第11話 取引

 トン。

 硬質なノック音が薄暗い部屋の中に高く響いた。

 椅子に座ったまま項垂れていたリリィははっと顔をあげる。

 慌ててドアに向かって来訪者を迎える。

 ドアの外に立っていたのはガベイラだ。

 薄暗い廊下に、佇んでいる。

 表情は影になって窺えない。

 男は、暗がりの中に立っている。

 闇にとけるような黒衣に身を包んで、立っている。

 その黒が喪に服すためのものだということに気づいて、リリィは蒼白になった。

 喪服のガベイラが、立っている。

 凍てついた碧がリリィを見据えている。


「皓月が死んだ」


 感情の読み取れない乾いた声音が淡々と言う。


「君のせいだ」


 その言葉はただただ事実を告げるだけでありながら、たった一言でリリィの心をへし折るのに充分な暴力性を秘めていた。

 リリィのせいだ。

 リリィが毒を仕込んだりなんかしたから。

 リリィがこの家に迎えられたりなどしたから。

 リリィが皓月と結婚することになどなってしまったから。

 だから、皓月は死んだ。

 リリィが、殺した。

 ぐわんぐわんと世界が回る。

 ガベイラの足元から伸びたのっぺりとした影が広がって、リリィの世界を塗り潰す。

 何も見えなくて、何もわからなくなる。

 ただただ絶望だけが胸の内にあふれて、何をしたら良いのかがわからない。

 償いようのない事態にどうしたらいいのかわからなくて、謝らなければと思うのに謝って許されるわけでもないことはわかりきっていて、からからに乾いた喉の奥に言葉の塊が詰まって息が苦しくなる。

 苦しくて、苦しくて――…、そこで、トン、とまた一つ音がした。


「ッ……」


 リリィの肩が大きく揺れる。

 目を瞠り、深呼吸を繰り返す。

 一瞬自分がどこにいるのかわからなくて、はあはあと呼吸に胸を喘がせながら周囲を見渡した。

 リリィの部屋だ。

 皓月がリリィの自室として用意した部屋。

 そこで、リリィは椅子に座ったままギグリと身体を硬直させていた。

 いつの間にか部屋の中はうっすらと明るくなっている。

 カーテンをすかして、外から朝の光が差し込んできているのだ。

 ドアを見る。

 ぴったりと閉まっていて、ガベイラが訪れた形跡はない。


「ゆめ……」


 ほうと息を吐いて、リリィは胸をなで下ろす。

 いつの間にかうとうとと微睡んでしまっていたらしかった。

 目元を擦って、時計を確認する。

 時刻はそろそろ朝の6時にさしかかるか、といった頃合いだった。

 まだ早朝といっても良い時間だ。

 耳を澄ます。

 屋敷の中はしんと静まりかえったままだ。

 窓の外では世界が朝を迎えて再び動きだそうとしているのに、この屋敷の中だけが夜の中に閉じ込められて時を止めてしまったかのようだ。

 けれど、そんな静けさにリリィは安寧も感じている。

 何も、なければ良い。

 嫌な知らせなど、来なければ良い。

 そう思っていたのに、トン、と気遣わしげにドアが小さく鳴った。

 びくりとリリィの肩が跳ねる。

 そうだ。

 リリィの悪夢を終わらせたのも、この音だった。

 考えるよりも先に、操られるようにゆらりと立ち上がって、ドアへと向かう。

 迷いが生まれたのは、ドアノブに手をかけてからのことだった。

 ドアを開けた先に、立っているのはおそらくガベイラだろう。

 夢の中に現れた黒衣のガベイラを思い出して、背筋が冷える。

 シチュエーションだけならば夢と同じだ。

 リリィが恐れて止まない悪夢と、現実との境界が暈けたような錯覚に、ドアノブにかけた手が動かせない。

 そのまま立ち尽くしていると、躊躇いがちに「姫」と小さくドアの外から声をかけられた。

 ガベイラの声だ。

 柔らかな、気遣いに満ちた低く穏やかな声音。

 リリィがドア一枚隔てた場所に立ち尽くしていることを知っている声だ。


「怖がらせちゃってるかな。あのね、皓月が姫と話したいって」


 言ってるんだけど、と続くかもしれなかった言葉の先を待たずに、リリィはバタンと勢いよくドアを開け放った。

 ドアの向こうに立つガベイラは、当然喪服などではなかった。

 昨夜と同じスーツの、ジャケットだけを脱いだジレスタイルだ。

 朝の薄明かりの下に立つ表情はいつもと変わらない穏やかさで、明るい碧の双眸にはリリィへの気遣いが滲んでいる。


「こうげつ」

「うん、皓月」

「こうげつ」

「そう、皓月」


 皓月が無事なのかと確認したいのに、上手く言葉にならない。

 ガベイラはそんなリリィの気持ちがわかっているかのように、ただただ名前を呼ぶことしかできないリリィに付き合って、相づちを重ねてくれる。

 震えるリリィの肩にガベイラの大きな掌が触れる。

 暖かな手だ。

 安心させる体温がそのまま肩から背に滑って、宥めるようにぽんぽんと撫でた。


「皓月がね、話したいって言ってるんだけど……もう少し待たせとく?」

「だい、じょぶ、なん」


 からからに乾いた震える声で言う。

 油断すると、安堵から崩れ落ちてしまいそうだった。

 皓月は、ちゃんと生きている。

 話が出来る程度には、回復している。

 嗚咽をこらえて口元をへの字にするリリィの頭を撫でるついでのように、ガベイラはリリィの乱れた髪を撫でつけた。


「もしも薬と一緒に送られてきた手紙みたいなものが残っていれば、見せてほしいって言ってたんだけど」

「わかったん」


 リリィは一度部屋に戻り、机の引き出しの奥に小さく畳んでしまい込んでいた手紙を取り出す。

 父親はきっとこうなることを恐れて燃やすようにと言っていたのだろうが、もはやリリィからは皓月やガベイラに対して隠し事をしようという気が失せてしまっていた。

 それは皓月やガベイラであれば、父親を筆頭にしたリリィの家族に対して、そこまで理不尽な真似はしないだろうという信頼もあれば、ここまで迷惑をかけてしまった以上今さら何も隠したくないという気持ちも強かった。

 きつく折りたたまれた手紙をぎゅ、と手の中に握りしめて、リリィはガベイラに先導されるままに歩き始める。


「……?」


 てっきり皓月の寝室に向かうのだと思っていたのに、ガベイラが向かったのは階下だった。

 内心首を傾げながらも、リリィはガベイラの後に続く。

 階段を降りた先のリビングはすでに明るく、清々しい朝の気配に満ちていた。

 そんなリビングの長椅子に、皓月が座っている。

 否、座っているというよりも横たわっているという方が正しいだろう。

 いくつか重ねたクッションに背中を預け、ブーツを履いたままの足を長椅子の肘掛けに乗せて悠々と寛いでいる。

 腹の上に載っているのは、昨夜目を通し損ねた書類だろうか。

 いつもと変わらぬ顔色の目元には鮮やかな朱を刷き、既に今にも店に立てそうな華やかな装束に身を包んで身支度は万全だ。

 何も知らなければ、いつもと変わらぬ朝の光景だと思っていられたことだろう。

 とはいえ、これまで皓月がこんな怠惰な姿をリリィに晒したことはないのだが。

 普段であれば、ゆったりと長椅子に腰掛けて珈琲を飲んでいるか、すでに朝食をつまみ始めているところだ。

 おそらく、時間がいつもの朝食時よりも結構早めであることも関係しているのかもしれないし、単純に皓月の体調の兼ね合いであるのかもしれなかった。

 皓月はふと書類から視線を持ち上げてリリィを見やり――……、一度驚いたような瞬きを挟んでから気の毒そうに眉尻を下げた。


「おはよう、姫。顔色が良くないね。眠れなかった?」


 悪い夢でも見た?

 そんな風に何でもないように訊ねる口ぶりに、リリィは茫然と瞬く。

 まるで、何事も無かったかのようだ。

 明るく、清らかな朝の光の下でそんな風に振舞われてしまっては、全てがリリィの見た悪い夢だったような気すらしてくる。

 だが、確かにそれらが夢でなかった証拠がリリィの手の中にはある。


「もう、大丈夫、なん……?」


 小さく問う。

 少しだけ、怖かった。

 うつくしい顔で、やわらかに口元に笑みを浮かべて、不思議そうにわずかに首を傾げたりなんかして、困惑の滲んだ声で「なんの話?」なんて言われたらきっとリリィはそれ以上何も聞けなくなってしまう。

 リリィが確かにした恐ろしい行いを被害者である男に握り潰された結果、表面上は何事もなかったかのように日常が続いていく、なんていうのはあまりにもうすら寒い想像だった。


「大丈夫」

「じゃないよ」


 ゆたりとした笑みを浮かべて答えた皓月の語尾を引き取って、キッチンから出てきたガベイラが速攻で打ち消す。

 どうやら三人分の飲み物を淹れてきてくれたようだった。

 手には三人分のマグカップを持っている。


「はい、姫にはホットミルクね。落ち着くよ。ほら、いつまでも立ってないで、座ったら?」


 温かなマグカップを持たされて、リリィは促されるままにぽすりと皓月が占領している長椅子とL字を作るようにして設置されているソファに腰を下ろす。

 ガベイラはそれを見届けてから、皓月にもマグカップを差し出した。


「……何」

「白湯」

「…………」


 差し出された白湯のマグカップに、皓月は露骨に不満ですという顔をする。

 それをしれっと黙殺しながら、ガベイラは長椅子のひじ掛けにひっかけられていた皓月の足首をひょいと掴むと無造作に床へと落して自分の座る為のスペースを作った。

 ますます皓月の双眸が不満げに細くなる。

 それでも声に出しては何も言わない様子は、不機嫌な獣のようだ。

 とはいえガベイラは皓月の取り扱いをよくよく心得ていて、皓月が本当の意味で機嫌を損ねるようなことには踏み込まない。

 だから二人のこうした無言のやりとりは、じゃれあいの範疇だ。


「君のは?」

「僕は珈琲」

「僕もそっちがよかった」

「今そんなの飲んでも全部吐くだけだよ」

「…………」


 不承不承といった面持ちで、皓月がちびりと白湯で唇を湿らせる。

 その隣に座る男は、涼しい顔で香り高く淹れられた珈琲を味わっている。

 リリィはどうしていいのかわからないままに、二人の仕草を真似るようにしてホットミルクのマグカップを口元に運んだ。

 温かなミルクはほんのりと甘く、ガベイラが言ったようにほっとする味わいだ。

 不安と恐怖に冷え切っていた身体を、芯から温めてくれるかのようだった。

 甘やかなホットミルクの優しい味わいと、いつもと変わらぬ二人のやり取りに、ああ本当に大丈夫だったんだな、としみじみと実感するのと同時にリリィの目元からほろりと熱い雫がこぼれ落ちた。

 ぽたりと落ちた雫が、まぁるくスカートの色味を濃く変える。

 抑えきれなかった嗚咽が、ひくりと喉を鳴らす。

 ひくひくと喉を鳴らして静かに泣き出したリリィに、男二人は困ったように顔を見合わせた。

 二人を困らせたいわけではなかった。

 泣くことで許されたいわけでもなかった。

 リリィがしたことは許されないことだ。

 許されなくて当然だ。

 それでも、今こうして皓月がガベイラを相手にいつもと変わらぬやりとりができる程度には回復していることが嬉しくて、皓月を殺してしまわなくて済んだことにリリィは心底安堵しているのだ。

 皓月が、生きていてくれることが嬉しい。

 静かに声を抑えて泣きじゃくりながら、「よかった」と「ごめんなさい」を繰り返すリリィに、皓月はますます困ったような面持ちになる。

 皓月には、こんな風にリリィを泣かせてしまうつもりなどなかったのだ。

 助けを求めるようにちらりと隣へと視線をやれば、隣の男は涼しい顔で美味しそうな珈琲を味わっている。

 視線に気づかなかったわけもないので、間違いなく意趣返しだろう。

 足を蹴ってやろうと試みたものの、あっさりとかわされた。

 ますます内心苦虫を噛み潰しつつも、皓月は充分に優しげに響くように気を遣って口を開いた。


「ごめんね、怖がらせたね」


 皓月の声に、リリィが顔をあげる。

 色素の薄いグレー、普段は硝子のような色味の双眸が涙で潤んで光を弾く様が一層美しい輝石のようだった。

 そしてそんな美しい瞳が、なんとなく、なんとなく、皓月を責めるような色合いを帯びているような気がするのは皓月の気のせいなのだろうか。

 それはガベイラが日頃皓月に向けるのと似ているような。

 確かに、皓月としても反省はしているのだ。

 今こうして目の前でいたいけな少女に泣かれてしまえば、自分が最善手だと思って打った手がそう良いものでもなかったのだということは流石にわかる。

 リリィはこれまで誰かに危害を加えたり、加えられたりするような環境に身を置いてはきていない。

 それが突然加害者の立場に立たされてしまえば、動揺もするだろうし、恐ろしくもなるだろう。

 それは皓月の計算外だった。

 リリィの心情を、リリィが心に負うであろう傷のことまでが考えが及んでいなかったのだ。

 そんな、少し考えればわかるようなことに思い至らないほどに自分自身が切った張ったの世界に馴染み過ぎているのだと思えば、苦笑の一つも浮かんでしまうというものだ。

 

「大丈夫だよ。僕はちゃんと生きているし、平気だし、怒ってもいないからね。姫が責任を感じて恐れなければいけないようなことなんて、何も起きていないよ」

「………………」


 涙をたっぷりと讃えた硝子色の、美しくも批難がましい色がより一層濃くなった気がする。

 どうやら皓月は何か言葉を間違えたようだった。

 困惑を示すように緩く、微妙に首を傾げる。

 そんな皓月の所作に意図が伝わってないらしいと気づいたリリィが、助けを求めるようにガベイラへと視線をやった。

 

「ガベイラ……」

「皓月がごめんね」


 何故か保護者然とした顔の隣の男が諦念の滲んだ声音で謝罪を口にした。

 リリィは未だ何事かを訴えかけるような眼差しで皓月をじぃと見つめている。

 なんだ。

 なんなんだ。

 少し首を傾げてーーー、ようやく思い当たってポンと皓月は手を打った。


「姫の思惑を無視してしまったのはごめんね。姫は僕に気づいてほしかったんだろうに……、それに関しては悪いことをしたと思っているよ」


 リリィは、一生懸命皓月に警告を発していた。

 怪しまれるようにと、気づくことのできるヒントをたくさん残しておいてくれていた。

 それを無視して毒をあおったのは皓月の独断だ。

 リリィの眉尻がふにゃりと下がる。

 どうやら、それで合っていたらしい。

 

「……、なんで、わかってて飲んだん」


 必死に涙声にならないようにとコントロールしているのだろうと思わせる声音の問いに、皓月はあっさりと答える。


「君のように当たり前の真っ当な価値観のもとで育った子が誰かを殺そうとするのなら、それなりの理由があるはずだと思ってね。見れば君の趣味ではなさそうなやたら大きな石のついたブローチをつけていたからこれは見張られてるな、というのはすぐに見当がついた。そうなれば、後は簡単だ。君は見張られ、脅されている。これまでほとんど実家から出たことのない君を脅すのならば、そのネタは家族だろう。合ってる?」


 皓月の答え合わせを求める声に、リリィはこくりと頷く。

 意図的に気づいてほしくてヒントを散りばめたとはいえ、ここまできっちり読み解いて貰えているとは思わなかった。

 だが、リリィが知りたいのはそこまでわかっていて何故毒物の入った紅茶を飲み干してしまったのか、だ。

 リリィの視線に促されるようにして、皓月は言葉を続ける。


「見張られている以上、僕が気づいて毒を飲まなければ君にとって何か不利なことが起きる可能性があると思ったんだ。例えば家族の誰かに危害が及ぶ、だとかね。だから、飲んだ」


 だから、の使い方がわからないと思った。

 リリィは、ちゃんと覚悟していたのだ。

 覚悟した上で皓月を傷つけたくなくて、皓月を選んだのだ。

 最悪の事態まで想定した上で、家族ではなく皓月を選んだ。

 それなのに皓月は、いともあっさりとそれが当然だというようにリリィにとっての最善を勝手に決めて、毒入りの紅茶を飲み干してしまった。

 あまつさえ、それを「何でもない」と言ってしまうのだ。

 リリィが責任を感じたり、恐れるようなことなど何も起きていないのだ、と。

 皓月のしらりとした顔だけを見ていたならばリリィだってそう信じることが出来たかもしれない。

 だが、リリィは見ている。

 昨夜紙のように白い顔色でぐったりとベッドに横たわれる皓月の姿を見ている。

 幾度となくガベイラに強制的に水を飲まされ、吐かされ、苦しんでいた姿だって、リリィはちゃんと見ているのだ。

 ガベイラがどれだけ必死に皓月を助けようとしていたのかだって、知っている。

 皓月だけが、それを「何でもない」と言ってしまうのだ。 


「ガベイラ……」

「皓月がごめんね……」


 本日二度目の謝罪だった。

 皓月だけがわっていなさそうな憮然とした面持ちをしている。

 わかってないながらに、何か責められているらしいということだけは察したらしい皓月がコホン、と誤魔化すように咳払いを一つ挟んで言葉を続ける。


「いや、ちゃんと勝算はあったんだよ。匂いで大体毒の種類はわかっていたし、僕には耐性があったからね。例え致死量を飲んだところですぐにどうにかなる心配はないってこともわかってたんだ。それにほら、監視している人間からしたって、毒を飲んでも僕がピンピンしてたら動揺するだろう? 時間稼ぎになればいろいろ出来ることも増えるからね」

「たぶんだけど、監視側より僕と姫の方がよっぽど動揺していたと思うよ」


 ガベイラの最もな言葉に、リリィもこくこくと頷く。

 二人の視線から、皓月は逃げるようについと視線をそらした。

 いつもと変わらぬ、口元に柔らかな笑みを浮かべたしらりとした顔ではあったものの、どことなく気まずそうな所作だ。


「次にこんな真似をしたら、今度は水に突っ込んだ後足首掴んで逆さに振るからね」

「こわい」


 死刑宣告めいたガベイラの予告に、ますます皓月の視線が泳いだ。

 きっと、ガベイラの膂力であれば可能だろう。

 次があるならば是非やってほしいとリリィも思う。

 たぶんそれぐらいしなくては、皓月は懲りない。

 そして懲りなければ、皓月は何度でも同じようなことをして、そしていつか本当にいともあっさりとその命を落としてしまうことだろう。

 その癖、おそらく最期の瞬間だって皓月は悔やまない。

 いつもと変わらぬしらりとした顔で、己の最期を受け入れる。

 悔やむのは止められなかった周囲ばかりだ。


「ええと、その、アレだ。話を戻そう。戻すよ」


 皓月が逃げを打った。

 リリィはちらりとガベイラを見やる。

 ガベイラはまったく仕方ないな、というような苦笑を浮かべつつも、皓月の戦略的撤退を見逃してやることにしたようだった。

 ガベイラが見逃すのならば、とリリィもこれ以上の追及は今は控えて、おとなしく皓月の言葉を待つことにした。

 今回のことに対して一番怒る権利を持っているのはガベイラだ。

 そのガベイラが皓月を見逃すならば、リリィも右に習うだけである。

 機会さえあれば改めて是非懇々と問い詰めてやりたい気持ちはあるけれども。


「昨夜のうちにガーベラくんに頼んで、ベル家の人間の安否は確認してもらった」

「全員無事だったよ。ベル夫人と弟くんは実家、ベル伯爵本人はこっちのホテルに滞在してる。どちらにも部下をそれぞれつけて監視させているけど、今のところ何かあった、っていう報告はないよ。あ、ベル伯爵は単身でのホテル滞在で、今は部屋に一人だ。昨夜から特に誰かが訪ねた、というようなこともない」

「……よかったん」


 ほう、とリリィは息を吐く。

 家族が誰も危険に晒されていない、というのはリリィにとっては安心できるポイントだ。

 だが、一方皓月とガベイラの表情は晴れない。


「良かった、んだけどね。一応。でもそうとばかりも言っていられない。ベル伯爵を含め、ベル家の皆が変わりなく過ごしている、ということは逆にいうとベル伯爵は誰かに脅されているわけではない、ということになる」

「……!」


 そうだ。

 そういうことになってしまう。

 ホットミルクのマグを持つリリィの手指に、ぎゅ、と力がこもる。

 父親が、リリィに嘘をついたことになる。

 リリィに嘘をついて、自分を含んだ家族の命を盾にとって、リリィに皓月を殺させようとしたのだ。


「おそらく、共犯、なんだろう。主犯ではないと思うよ。うまい話を持ちかけられて乗った。もしくは、なんらかの事情があって断り切れなかったか」


 フォローのように皓月が言うが、そんな言葉はちっともリリィの心を宥めてはくれなかった。

 父親は、リリィに皓月を殺させようとした。

 主犯だろうが共犯だろうが、その事実は変わらない。


「警察に、行くん」


 リリィはすっくと立ち上がる。

 責任を取りたかった。

 ベル家の人間として、父親のしたことに対して責任を果たしたかった。

 父親から送られてきた手紙、毒物、証拠は充分だろう。

 それが、リリィが皓月に対して出来る唯一の償いらしい償いだ。

 父親とリリィは、逮捕されるだろう。

 継母とその息子、リリィの小さな弟だって今までと何も変わらない生活を続けるというわけには行かなくなるだろう。

 だがそれは、ベル家の人間となったものとして仕方のないことだ。

 リリィがベル家の娘としてこれまで育てられたのだからと、ベル家の娘として粛々と家のための結婚を受け入れたように、彼らもまたベル家の人間としての責任を取らなければならない。

 それが道理というものだ。


「警察に行く、ということがベル家の人間にどういう影響を齎すか、君はちゃんとわかって言っているのかな。殺人未遂の罪に問われることになる。君自身は未成年だし、父親に脅されたということもあるからそれほど困らないかもしれないけれどーーベル伯爵は確実に実刑を受ける。ベル家の名も、失墜する」


 皓月の声音は静かで、諭すようでもあり、試すようでもあった。

 その紫暗の双眸をまっすぐに見据えて、リリィは頷く。

 胸のうちには、先ほど「だから毒を飲んだ」と皓月が答えた時と同じような激情が轟々と渦巻いている。

 馬鹿にしないで、と吠えたいような気持ちだ。

 リリィは、何も勢いで言っているわけではない。

 今だって、皓月に毒を仕込んだ時だって、ちゃんと考えて、考えて、考えた末に決断したのだ。

 それを一時の気の迷いのように言われるのは、いくらリリィ自身のことを思ってのことだとわかってはいても腹が立つ。


「ちゃんと、わかってるん」


 挑むようにまっすぐに皓月を見据えて答える。

 わかっている。

 リリィは、わかった上で選んで決めている。

 家族はリリィを恨むだろう。

 リリィは一人で生きていかなければならなくなる。

 何も知らない、何も出来ない14歳の子どもでしかないリリィがどうしたら生きていけるのかなんて見当もつかないけれど、それでもやらなくてはいけないことだけはわかっている。

 未来を恐れる気持ちは当然あった。

 今までの生活をすべて自分が壊そうとしていることに対する怖さがないとはとてもじゃないけれど言えない。

 それでも、リリィはそれを承知で決めた。

 決めたのだ。

 色素の薄い、硝子めいた双眸に宿る強い意志の色に降参でもするように皓月がふ、と呼気を逃した。

 薄い唇の端があえかに持ち上がり、優美な笑みを形作る。


「そこまで覚悟が出来ているのならーー、リリィ・ベル。僕と、取引をしないか」


 そうして名前を呼ばれるのは、初めてだとリリィは思った。

 皓月の双眸もまた、まっすぐにリリィを見つめている。

 ベル家の娘ではなく、お飾りの許嫁としてでもなく、目の前にいるリリィ・ベルという人間を評価し、取引の相手として誘っている。

 背筋が、ぞくりとした。

 デビュタントの夜を思い出す。

 壁際で野暮ったく振る舞う男と眼があった瞬間に、リリィはこの男には敵わないと思ったのだ。

 油断のならない、上位の獣の前に躍り出てしまったような緊張に背筋が震える。

 それでも、リリィは自らの矜持に賭けて怯むわけにはいかなかった。

 しっかりと胸を張って、見据える。


「……取引?」

 

 声が震えなかっただけ、上出来だった。


「そう、取引」


 座って、と促されて、リリィは再びぽすりとソファに腰を下ろす。

 

「実は僕とガーベラくんには目的があってね。ガーベラくん」

「はいはい」


 ガベイラが、ポケットから取り出した写真を二枚テーブルの上に並べる。

 手を伸ばして写真を引き寄せ、リリィはまじまじと観察する。

 見覚えのない男たちだ。

 いかにも隠し撮りといった風の写真で、被写体の男たちは二人ともカメラの存在には気づいていないようなそぶりで雑踏の中にいる。


「彼らはソヴァン兄弟、と呼ばれるタチの悪いドラッグディーラーだ。彼らがサザルテラに姿を現した、というのがすべての始まりでね」


 皓月は淡々と語る。

 しばらく前に近隣の製薬会社からドラッグの精製にも流用可能な危険薬物が紛失したこと。

 その数ヶ月後に兄弟がサザルテラに姿を現したことから、兄弟がサザルテラで商売を始める可能性を危険視していること。

 そして、そんな兄弟とリリィの父親であるベル伯爵が接触していたこと。


「ソヴァン兄弟は表向きはイベンターということになっているからね。それでもしかしたら、君のデビュタントパーティーにも彼らが関わっているのかもしれない、と思って僕とガーベラくんが潜り込んだっていうわけだ」

「だから、ガベイラが皓月のふりしてたん?」

「そういうことだね。僕は会場で兄弟の姿を探すのに集中したかったから。あとまあ、兄弟が何か仕掛けてきた場合、僕よりガベイラくんの方が荒事には向いてるからね」

「『蓮糸楼のオーナーがドラッグビジネスを毛嫌いしている』、ていうのは業界では有名な話なんだ。おかげで迷惑なことに暗殺沙汰には事欠かなくって。それなら僕が囮になった方が護衛としても仕事がやりやすくてさ」

「でもまあ、まさか姫に見抜かれるとは思わなかったよね」

「本当だよ」


 ガベイラの口元に柔らかな苦笑が浮かぶ。

 護衛のプロであるガベイラによる影武者を見抜いたのだと思えば、リリィとしてもなんだか少し誇らしい気持ちにもなる。

 ドヤンヤ。


「結局あのパーティーでは兄弟の姿は見つけられなかったんだけどね」

「それで、姫と結婚することにしたん?」


 二人にとって、サザルテラに現れたソヴァン兄弟の情報は「ベル伯爵と会っていた」という一点だけだ。

 兄弟の動向を探る上で、ベル伯爵とのコネクションはあった方が便利だろう。

 そう考えれば、リリィにとって今まで不思議だった皓月やガベイラの行動も腑に落ちる。

 

「まあね。でもそれだけじゃあないよ。僕とね、ガーベラくんの入れ替わりを見抜くほど賢い子が、親の道具としてただただくだらない連中に売られていくのを見過ごすのは勿体ないと思ったんだ。君に、チャンスを与えてみたくなった」

「チャンス……」

「そう、チャンス」


 家の名から離れて、人生をやり直すチャンス、ということなのだろうか。

 皓月はリリィに教育の機会すら与えようとしてくれていた。


「…………」


 それは、少しだけもどかしい事実だった。

 もとより、皓月がリリィを妻として見ているわけではないということはわかっていた。

 幾晩も一つのベッドで一緒に眠ったが、決してそういう意味では皓月はリリィに指一本触れたりはしなかった。

 いつだって子どもを慈しむように、優しく、見守られてきた。

 もちろんそれだって充分にありがたい。

 けれど……、少しだけ、しょんもりもしてしまうのだ。

 そして、もう一つリリィにはしょぼりと肩を落としてしまう理由があった。


「……姫は、せっかく皓月がくれたチャンスを駄目にしてしまったん」


 家から離れ、やり直す機会を与えられたのに。

 リリィは結局父親の指示に従い、皓月を殺そうとしてしまった。

 この家での穏やかで幸福な生活を、自らぶち壊してしまった。


「そうでもないかもしれないよ」


 皓月の声に、リリィは自然と伏せていた視線を持ち上げる。


「僕たちはね、ずっとソヴァン兄弟の居場所を探してた。何かするつもりなんじゃないか、て警戒してた。で、今実際にこうして動きがあったわけでね。僕たちとしては、ベル伯爵の背後にいるのはソヴァン兄弟で間違いないと思っているんだ」

「普通に考えれば、今皓月を殺してもベル伯爵には特に利益はないはずだからね」


 それは、リリィも考えていたことだ。

 正式に法律上婚姻が認められたわけではない以上、今皓月が死んでもリリィには皓月の財産を妻として受け取ることは出来ない。

 それならば別に、皓月の死で得をする人間からの援助を受けている、もしくは脅されていると考えるのが自然だ。


「ベル伯爵を使えば、ソヴァン兄弟を辿れる」

「姫は、そのため切り札になる」

「切り札に、なるん……?」


 父親の置かれている状況も、何故父親がこんな犯罪に手を染めたのかも、リリィには何もわからない。

 第一父親にとってもリリィは便利な手駒の一つ、ぐらいの認識だろう。

 そうでなければ、家のために身売り同然での結婚を決めたりはしないだろうし、脅して人殺しをさせようとしたりなどしないはずだ。

 情報を吐かなければリリィを殺すと脅したところで、父親が口を割るとは思えなかった。


「姫、その手紙を見せてもらっても?」


 リリィが差し出した手紙を受け取って、皓月は一通り目を通すと面白そうに笑ってそれを隣のガベイラにも回した。

 読み進めるに連れ、ガベイラの眉間に皺が寄る。


「…………皓月、君、ベル伯爵に嫌われすぎでは?」

「男親は娘の夫を嫌うものだから仕方ないね」


 しれっと言って、皓月は再び手元に戻された手紙を指先でぺらりと弄ぶ。


「姫、これはベル伯爵の字で間違いない?」

「間違いないん」

「なるほど。なるほど」

「……悪い顔してるよ」

「ようやく反撃できるかと思うと楽しくって」


 皓月はごそごそと背もたれにしていたクッションの下をあさって、そこから小さなビニールバッグの中にそれぞれ保全された香水の瓶とブローチとを取り出した。

 ことり、と机に置く。


「殺人を指示する手紙と、実際に送られてきた毒薬、そして監視装置の残骸、さらには実行犯にされかけた証人までがここには揃っている。ソヴァン兄弟が関与していることを証明するのは難しくとも、まあこれだけ揃ってればベル伯爵を有罪にするには充分過ぎるだろうね。だけど果たしてこの状況でベル伯爵はおとなしく単独犯の汚名を着るかな」

「ーーなるほど、理解したん」


 皓月は、ベル伯爵を脅す気なのだ。

 このままでは皓月暗殺未遂の単独犯になるぞ、と脅して、その背後にいるソヴァン兄弟の情報を引き出すつもりでいる。


「姫は、何をしたら良いん」

「僕に、協力してほしい。具体的には、僕に身柄を預けてほしい。悪いようにはしないよ。ただ……、申し訳ないのだけれども、父親を裏切ることにはなる。それに、危険にも晒してしまうと思う。でも、危険度でいえば今君が父親のもとに帰ったとしても変わらない。あの兄弟にとって、君は不利な証人になりうるからね。それだけで、狙われる可能性は充分だ。その場合、まだ僕たちと一緒にいた方が安全だとは思う。けれど、それは僕の考えだ。君が、決めてくれ」

「わかったん」


 リリィはこっくりと頷いて、それからあっさりと決めた。


「皓月に、任せるん」


 もう少し、悩むと思っていたのだろう。

 皓月は驚いたようにその双眸を瞬かせる。

 それに少しだけリリィは、ざまあみろ、というような気持ちで笑った。

 皓月を選ぶ覚悟など、とっくにリリィは決めているのだ。

 

「……良いの?」

「?」

「君は、家族を裏切ることになる」

「良いん」


 父親は、皓月を殺すための実行犯としてリリィを使おうとした。

 それは、リリィを道具として使い捨てようとしたということだ。

 皓月を殺せたとしても、リリィは殺人犯になる。

 その後父親や、その背後にいるのであろう兄弟がどう動くつもりだったのかは知らないが……最悪の場合、リリィだけが罪を着せられていた可能性はゼロではないし、そもそも役目を終えたとばかりに処分された可能性だってある。

 そして皓月を殺せなかった場合、捕らえられたリリィがどんな目に遭ったとしてもおかしくはなかった。

 リリィは14歳の子どもで、そんな子どもがただ一人鉄砲玉として送り込まれたあげく、暗殺未遂という罪だけを背負って敵地に置き去りにされてしまうのだ。

 その場で殺されていれば、まだ御の字とすら言えてしまう。

 リリィの父親だって、それがわからなかったわけではないだろう。

 そうなる可能性だって充分にわかった上で、リリィを送り込み、リリィに皓月を殺させようとしたのだ。

 だから、先に裏切ったのは父親の方だ。

 先に、リリィに背を向けたのは父親だ。

 そんな父親にも、その家族にも、もはや未練はなかった。

 この件がどんな形で決着を迎えたとしても、リリィに実家に戻るという選択肢はない。

 戻るつもりも、ない。


「…………」


 きっぱりと構わないと言い切ったリリィに、皓月だけが物憂げに双眸を伏せる。

 けれど、それもほんの数瞬のことだった。

 すぐに表情を切り替えて、にこりと笑う。

 笑いとは威嚇に準じる表情なのだということがよくわかる、獰猛な獣のような笑みだった。


「それじゃあ、始めようか」

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