第12話 ベル伯爵
リリィ・ベルの父親であるラングストン・ベルは大変な苛立ちと共に朝を迎えていた。
本来であれば、昨夜のうちに娘婿が死んだという連絡が入るはずだった。
娘婿の名は、皓月。
家名すらはっきりとしないどこの馬の骨とも知れぬ男だ。
ここ数年のうちにサザルテラで力をつけた新興カジノ、蓮糸楼のオーナーとして幅をきかせてはいるものの、所詮は犯罪者崩れのならずものである。
聞けば家族もなく、親しく交流しているような者もない根無し草だという。
この男が死んでも悲しむ人間はいない。
その柵みのなさがラングストンの背を押したといっても過言ではなかった。
そうしてでも、ラングストンには守らねばならないものがあったのだ。
代々伝わってきたベル家の名を自分の代で貶めるわけにはいかなかった。
家族を守らなければならなかった。
そもそも、本来ならばその男はラングストンにとっては一切関係のない男だった。
むしろ巻き込まれたのはラングストンの方だ。
サザルテラのならずものどもによる権力闘争にラングストンは巻き込まれただけなのだ。
そういった数々の言い訳で良心を黙らせて、ラングストンは娘婿の殺害計画に乗った。
そしてその決行日が昨夜だ。
ラングストンの役目は、それほど難しくはない。
夫が死んだ、と娘であるリリィから連絡を受け次第屋敷に急行し、そこに残る証拠の諸々を娘もろとも回収するだけのことだ。
後はラングストンの背後で糸を引く下劣な犯罪者どもが上手くやる。
そういう話だった。
そういう話だったのだ。
それなのに、男は死ななかった。
用意された毒を一瓶飲み干して、けろりと笑って見せたのだという。
そして、夜が明けた今となっても男が死んだという話は届いていない。
結果残ったのは、ラングストンが娘を使って皓月を殺そうとしたという事実だけだ。
しかも、証拠となりうる毒の入っていた小瓶や、実行犯として使われた娘も未だ皓月の手元に残ってしまっている。
彼のような犯罪者にとって、リリィのような年端もいかない小娘の口を割らせるのは簡単なことだろう。
それでもまだ娘だけであれば、幼い少女が犯罪者に脅されて彼にとって都合の良い証言をしているだけだと主張して言い逃れることも出来なくはないだろう。
だが万が一リリィが手紙を処分していなければ、それはラングストンが皓月を殺そうとしたことの決定的な証拠となる。
殺人犯として罪に問われることは免れないだろう。
いや、それはまだ良い方だ。
相手は、サザルテラの裏社会とも密に関わるカジノのオーナーである。
そんな男相手に、ラングストンは正面から喧嘩を売ったことになってしまったのだ。
一体どんな報復を受けるのか、もはや想像もつかなかった。
今にもホテルの戸を蹴破ってならずものたちが雪崩れ込んで来るのではないかと考えては、些細な物音にもラングストンはびくびくと肩を揺らす。
昨夜の、ついに大きなことをやり遂げたのだというような高揚感はもうすでになかった。
外の様子を警戒して締め切られたままの分厚い遮光カーテンに遮られ、日の光の届かぬ部屋の中には未だ重く陰鬱な夜が蟠っている。
夜の底で溺れるような心地で、部屋の中をうろうろと歩きまわってはラングストンは唇を噛んだ。
今ラングストンにわかっているのは、計画に大きな狂いが生じたということだけだ。
もはや、ラングストンにはそれ以外のことはわからない。
どうすればリカバリーできるのか。
現状何が起きているのかすら、昨夜からこの部屋に閉じこもっているラングストンには把握できていない。
「どうして……、どうしてこんなことになったんだ……ッ」
焦燥の滲んだ声音で呟いて、ラングストンは髪をかきむしる。
寝ていないせいか目は血走って落ち窪み、バスローブ姿で項垂れる姿には日頃の貴族然とした面影はない。
と、そこでコンコンとドアが硬質な音を立てた。
思わずラングストンはヒッと息を呑む。
そしてそんな自身の声にすら怯えたように掌で口元を覆った。
息をひそめ、ドアの外に立つ者をやり過ごそうと試みる。
「ラングストン様? ご注文のルームサービスをお届けにあがりました」
ドアの外から響いたのは、ほどほどの誠意と親切さと、ほどほどのそっけなさがほどよく混ざり合ったボーイの声だった。
客に対する愛想の良さと、それでいて客の事情に深入りはしまいというそれなりのレベルのホテルの従業員が共通して持ち合わせている声だ。
ラングストン様、と再び呼ぶ声がして、先ほどよりも強めにノックの音が響く。
おそらくは届け先を間違っているのだろう。
ラングストンはルームサービスなど何も頼んではいない。
「部屋を間違えているぞ! 私はルームサービスなど頼んでない!」
「それは大変失礼致しました」
ドアの向こうから、申し訳なさそうな声がする。
これでおとなしく立ち去るだろうと思ったものの、部屋の前の気配はいつまでも去ろうとはしない。
再び、弱々しいノックの音が部屋に響く。
「あの、申し訳ございません。こちらでも端末で確認いたしましたが704号室のラングストン様のお部屋よりオーダーを承っておりまして……」
「注文などしていないと言っているだろう!」
「ええ、ええ、おそらくはこちらのミスでオーダーが混線しているとは思うのですが――…お部屋のお電話の確認をさせていただいてもよろしいでしょうか。それとあわせまして、こちらの伝票にサインをいただいてもよろしいでしょうか。お手数をおかけして大変申し訳ないのですが、確かに704号室に一度ルームサービスをお届けした、という記録を残す必要がありまして……」
「…………」
無視しても良かった。
だが、無視していても余計に厄介なことになるだろう。
部下の不始末を謝るという名目で次はもう少し立場の上の人間が出てきて、同じように電話の記録の確認と伝票へのサインを求められるに違いないのだ。
今はこれ以上の厄介ごとを抱えたくはなかった。
ラングストンは苛立たしげに息を吐くと、ドアへと向かう。
一応、ドアスコープごしに外を確認する。
布の掛かったワゴンを傍らに、柔和な面持ちの若いボーイが申し訳なさそうに眉尻を垂らして立ち尽くしている。
東方出身なのか、濃い色の髪に糸のように細りとした双眸、目元にはそばかすを散らし、ひょろりとした細身でどこか頼りなさげな雰囲気すら漂っている。
もしかするとまだ働きだして日が浅いのかもしれない。
もう一度深々と息を吐いて、ラングストンはドアにかけてあったチェーンを外してドアを開きーー・・・たん、と一息に部屋に押し入られたのはその瞬間のことだった。
「あッ」
声をあげようとした口元に、吸い付くように青年の掌が押し当てられる。
随分と慣れた所作だった。
頼りなさげにも見えた細身は、鍛えられた体躯故のものだ。
青年はラングストンを口を塞いだまま壁に押しつけると、後ろ手に静かに部屋の中にワゴンを引き込み、再びドアにチェーンロックをかけた。
これで、ラングストンに逃げ場はなくなった。
青年の腕が、するりとラングストンの口元から下りて、喉元を潰すようにして壁に縫い止める。
口を塞ぐ手こそなくなっても、これでは声は出せない。
ラングストンが声を出そうとする気配の一つでも感じ取ろうものなら、この青年は容赦なく喉を潰すだろう。
そんな暴力の予感がラングストンを動けなくさせていた。
「しい」
静かに、と青年が言い聞かせる口調で囁く。
先ほどまでの柔和な面持ちや、いかにもホテルマンらしい声音の響きが嘘のようにストンと表情が抜け落ちた静かな面持ちと声だ。
ラングストンがこくこくと頷くのを見て、ようやく喉元に押し当てられていた腕が緩められた。
「失礼。私は蓮糸楼よりの遣いの者です」
ひ、と細い悲鳴がラングストンの喉から漏れる。
恐れていた事態だと思った。
皓月が、復讐のために部下を差し向けてきたのだ。
恐怖に足が震える。
そんなラングストンを温度のない目で見据えつつ、青年が懐に手を入れる。
銃かナイフ、そういった凶器を取り出すに違いないと思っていたラングストンの予想とは裏腹に、青年が取り出したのは携帯端末だった。
画面の指を滑らせ、発信ボタンを押す。
そして、その端末をラングストンへと渡した。
「大声は出さないこと。逃げようとしないこと。この二つを守る限り、危害を加えるつもりはないのでご安心を」
それだけ言うと、青年はドアの前へと下がった。
両腕を背に回し、足を肩幅程度に開いて立つ姿はどこか軍人めいている。
静かな立ち姿ではあるものの、その双眸は静かにラングストンを見据え、何かおかしな挙動がないかどうかを注意深く観察しているようだ。
生殺与奪の権を握られた心地で、ラングストンはおそるおそる端末を耳にあてる。
通話はすでにつながっているようだった。
「もし、もし」
乾いた声で言う。
『ああ、お義父さんですか』
涼やかな声音が耳元で響いた。
――皓月だ。
ラングストンが、娘を使って殺そうとした男だ。
わざとらしい『お義父さん』呼びはどこか面白がるような笑いを帯びているように響く。
毒を一瓶飲み干したはずだというのに、その声音に弱っている様子はない。
むしろ摂取した毒がそのまま滴り落ちるような瑞々しさすらその声からは感じ取れるようだった。
『どうしました、黙りこんでしまって。もしかすると――私が死んでなくて困惑してらっしゃいますか』
「…………」
『その反応は図星かな。きっと苦々しく思ってらっしゃるんでしょうけれど……、私が生きていた方が貴方にとっても都合は良いんですよ』
「ど、どういう」
『だって、貴方を利用している連中、どう考えたって最後は貴方に押し付けるつもりでしょう』
世間話の態で容赦なく確信を突く穏やかな声音に、ラングストンはぐうと言葉に詰まる。
そんなことはない、とは言うことが出来なかった。
ラングストンだって、そこまで愚かではない。
これだけの深みに足を踏み入れておいて、無事に済むわけがないということは薄々と察してはいたのだ。
ただ、逃げることができない以上、おとなしく従っていればもしかしたら助かるのではないかと、目的さえ達成すれば許されるのではないかと現実から目をそむけ続けてここまで来てしまった。
『今日はね、貴方と取引がしたくて人をやったんです』
「取引、だと……?」
『私が興味があるのは貴方の背後にいる連中なんですよ。なので、彼らを差し出していただければ、貴方のことは悪いようにはしません』
「…………具体的には」
『貴方は殺人未遂の罪を被らなくてすむし――…そうですね、当初の予定通り資金援助も多少なら。まあ、その分口も出させてもらいますけども。金が入るついでに口うるさい経営顧問がつく程度だと思っていただければ良いかと』
それは、追い詰められたラングストンにとっては天から下ろされた蜘蛛の糸のようですらあった。
飛びつきたくなる気持ちをぐっとこらえて、ラングストンは低く唸る。
上手い話に飛びついてしまったからこそ、現状に追い込まれているのだ。
上手い話には裏がある。
それが、この世の道理だ。
「……なんのつもりだ」
『それはどういう?』
「しらばっくれるんじゃない。慈善事業のつもりか。そんなことをして、お前に何の得がある……! お前もどうせあの連中のように私を利用して食い物にするつもりなんだろう!
『――…』
初めて、端末の向こうの男が苛立つような気配をラングストンは肌で感じた。
無言の呼気にとける棘に、神経がささくれ立つ。
それは恐怖と言っても良い感情だった。
自分がまな板の上に載せられた魚に過ぎないことに、今更ながら気づかされたのだ。
今話している相手が機嫌を損ね、何か一言でも命じれば今はおとなしく部屋の入口近くに立っている男がいともあっさりとラングストンを殺すことだって充分にありうる。
どうしてだか今は取引を持ち掛けられているが、実際のところラングストンは「蓮糸楼のオーナーに弓引いた男」」に過ぎない。
元より交渉できるような立場ではないのだ。
震える声で「今のは……」と言い訳を口にするよりも先に、端末の向こうで男が厭そうに溜息をつく音が響いた。
『……、そうですね。慈善事業、なんて善人ぶった言葉はあまり好きじゃあないんですが、今回ばかりはそういうことになりますね。ほら、世間一般では子は親に尽くし、孝行するものなのでしょう? 私には親がないものでね。その分義理の父である貴方に尽くしてみようと思った、ということで如何ですか』
「……………………」
ラングストンには、もう是という道しか残されてはいない。
それでも口ごもってしまったのは、貴族としてのプライドというよりもなんだかんだこの男に流された先に何が待つのかの得体があまりにも知れなかったからだった。
真意も、何も、わからないままに何もかもを託す決断をしなければならないことがあまりにも恐ろしかったからだ。
『言っておきますが、私を味方につけないと詰みますよ。言われなくとも御存知だとは思いますが』
そうだ。
わかっている。
このままでは、ラングストンは詰む。
破滅する。
だが人というものは、目に見えている破滅よりも未知を恐れるものなのだ。
本当にその手を取って良いのか、幾度となく逡巡し、何度も他に道などないのだという結論に至って、ラングストンは掠れた声で小さく「わかった」とだけ答えた。
『良いお返事が聞けて良かったです。では、詳細を。彼ら――…ソヴァン兄弟との馴れ初めから聞かせていただきましょうか』
ソヴァン兄弟、と皓月の口から具体的な名前が出たとたんに、ラングストンの心臓がぎくりと跳ねた。
見抜かれているとは思っていた。
だが、具体的にその名前を出されると、聞かれて困る相手などこの場にいないとわかっていても視線が揺れてしまう。
端末を握る手にもじわりと汗が浮いた。
「…………倉庫だ」
『倉庫?』
「サザルテラ郊外の波止場近くにある古い倉庫だ。ベル家が所有しているその倉庫を、貸してほしいという連絡があったんだ」
『……はて、一通りベル家の資産については調べたと思っていたんですが、そのような倉庫をお持ちでしたか?』
当たり前のように資産を調べた、と言われてラングストンは苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべる。
この男の、上流階級にも溶け込めそうな物腰と見目で、それでいてこうして当たり前のように見せられるある種品のない抜け目の無さがラングストンはどうしようもなく苦手だった。
それがラングストンやその父にはついぞ身につかなかった用心深さであり、周到さと同義であるからかもしれない。
「…………私の父親が、死ぬ少し前に購入した物件だ。港の近くだし、建物は多少老朽化しているが立地も良いから輸入業を始めるには打ってつけだと売り込まれて購入を決めたのは良いものの……、後から地盤に問題があることが発覚して使い物にはならなかった」
『それはそれは』
売った人間は、最初からわかっていたはずだ。
そうでなければ、多少の老朽化が見られたとはいえ、港近くの倉庫という絶好の物件を手放すはずがなかった。
おそらく周りの人間もわかっていた。
わかっていて、お貴族様が迂闊に手を出した商売で痛い目を見るのを口裏を合わせて見過ごしたのだ。
輸入業を始めるには打ってつけだと売り込まれた倉庫の地下には、最近発見されたばかりの水脈が存在し、崩落の危険があった。
とてもじゃないが、倉庫としての利用に耐えうる地盤ではなかった。
ラングストンの父がそれを知ったのは、土地の購入手続きが全て済んでからのことだった。
話が違うと契約を破棄しようと思ったものの、全ては手遅れだった。
手続きは全て終わってしまっていた。
ベル家は大金を失い、特に使い道のない古びた倉庫だけが残された。
ベル家の新たな有り方を夢見ていたラングストンの父は、そのあとすぐに体調を崩し、やがて失意の中で死んでいった。
残された負の遺産めいた物件をラングストンはすぐにでも売り払おうとしたものの、購入時の額と比べたらまともな値はつかなかった。
そこで、損切りできる人間であればきっとこんなことにはならなかったのだろう。
結局、それきりだ。
それ以来、その倉庫は手を入れることもなく、放置され続けていた。
そんな曰く付きの物件を貸してはもらえないだろうかといって現れたのがソヴァン兄弟だったのだ。
『彼らは、なんのために?』
「クラブにするのだと言っていた。ゲリラライブを行うのにぴったりだと」
『ああ――……、確かにそういうの、流行ってますね』
彼らは、イベンターだと名乗った。
古い農家の納屋や、廃屋、廃工場といったような廃墟でのイベントが最近若い世代の間では流行っているのだという。
廃墟で集まって騒ぐという非日常感が受けているのだろう。
もちろん安全のために業者が入っているので、実際には廃墟のガワだけを利用しただけの、きちんと管理されたイベントだ。
ラングストンにはよく理解できない流行りではあったものの、死蔵しているだけの土地が金になるならありがたい話だった。
彼らは、末永く付き合わせていただきたいから、といってラングストンの事業にも資金を提供してくれた。
なんでも彼らは一処にとどまらず、様々な国や街でそういったイベントを行っているらしく、そのためには多くの協力者が必要らしい。
その中でも場所を提供してくれる協力者はことさら重要なのだと語り、これからも定期的にイベント会場として場所を貸してほしいのだとラングストンへと説明した。
『そう聞くと真っ当なビジネスのようですが……、なるほど。貴方とソヴァン兄弟がどう結びついたのかがずっと不思議でしたが、ようやく腑に落ちました。どうぞ、続けて』
「………………」
『どうしました?』
他人事のようなしらりとした声音に、再びラングストンは渋面になった。
「…………君が」
『はい?』
「君の、せいだ」
『――……、』
端末の向こうで、流石に男が戸惑うような呼気を漏らすのが聞こえた。
『……はて、身に覚えが』
「君が、リリィのデビュタントに現れたからだ。君が、リリィと結婚すると言い出したからだ……!」
それが、きっかけだった。
そこから、おかしくなったのだ。
最初は、リリィが上玉を捕まえたとラングストンもほくほくとしていたのだ。
サザルテラの新興カジノオーナーとベル家では格こそ釣り合わないものの、それでも蓮糸楼のオーナーが持つ資産は充分に魅力的だった。
他に候補者がおらず、またリリィ自身の希望であればラングストンとしては条件次第では充分妥協してやっても良いラインだった。
そんなことを考えている最中に、あの兄弟が訪ねてきたのだ。
彼らは、蓮糸楼のオーナーがリリィのデビュタントに現れたことの真偽を問いただすと難しい顔で何事かを囁きあった。
はじめ、ラングストンはそれを如何わしい裏社会の人間との関わりを懸念しているのだと思った。
それならば、皓月との縁談は断ってしまえば良い。
リリィはまだお披露目をしたばかりだ。
今後いくらでも他からだって声はかかるだろう。
だが兄弟は、にんまりと笑って絶好の機会だとラングストンへと言った。
ビジネスマンらしからぬ、凄みを帯びた、野卑な笑みだった。
そして言ったのだ。
娘を使って蓮糸楼のオーナーを殺せ、と。
『わあ』
「わあ?」
『――……、こほん。失礼』
自らの殺害計画の始まりを聞かされたにしては、随分と間の抜けた反応だった。
あまりに他人事めいている。
『なるほど。それは確かに僕のせい』
「…………」
こほん、とまた一つ空咳が挟まった。
『それで、どうなさったんです? いや、貴方が私を殺そうとしたのは既に知っているわけなんですけども』
「………………」
『ああ、失敬失敬。嫌味のつもりはなかったんですよ。続きをどうぞ』
端末の向こうの男は、おそらく本当に嫌味のつもりはなかったのだろう。
ただ単に既知の事実と、そこに繋がるまでの過程を一度声にだして整理しつつ続きを促そうとしただけだというような淡泊さしかその声に乗ってはいなかった。
むしろ、その淡泊さが不気味に思えて仕方ないながらラングストンは言葉を続ける。
「……私だって、そんな乱暴な話をすぐに受けたわけじゃない」
言い訳めいて白々しく響く言葉に、ラングストンは「本当だ」と重ねて言う。
実際、そうだった。
娘を使って誰かを殺すなどという危険を冒すつもりなどラングストンにはなかった。
だが、その時にはもう知らず知らずのうちに深みに嵌っていたのだ。
最初は出来の悪い冗談だと思って引き攣った笑いで流そうとしたラングストンを、ソヴァン兄弟はじとりと澱んだ双眸で見据えた。
もはやその顔は快活で気前の良いイベンターなどというもののようには見えなかった。
荒んだ獣のような、弱者を効率よく甚振ることに長けた犯罪者の眼差しが二対、ラングストンの挙動を舐めるように見据えていた。
そこで、初めてラングストンは知らされたのだ。
己の貸し出した倉庫が何に使われているのかを。
己の事業に投資された彼らの金が何によって得られたものであるのかを。
カメラ越しに見せられた倉庫のライブ映像には、物々しいマスクを付けた男たちがビニールで覆われた部屋の中で忙しなくドラッグの精製をしている様が映し出されていた。
警察に言えば殺すと脅された。
そして、万が一警察への密告が成功したとしても、その際にはラングストンも共犯であると主張すると言われたのだ。
ドラッグビジネスで得た収益を受け取り、ラングストンが所有する建物がドラッグの精製工場として稼働しているのだ。
何も知らなかったと証明するのが難しいだろうということはラングストンにも容易に想像がついた。
例え有罪を免れたとしても、容疑者として警察に取り調べを受けたという事実は変わらない。
そうなれば周囲の人間はラングストンのことを「無実の人間」としてではなく、「上手くやって逮捕には至らなかった犯罪者」として見るようになることだろう。
ベル家の名前は、地に落ちる。
それだけは、避けたかった。
それだけが、避けたかった。
『なるほど。それで、貴方はソヴァン兄弟に協力するハメになったわけですね。もしも私が死んでいた場合は、どういう手筈に?』
「私がリリィの保護者として屋敷を訪ねて証拠品を回収することになっていた」
『その後は?』
「蓮糸楼を乗っ取ると」
『ほう』
「君は、サザルテラでドラッグの規制に尽力しているのだろう?」
『ええ、まあ』
「それを逆手に取るつもりだった。彼らは、蓮糸楼でドラッグを売りさばくつもりだったんだ」
『――…なるほど』
男の声音が冷える。
自分の殺人計画に対してただただ興味深そうに軽やかに面白がっていたのとは大した違いだ。
「君が死んだことを伏せたまま、短期間で荒稼ぎするつもりだったらしい。それが済んだらすぐにサザルテラを去ると言っていた」
『なるほど、なるほど。狙いは蓮糸楼だったわけですか。確かに日頃ドラッグ関係ではサザルテラ警察とも協力体制を築いていることもありますしね。まさかうちの店でドラッグの取引が行われているとは思われないでしょうし、短期決戦型の商売をするなら穴場なのかな。経営も私のワンマンですし……、私はあまり人の前に姿を表すタイプでもないものでね。乗っ取れそうだと思われたとしてもおかしくはない。まあ、そこまで甘いセキュリティではない、と自負はしているんですけども』
その辺りを、どう処理するつもりだったのかをラングストンは知らない。
あくまでラングストンの役割は蓮糸楼のオーナーを殺すことだ。
そのあとのことになど、関わりたくもなかった。
ただただ兄弟が無事に「仕事」を終え、サザルテラから、シスタリアから去ってくれればそれで良いとばかり思っていたのだ。
兄弟さえ消えてくれれば、元の人生に戻れると信じていたかった。
『今、兄弟は?』
「サザルテラのどこかにはいるだろう。倉庫かもしれない。毒殺が失敗したという連絡が来て以来、なんの連絡もない」
『承知しました』
そうですね、と端末の向こうの男が考えをまとめる時間を稼ぐようにぽつりと呟く。
とん、とん、と微かに聞こえる音は、その指先が端末を叩く音だろうか。
『倉庫の詳細な情報をその端末に登録されているアドレスに送ってください。兄弟はこちらで押さえます。それまで貴方は余計なことをせず、そちらのホテルでおとなしく待機していてください。部下を護衛につけていますが、何かあれば連絡を。貴方は兄弟のことで私に相談しており、毒殺の件についても事前に私に連絡していた、という態でお願いします。基本警察には私が話を通します。貴方は確認される内容に頷くだけで良い』
「わ、わかった。それで、助かるのか……?」
『ええ、ええ。助かります。貴方は罪に問われず、ベル家の名も地に堕ちず、そして兄弟は罪に問われる』
「そうか……」
安堵に、膝から下が溶けるような心地がした。
助かったのだ。
後は、彼らに任せておけば何とかなる。
例え解決には至らなかったとしても、犯罪者同士で潰しあってくれればあの兄弟からもラングストンに構うだけの余裕はなくなるだろう。
『それと、もう一つ』
「なんだ」
『先ほども言いましたが』
釘を刺すような男の声音は、ひやりと冷え切っていた。
安堵にだらしなく緩んだ喉元に凍てついたナイフを突きつけられたかのような圧にびくりとラングストンの背が小さく跳ねる。
それは明らかな悪意だった。
敵意とも言い換えられる。
男が初めてラングストンへと向ける怒気にも似ている。
『私が貴方に便宜を図るのは、貴方がリリィの父だからだ。いいですか。その意味を、よくよく考えたほうが良い。お分かりですね』
「……っ」
こくこくと必死に頷く。
男の言わんとしていることはあまりにも明白だった。
ラングストンの命運は、娘にかかっている。
娘を使って成功を手繰り寄せようとしていたラングストンにとってはあまりに皮肉な結果だ。
リリィは、ラングストンに言われた通りに家を救う力を持つ男へと嫁いだ。
だがその力はあくまでも、リリィの為に振るわれるものなのだ。
リリィが実家を見限れば、そこで何もかもが終わる。
リリィが一言そうと望めば、ラングストンを待つのは破滅でしかない。
『では、これから忙しくなるもので――……、失礼』
ぷつり、と通話が途切れる。
ラングストンは、静かに力なく床に膝をついた。
幸福のモラトリオ 山田まる @maru_yamada
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