第五話④

 それは、断食ダイエットを始めて三週間が経った頃のことだった。月歩はアルバイト先のファミリーレストランで貧血を起こして倒れた。店の休憩室でしばらく休んでいると、初老の男性店長が心配そうに様子を見に来る。

「谷村さん、今日はもう上りなよ。ゆっくり休んで。ね?」

 どことなく気弱そうな店長の言葉に、月歩は素直に甘えることにした。体力には自信があったのに、このところどうにも力が入らない。空腹も抑えられているし、無理をしているわけでもない。フラフラとロッカーで私服に着替えようとしていると、抜けた髪の毛が一本、肩にくっついていた。つまみ上げると、なんと枝分かれしている。

「うわぁ……何これ、ストレス? こわっ」

 ストレスとは無縁な生活をしてきただけに、この変化は素直にショックだった。

「肌荒れも酷いな……はぁ。これじゃあますますブサイクになる……」

 こんな有様じゃ、人前に出るのも億劫だ。月歩はロッカーの鏡から目を背け、扉を閉めて早上がりした。今日は朝から頭の中がモヤモヤとしており、足元がおぼつかない。九月も下旬の夕方十八時だが、外はまだまだ気温が高く、爽やかとは言い難い熱の入った夕日が体にダメージを与えてくる。しかし、中学時代の部活と比べればこれくらいの気温でへばるほどヤワな体ではないはずだと思う。月歩はトボトボと帰路についた。

 今日は週に一度のまともな食事の日だが、食べる気力もないのでいつもの春雨スープにする。コンビニにたどり着き、無意識にカップ麺のコーナーへ向かう。そして、いつものようにラーメンを見やってひもじさに耐え、春雨スープを手に取った。そうしてやっと家にたどり着くと、部屋に明かりがついている。楓香がいるのだろう。珍しく早上がりをしたので、この時間帯に出くわすことは滅多にない。ふらっとドアを開けると、目の前で楓香がカップラーメンをズルズルすすっている様子を捉えた。

「うっ……カップ麺……」

「お、おかえり。どしたの、今日はバイトだったんじゃ」

 答える間もなく、月歩はその場に座り込んだ。

「楓香、私の前でそんなの食べないでって言ってるでしょ。食べたくなるじゃん」

 静かに言うと、楓香は麺をすすってゴクリと飲み込んだ。

「えっと、月歩……?」

 楓香が怪訝そうに訊いてくるが、月歩は苛立ちを隠せず早口でまくし立てた。

「あのさぁ、私は我慢してるんだよ。必死なの。それなのに、あんたたちはいつも私の前でおいしそうなもの食べるし、嫌味なの? もしかしてからかってる?」

 言葉を口にすると、ますます怒りが湧いた。しかし、それも勢いが続かず、だんだん呼吸が浅くなって苦しくなる。体はいつまでも変わらないのに、中身だけがどんどん何か違うものに変わっていっているようなそんな不気味さを感じ、不意に胃の中がもんどりうった。ラーメンの汁の匂いを吸い込んだからか、具合が悪くなってくる。そもそも今日は貧血で倒れたからバイトを早めに切り上げたのだ。月歩は頭を抱えた。対し、楓香はしばらく何も言わなかった。それが癪に障るので、ついぶっきらぼうな口調で呟いた。

「はぁ……もう疲れた」

「だから無理すんなって言ったじゃん」

 やっと口を開いた楓香の声もわずかに苛立ちを含んでいた。

「無理しないと痩せないの。分かるでしょ。あ、そうか。あんたには分からないか。そんなの食べてても太らないあんたには」

「ちょっと、月歩! いい加減にしなよ!」

 楓香がカップ麺を置いて怒り、月歩の前まで這ってきた。

「ねぇ、最近本当におかしいよ。莉音と咲良も心配してたよ。顔合わせてもすぐ逃げられるって。前はそんなじゃなかった。ダイエットするようになってからおかしくなったよ」

「は? そんなわけない。大体、莉音と咲良が私を煽るようなこと言うから……」

「誰も嫌味なんか言ってないし、煽ってない。そりゃ確かに、言い方は悪かったかもしれないし、月歩を傷つけてたんなら謝るけどさ」

 楓香は月歩の顔を覗き込み、軽く頬を打った。

「でも、あんたも言い方考えな。本当に感じ悪いよ。ダイエットするのに周りの人巻き込むのは間違ってるじゃん。自分が我慢してるからって他人に強要するのはどうなの?」

 ピシャリと放たれた正論に、月歩は何も言えなくなった。確かにそのとおりだ。どうして言われるまで気が付かなかったんだろう。きっと莉音も咲良もコミュニケーションの一環として接していただけなのに、穿った見方をしてしまっていた。でも、他人が考えていることなんて容易に読み取れるわけがなく、どうにも自分をからかっているようにしか聞こえないのだ。月歩は目に涙を滲ませた。床にしずくが落ちていく。すると、しゃがんでいた楓香がわずかに後ずさった。

「うそ、泣いてるじゃん。あぁもう、なんでそんなになるまで我慢してるの!」

 楓香は呆れたようにその場に尻もちをつき、天井を仰いだ。苛立ちを抑えるように唸り、何度かため息をつく。一方、月歩は鼻をすすって涙を無理やり引っ込めた。

 こんな風に喧嘩することは今までになく、お互いマイペースにのんびり付き合ってきたのが一瞬にして壊れていった。もう楓香とは一緒に住めないかもしれない。そんな悲観した考えを巡らせていると、気まずい沈黙が続いた。

「……風呂入る」

 言ったのは月歩だった。壁伝いに脱衣所まで行き、しばらくその場でうずくまる。

 楓香も引き止めはせず、食べ残していたカップ麺をすする音がかすかに聞こえてきた。

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