭され、言葉に詰まる。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
月歩はしゅんと項垂れた。すかさず棗が顔を覗き込んで言う。
「ううん。迷惑だなんてとんでもない。それにね、私も似たような経験あるから、ほっとけなくて。ね、まーくん」
照れ臭くなったのか、棗が真心に話を振る。彼は「おう」とそっけなく言い、三角巾を取った。実験に失敗したかのような爆発頭が飛び出し、月歩は唖然とした。それに構わず、真心は淡々と口を開いた。
「今日使った麺はグルテンフリーのものです」
「グルテンフリー?」
「小麦を一切使ってない代用品です。アレルギー体質の人でも食べられるように作られてるんですが、最近は欧米でダイエット目的で使用されることがあるそうです」
「中華麺は米粉と馬鈴薯デンプンが使われていて、普通の中華麺とも遜色ないわけ。すごいでしょ?」
真心の説明をすべてかっさらうかのように棗が得意げにまとめる。月歩は呆気に取られ、空っぽのどんぶりに目を向けた。
「代用品とは思えないくらい、めちゃくちゃおいしかった……」
「スープは鶏ガラからとってます。長時間煮込むことで濃厚なスープが出来上がります。コラーゲン豊富な上、カロリーも抑えられるかと」
真心が説明を付け加えた。手間のかかる工程で丁寧に作られた一杯のラーメンは、やはり世界一おいしいものだった。月歩はペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いいえ、お礼を言うのは楓香さんにです」
真心がきっぱりと言った。その言葉にハッとし、顔を上げる。
「いい友達ですね。大事にしてください」
無表情だが、優しい声音だった。きっと、ここまでの経緯をすべて聞いた上で言ってくれているのだろう。表面上ではひねくれている友人の気持ちがようやく伝わった気がする。たくさんひどいことを言ったのに、厳しく諭してくれるそんな彼女に随分と心配をかけてしまった。楓香が帰ってきたら真っ先に謝ろう。そう考えていると、ちょうどいいところに楓香が暖簾をめくって店に戻ってきた。
「あ、もう食べ終わった? おいしかったでしょ」
「うん。ねぇ、楓香、あの……」
「替え玉は? あたしは今からバイトだから付き合えないけど、まだゆっくりしてってもいいよね、棗ちゃん」
「全然オッケーよ」
棗が「任せなさい!」とでも言うように胸を張る。それを見て楓香は愉快そうに笑って、ポケットから財布を出した。
「はい、今日はあたしのおごり! あとは一人でごゆっくり。それじゃあねー」
千円札を二枚出してカウンターに置き、楓香は片手を上げて店を後にした。その背中はさながら大物芸能人のごとくあり、かっこいい去り際だった。昔からサバサバしており、本音で語るのを恥ずかしがる楓香である。月歩の前を通る時、彼女は若干嬉しそうに口角を上げ、耳を赤らめていた。
それから二週間後。十月に入っても気温がわずかに低くなって肌寒くなった以外は景色はさほど変わらなかったが、月歩はしっかりと早足で『くるみ薬膳庵』に向かっていた。
「こんにちはー」
まず『青果店あきやま』に顔を出す。奥のレジスターで棗が客の相手をしていた。
「あ、いらっしゃーい。開いてるよー」
心得ているように棗が裏を指さす。月歩は「はーい」と笑顔で返し、裏手にある古民家へ向かった。引き戸を開けると、ちょうど食事を終えた後のような中年男性と入れ替わりで店に入る。厨房では真心が相変わらずの無愛想で客の相手をしていた。カウンターには主婦がお茶を飲んでおり、若い女性客はさつまいもの中華粥を食べて唸っている。
「おぉ、今日はお客さんが多い」
昼時になれば意外とこの狭い店にも客が押し寄せてくるようで、その誰もが安らいだ笑顔を浮かべていた。
「真心さん、今日は何を作ってくれるんですかー?」
人懐っこく訊いてみると、真心は調理台に集中したまま淡々と答えた。
「さつまいもがたくさんあるので、煮物か粥か、味噌汁もできます。メインは
「わ! 豪華なセット! やったー!」
手を叩いて喜んでいると、右隣に座っていた主婦が楽しそうに笑った。そして、ひっそりとした声で教えてくれる。
「芙蓉蟹、とてもおいしかったですよ」
「ほんとですか!」
「このさつまいも粥も最高でした」
左隣の若い女性客も話に入ってきたかと思うと主婦がクスクス笑ってまたささやく。
「お味噌汁も良かったですよ」
「えぇっ、どうしよう。選べない……」
両隣から惑わされ、しばらく考えるも煮物を選んだ。すると、青果店の仕事を抜け出してきた棗が表から顔を出し、お茶の準備をする。あたたかい空気で充満した店は、昼を過ぎてもまだまだ賑やかで、ほんのりとおいしそうな香りを漂わせていた。
「それで、月歩ちゃん。友達と仲直りできたの?」
食事があらかた進み、客足が引いたあと、棗が明るげに訊いた。
「はい! て言うか、莉音も咲良も私が謝ったら、目をキョトンとさせて『なんのこと?』ってすっとぼけるんですよ。みんな恥ずかしがり屋なんですよねー」
口をすぼめて言うと、棗がケラケラ笑った。
「まぁ、友達なんてそんなものよねー。それにしても、この前来た時より随分元気そうじゃない。良かった良かった」
「ここのご飯のおかげですね!」
月歩はさつまいもの甘露煮をパクんと頬張った。ほのかに効いたレモンの酸味とさつまいもの甘味が絶妙にマッチしていて食べ飽きない。
「まぁ、無理なダイエットはやるもんじゃないし、たまにはおいしいものを食べないと。ね、まーくん」
棗がふんぞり返って言うと、洗い物をしていた真心が水道を止めてため息をついた。
「我慢しなくていいんです。困った時はいつでも来てください」
ぶっきらぼうながら柔らかな言葉に、月歩と棗は顔を見合わせた。真心が戸惑ったように眉をひそめる。その表情がクールな彼らしくなく、月歩は思わず噴き出した。
「ちなみに、棗さんと真心さんの馴れ初めってどんなのですかー?」
話題を変えると、今度は棗が面食らったように目を見開かせた。
「えー、それ聞いちゃう?」
一方、真心は背を向けてしまい、意味もなく冷蔵庫の中身を確認していて話に入ろうとはしない。
「聞きたいなぁ。今後の参考にしたいのにぃ」
スマートフォンでマッチングアプリの画面を見せると、棗が噴き出した。
「懲りないなぁ」
「やっぱりこれは効率いいんですよ! 今度は真心さんみたいな人をちゃんと見つけたいんです!」
なおもねだってみると、棗がポットを交換し、意を決したように隣へ腰を下ろした。
「よーし、分かった。バイトまでの時間、たっぷり聞かせてやろう!」
棗は自分の湯呑みを用意し、喉を潤してから昔話を始めた。
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