「ああー、お前でも閻魔サマは分かるだろう?」

「えっと、死んだ人を裁くヒトだよね?」

 私は何かで見た髭の生えた強面のおじさまを思い浮かべる。嘘をつくと舌を抜かれるみたいな話もあったので、怖いイメージがあった。

 鬼さんは分厚い前髪を揺らして頷く。


「ああ、簡単に言えばそうだ。閻魔サマの法廷には浄玻璃鏡じょうはりきょうという、亡者の生前の行為を映し出すものがあり、基本的にそれで裁判を行っていたんだが」

 え、生前の行為が上映される。鬼とは言え、みんなの前で?

 何それ怖い。

 私が背筋を震わせていると、鬼さんがため息混じりに呟いた。


「数百年前、その鏡が事故で割れてしまってな」

「ええ!? それって、マズいんじゃない⁉︎ 何かとんでもないことが――」

「ああ。鏡の側でシャクを振り回す、なんてことをしでかした閻魔サマは、地獄の終わりというほどの号泣だった」


 自分で割ったのね。

 当時のことを思い出したのか、鬼さんは額を押さえていた。うん、気持ちは分かる。


「亡者の罪を記した、いわゆる閻魔帳えんまちょうという物もあるにはあるんだが……分厚いし一々めくって確かめるのも面倒という話になり。それで代替え案として採用されたのがこの、死者の涙で惚れ薬を作るという方法だ」


「どんな方法……?」

 そういえば「この惚れ薬で陥落させろ」とか言ってたね。確かに、女の涙は武器になるとかいうけど。


「俺が力を注いで流させた死者の涙には、生前その者を慕っていた者たちの想いが宿っている。遺された者たちの悲しみが、流した涙が、死者を通じて流れ出てきたと思ってくれればいい。つまり生前の行いが良い者ほど、強い惚れ薬ができるんだ。その方法が発見されて以降、それを飲んだ閻魔サマがを判断の基準にすることになったんだ」


「へぇ……」

 一瞬頷きかけた私は、そこである疑問が浮かぶ。


 遺されたものの悲しみが、死者の流す涙になる。

 それって、死んでも誰にも悲しんでもらえない人は、地獄行きってことだよね。

 だったら、私は――。


「長くなったが、これで私がここで何をしているかが分かっただろう? これでも結構、忙しいんだ」

 そう言った側から、また橋を渡って死者がやってきた。それに対応している鬼さんを眺めながら、私は左胸に手を当てる。


 ここにあるのかすら分からない心臓が、確かにズキズキと痛むのを感じていた。






 私はそれからしばらく、この鬼さんの仕事を見守っていた。

 彼の仕事は同じことの繰り返しで、やってきた死者たちの肩を叩き、涙を落とさせる。

 そして、その涙を集めると、それを使って惚れ薬を作っていくというものだ。


 しかし、時には見るからにアレな人もいて、そういう人は肩を叩いても何も出ないか、もしくはできた惚れ薬から明らかにヤバそうな煙が上がっていた。

 きっとそういう人は、極楽浄土、天国へは行けないんだろう。


 ズンと、胸の中に重たいものが乗ってきたみたいな。そんな息苦しさを覚えて、私は胸の真ん中で拳を強く握る。


 すると、私の横をまた誰かが通り過ぎていった。亡くなった人は足音がしないので毎回驚いてしまうのだが、今回は今まで以上に存在感がなかった。

 風が吹き抜けて行くようにスッと滑るように進んでいき、その人は鬼さんの前で立ち止まる。


 恐らく女性だろう。鬼さんの肩くらいまでの身長で、髪が長く、雰囲気はかなり若く見える。それこそ私と、同い年くらいのように思えた。

 俯いているため顔がよく見えなかったが、見えなくて良かったと思う。


 鬼さんは今まで通り、片手をそっと彼女の肩に置いた。

 ところが。


「涙が、出てこない?」

 何故?

 焦ったような疑問の声が私の中で響く。

 まさかこの子は、亡くなっても泣いてもらえていないということなの?

 彼女はごく普通の女の子に見える。特に何か悪いことをしているようには思えない。


「その子は——」

「誰にも気づかれることなく、その生を終えた死者なのだろうな」

 鬼さんの言葉で、私は頬をぶたれたようなショックを受ける。


 そんな。

 この子は何かをしたわけでもないのに、亡くなっても誰にも悲しんでもらえないの?

 どうして?

 私の頭で様々な想像が駆け巡る。

 それも私が考え得る最悪の想像だ。いや、もっと酷いかもしれない。


「待って。まさかその子は、天国に行けないって言うことじゃ……?」


 鬼さんは顔の向き一つ動かすことなく、その子と正面から向かい合っていた。

 すると彼はゆっくりと、彼女に顔を近づけていく。やがて二人の額がコツンと触れ合う。


 どこか神聖さすら覚える光景を見つめていると、二人の間で光る小さなモノがこぼれ落ちた。


 涙だ。

 ただしそれが流れたのはその子の目からでなく、鬼さんの前髪の奥からだった。


 まさか、鬼さんが涙を?

 彼は何事もなかったかのように、その涙を瓢箪の中に収めた。


「ど、どういうこと?」

「こういう者も、少なからずやってくる。死んだって誰にも泣いてもらえない者たちがな」

 彼はその子の頭に軽く手を置く。

 「鬼」という言葉が似合わない、とても優しげな手つきだった。


「しかし、その者が善きモノであれば、俺が現世の誰かの代わりに泣いてやるんだ。こんな、一介の鬼の涙でも、それなりの惚れ薬はできるものだからな」


 どこか誇らしげに告げられた言葉で、私は肩の力を抜く。

 良かった。そうか、ちゃんと救われる道は残されているんだ。


「鬼さんって、変わってるのね。本当に鬼? それとも、こんな仕事をしているから優しいのかしら」

 独り言のような呟きの後、私はふと疑問に思って彼に声をかけた。


「ねぇ、何故あなたはこの仕事をしているの?」

 鬼さんはしばらく黙っていたが、少し顔を上げて遠くを見るような仕草で言った。


「くじ引きだ。運悪くハズレを引いたんだ」

 淡々と告げられた声では、嘘なのか本当なのかも分からない。私はつい、唇から笑い声をもらす。


 そんな私に背を向けて、彼は今までよりも時間をかけて惚れ薬を作ったのだった。

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