私と目隠し鬼と惚れ薬と

寺音

 気がついた時、私は橋の上にいた。空は薄桃色の綿菓子のような雲に覆われ、足元には古びた木が連なって前後に伸びている。時代劇でよく出てくる日本橋みたいだ。

 周りは真っ白な霧がかかっていて、一メートルほど先もよく見えない。けれど、不思議と恐怖は感じなかった。

 どこかで川が流れているのか、さらさらとした耳心地よい水音が聞こえてくる。

 立ち尽くしていた私は、未だぼんやりとしている頭で考えた。


 ここは一体どこだろう。

 高校の近くにこんな場所あったっけ。


 正に寝起きみたいな状態の私は、とりあえず先、と思われる方向へ足を進める。だいぶ古い橋なのに、体重を乗せても軋んだり音が鳴ったりはしなかった。


 やがて先の方から、人の話し声が聞こえてくる。微かに聞こえるだけだったそれは、歩いていくにつれて、徐々にその内容が聞き取れるようになってきた。


「そうか。お前はよく頑張ったんだな」

 それほど大きくはないが、低くてよく響く声だった。聞いていると心がストンと落ち着くような。

 話の内容からして、誰かを慰めているのだろうか。どんな状況だろう。

 でも、悪い人ではなさそうだし、ここがどこだか聞いてみよう。


「まぁ、とりあえず泣け」

 ん、泣けとは?

 ああ、そうか。思いっきり泣いてスッキリしろってことね。

 私はそう思い直して、前へ進んでいく。


「いいか、閻魔サマは強面で想像通りの厳しい御方だが……意外に惚れやすい」

 あれ?

 突然、会話の中に奇妙な単語が混ざり始めた。


「この薬で閻魔サマを陥落して、極楽浄土への道を勝ち取ってこい」

 多少の引っかかりを覚えつつも、その言葉は私の耳を、右から左へ流れていく。

 こう、確かに聞いているんだけど、頭が理解していない状態というか、理解を拒否している状況というか。とにかく私は先へ進む。


 次第に霧が晴れて、周囲の様子が分かってきた。橋を渡った先に広がっているのは、小石がゴロゴロ転がった河原である。

 そこに向かい合って話をしている人影があった。声の主は、この二人の内のどちらかなのだろう。


 白装束の人へ、人が瓢箪のような物を渡していた。


「健闘を祈る」

 角の生えた人が、ぐっと親指を立てている。


 あれ、ん、ちょっと、待って。


 そこでようやく仕事をし始めた私の頭が、先ほど通りすぎていった言葉を捕まえ、咀嚼し飲み込んでいく。同時に、目の前の光景の不自然さにも気づいていった。


 足が透けた人と、頭に二本の角が生えた人、って、何?


「はぁああっ⁉︎ え、どういうこと⁉︎」

「――ちょっとお前。煩いぞ」

 その鬼、みたいな人が、顔をこちらに向けて文句を言ってきた。いや、それは申し訳ないけど、混乱する私の気持ちも分かって欲しいなぁ。


 私は軽く謝った後で、自分のいる場所についての説明を求めたのだった。






 彼の話によると、どうやら私はかの有名な「三途の川」にいるらしい。しかし死んでしまったのかと言うと、どうやらそうでもないようで。

 本物の鬼だと名乗った彼は、臨死体験か仮死状態なのでは、と私の状況を説明してくれた。


「まだ足があるし、死者たちにお前の姿が見えていないようだからな。死者の目に生者は映らない」

「それって、逆なんじゃないの?」

「ここでは現世と逆なんだ。死者基準だからな」

「はぁ……」


 ここに来る前の私の記憶は、高校からの下校途中でぷっつりと途切れている。恐らくそこで何か、あったのかもしれない。

 よく思い出せないけど。


 橋を渡りきれば死ぬと強く止められて、仕方なく私は橋と河原の境目に座り込む。

 夢のような話だなと思うけど、臨死体験ってことはほとんど夢みたいなものだよね。

 そんな、呑気なんだか怖いもの知らずなんだか、よく分からないことを思って、私は頬杖をつき目の前の鬼さんを観察する。


 鬼さんの見た目は私より少し上くらい。炭のように真っ黒な髪をマッシュルームのような形で切り揃えている。前髪が異常に長いので、その両目はすっかり隠れてしまっていた。

 それで前、見えているんだろうか。


 鬼のくせに神社の巫女さんような格好で、着物と袴というスタイルだ。袖は襷掛けにした紐で、動きやすいようにまとめている。


「ところで、聞いても良い?」

 私が声をかけると、なんだ、と小さく口にして、鬼さんがこちらを振り返った。髪で目が隠れているので、私を見ているのかいないのかは分からないけど。


「その、あなたはここで何をしているの? さっきのは一体……?」

 閻魔サマやら、惚れ薬やら、正直訳が分からない単語がたくさん聞こえていた気がするのだけど。


 私の疑問に、鬼さんは少し考えるような素振りを見せて、

「ああ——見た方が早いな」

 そう呟くと顎でしゃくるように、何か合図を送った。私がその意図を察せずにいると、不意に誰かの気配を感じて飛び上がる。


 白装束を来たお婆さんが、私の横をゆっくりと通り過ぎていった。きっと彼女は、生きている人ではない。

 鬼さんの言った通り私の姿が見えないらしく、お婆さんは真っ直ぐ前を向いたまま、彼の元へ近づいていった。


「来たな」

 鬼さんが着物の合わせ目に手を突っ込むと、そこから一つの瓢箪を取り出した。手のひらサイズでそれほど大きくはない。

 彼はそれを持ってお婆さんに近づいていき、そして、彼女の肩にポンと片手を置いた。


「あ」

 その拍子に、ほろりと、彼女の瞳から一滴の涙が零れ落ちる。なんだかそういうスイッチを押したみたいだった。


 鬼さんは真珠みたいな涙を、手に持った瓢箪で受け止める。瓢箪の口は小さいのにとても器用だ。

 彼は手元のそれを覗き込んで頷き、私に視線を寄越す。

「見ていろ」

 そう言った鬼さんの姿が、消えた。


「あれ? え?」

 橋からはみ出ないように注意しながら、身を乗り出して目を凝らす。


 霧がかった景色の向こうに、鬼さんが見える。消えたと思った彼は、ゴザを広げた上で何かの作業をしていた。

 消えたのではない。移動する動きが俊敏すぎて、目で追えなかったのである。

 今の動きも目で追えないほどではないが、異常なほど素早い。倍速再生のようだ。


 鬼さんはどんぶり鉢に次々と何かを放り込んでいる。干からびた蜥蜴のようなものや真っ黒な草のようなもの、乾燥した何かの動物の脚のようなもの等々。

 そしてそれらを、すりこぎ棒ですり潰している。周囲にはちょっと表現したくない音が響く。


 次にゴザの上へ正座し、薬研と呼ばれる道具を高速で回転させ始めた。ゴリゴリ音を立てて出てきたショッキングピンクの粉末を、どんぶり鉢の中に入れる。

 ガリガリ、ドンドン、グシャグシャ。

 また派手な音が鳴り響く。淡々とした動作なのが、少し怖い。


 そうしてできたモノを、彼は瓢箪の中にサラサラっと入れる。

 バンと、鉄砲みたいな破裂音が響いた。


「――できたぞ、ほら。お前も良い人生を送ってきたみたいだな。自信を持って、閻魔サマの所へ行け」

 鬼さんはそう言って、瓢箪をお婆さんに手渡す。


 え、それ、さっき爆発してませんでしたか?


 私の心配など露知らず、お婆さんはロボットのようにそれを受け取り、霧の向こうへ去っていく。

 それをしばし無言で見届けてから、鬼さんは私の方へ顔を向けた。


「——これで分かっただろう?」

「分かりません‼︎」


 今のどこに理解できる要素があったのか、と。


 鬼さんは不思議そうに首を傾げると、どこか億劫そうに説明を始めた。

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