第10話 傷
女が、立っている。
こちらに背を向けて、コンロに向かって立っている。
サイズの合わないシャツだけをだらしなく着た女だ。
生白い足が、素足で汚れた床を踏んでいる。
足元には酒瓶が転がり、ゴミをまとめた袋が乱雑にあちこちに転がっている。
一目で生活が破綻していることがわかる光景だった。
ダイニングテーブルの上にはシリアルの空き箱が化粧品と一緒に無造作に並べられ、椅子の背には白粉と香水の匂いの沁みついた派手なドレスが脱いだままに幾重にも引っ掛けられている。
女は、コンロで何か煮ているようだった。
くつくつ、と柔らかな音が響く。
そういえば、屑野菜とベーコンの切れ端を煮込んだスープは女の得意料理だった。
好きだといったら嬉しそうに笑って、よく作ってくれたことを思い出す。
決して裕福とは言えなかったけれども、それでも確かに幸福だった日々の象徴だった。
郷愁にも似た思いを胸に、女の後ろ姿を眺める。
鍋をかき混ぜながら、振り向かないままに女が言う。
「あんたにも食い扶持を稼いで貰わなきゃ」
それが、体を売れという意味なのはわかっていた。
女の客の一人が厭な目つきで自分を見ているのも知っていた。
そして、女がドラッグさえやめてくれたのなら、女の真っ当な稼ぎだけで母子慎ましく十分に生きていけることだって。
もともと女は酒場の主だった。
快活で豪快な笑い声で皆を魅了する、気風の良い女だった。
そうでなければ縁もゆかりもなく、たまたま店近くの路地裏に捨てられていただけの死にかけの赤ん坊など手元で育てようだなんて思わないだろう。
「あたしは父親を知らなくて、あんたは両親を知らない。似たようなもんじゃないか」
そう言って、からからと笑っていた女の姿は今でも思い出せる。
それが悪い男に付け込まれ、あっという間に身を持ち崩した。
ドラッグの快楽に溺れているうちに店を手放し、いつしか夜の女として通りに立つようになった。
別に、女のためなら身体を売ったって良かった。
本当に生きるために必要なら、それでも良かったのだ。
けれど、そうして稼いだ金で女がまた薬を買うのがわかっていたから、嫌だとはっきりと言った。
女は激昂した。
無理やり、寝ている部屋に客の男を寄越されたこともあった。
一目散に窓から逃げた。
家でも、気が休まるときはなくなった。
常に気を張り詰め、野生動物のように少しの物音で、微かな人の気配にでも飛び起きることが出来るようになった。
女が身を持ち崩してからは学校にも行かなくなった。
女は、身体を売って得た金のほとんどを薬に注ぎ込んでしまう。
近隣で小間使いのようなことでもして小金を稼がなければ、二人とも飢えて死ぬのが目に見えていた。
薬にどろりと濁った眼で、何か夢見るようにふわふわと女が笑って、
「スープを作ってあげる」
と、ある日女が久方ぶりに言った。
女がキッチンに立つなど、どれくらいぶりだっただろう。
くつくつとスープが煮える。
女のやせ細った背中が薄汚れたキッチンに立つ。
こんな女じゃなかった。
明るくて、よく笑う、優しい女だった。
抱きつくと柔らかくて、あたかかくて、安心するうつくしい女だった。
「あのね、」
スープを混ぜながら女がいう。
薬なんかやめるから、生活をやりなおそうと言ってはくれないかと夢想する。
「あんたのことを、高く見染めてくれた人がいるんだよ」
優しい人だから大丈夫、と女が言う。
相手がいかに条件の良い男であるのか、女は饒舌に語る。
好物だったスープ一つで丸めこんで、その条件の良い男に差し出そうとしていることがわかってしまって、そんなことで説得できると思っている女の浅ましさにただただ哀しくなった。
何度目になるのか、もう数えるほどに繰り返したノーを告げる。
女は狂乱して、スープをひっくり返して、部屋から出て行った。
それっきりだった。
二度と、女は戻らなかった。
女は、どうしても薬が欲しくて、欲しくて、欲しくて、たまらなくて。
路上強盗のような真似事をして、あっさりと返り討ちにあった。
薄汚れた路地の片隅で、ゴミのように打ち捨てられた状態で女の遺体は見つかったのだと後から聞かされた。
今でも、思うのだ。
女のために。
母親となってくれた女のために言うことを聞いてやれば良かったのかと。
身体を売ってでも稼いだ金を女に渡してやっていれば、女はもう少しだけでも幸福でいられたのだろうかと。
そして同様に思う。
本当に、女を救いたくてノーと言ったのだろうか。
ただ単純に自分の身可愛さに女を見捨てただけではなかっただろうか。
返すべき恩から、果たすべき義務から目を背けただけではないのだろうか。
そんな苦い後悔と煩悶はいつだって腹の底にわだかまり続けている。
ぐうぐうと腹の底で気持ち悪さが渦を巻く。
こみ上げる後悔に息が詰まるような心地でけほり、と小さく咳をする。
息が、できない。
身体が熱い。
ああ、これは。
これは、夢ではない。
そう理解したとたん、物理的に込み上げてきた不快感に意識を押し上げられた。
反射的にこのまま吐いたらまずい、と悟って重い身体をなんとか起こそうとする。
だというのにやたら熱っぽく、重い手足が言うことをきかない。
爪先が藻掻くようにシーツを引っ掻いたところで、「起こすよ」と知った声が一言告げてから背を引き起こしてくれた。
意識だけが不快感に引きずられて肉体に先行して覚醒したような有様で、しかもそれすらもぐらぐらと煮立って何もかもが不明瞭だ。
時間感覚が狂っている。
今がいつなのか、ここがどこなのか。
「いいよ、大丈夫。吐いちゃって」
吐いても大丈夫な場所にいる、とは思えなかった。
だが、それでもふらつく身体を支える声の主が大丈夫だと言うのなら、きっと大丈夫なのだろうと思った。
例え大丈夫じゃなかったとしても、良いようにしてくれる。
そんなすべてを委ねるような全面的な信頼、もしくは丸投げとも言える思考のもと、込み上げる不快感に逆らわずに胃の腑よりこみ上げたものをげえげえと吐き出す。
びりびりと喉が痛む。
ひとしきり吐き出して、ぜいぜいと呼吸を整えているところで口元にひやりとした硬質のものがあてがわれた。
「お水。口、濯いだ方が楽だよ」
なんとなく似たシチュエーションで凄まじくしんどい思いをしたことがあったような気がする。
む、と唇を一文字にしていたら、「濯ぐだけだよ、濯ぐだけ」と背中をぽんぽんとあやすように叩かれて、仕方なく口を開いた。
とぷ、とゆっくりと流し込まれる水で口を濯いで、吐き出す。
確かに言われた通り、少し、気持ちが楽になる。
「コップ持てる? こっちはスポーツ飲料だから、ゆっくり飲んでてね。僕はこっち片づけてきちゃうから」
片手に先ほどとはおそらく別のコップを持たされ、てきぱきと背中に柔らかな枕を挟まれる。
どうやら膝の上には洗面器を抱え込まされていたようだった。
それをひょいと手に取って、見慣れた長躯が衝立の向こうへと消えていく。
その背をぼんやりと見送ったあたりでようやく。
本当にようやくーー…、皓月は人心地を取り戻してほう、と息を吐いた。
■□■
ガベイラが洗面器の中のものを処理して部屋に戻ると、ベッドの中にいたぐにゃぐにゃの不定形めいていた生き物は、ガベイラのよく知る男の形をしゃんと取り戻していた。
その事実に、少しの安堵と不満を覚えてガベイラは口元に苦い笑みを浮かべる。
寝起きとはいえ、皓月があそこまでガベイラに身を委ねるのは珍しい。
特に意識して、というわけでなければなおさらだ。
他人に対する『顔』を取り繕う余裕もなくぐにゃぐにゃになっている様というのはあまり心臓によろしくないが、だからといって大丈夫ではないものを大丈夫であるかのように装われるのも困る。
「……血の味がする」
ベッドの上に身体を起こした皓月が、がさがさの声で恨めしげに言う。
「まああれだけ吐けばね。喉も痛めるよ。のど飴あるけど食べる?」
「食べる」
差し出された掌に、ベッドサイドに用意しておいたのど飴を渡してやる。
未だ手指にうまく力が入らないのか、のたのたと封を切るのに苦心しているのを横から取り上げて開けてやる。
ころりとしたあめ玉を改めて掌に置いてやれば、のろのろと口に運んだ。
未だ本調子ではないのだろう。
動きの一つ一つが緩慢だ。
ちらりと視線でやれば、それでも先ほど持たせたコップの中身は綺麗に空になっている。
内心、また一つ安心を積む。
これで脱水症に陥る危険性は減った。
コップの中に、おかわりを注ぐ。
露骨に嫌そうな顔をされたのは、浴室で散々無理矢理水を飲ませたからだろう。
あれは自業自得なので諦めてほしい。
「飲める分だけでいいから。具合は?」
「喉が痛い」
「他には」
「特筆するほどでは」
自己申告はアテにならないと早々に理解して、ガベイラは皓月の手を取った。
手の甲を片手で支え、もう片方の三本並べた指で手首に触れて脈を測る。
とっとっと、と規則正しい脈拍はまだ少し弱く、早めではあるものの、取り立てて異常と騒ぐほどではない。
「ちょっと目も見せてね」
スーツの内ポケットから小さなライトを取り出して、明かりをつける。
光を当てつつ覗き込めば、光の先できゅっと皓月の瞳孔が細く収縮するのが確認できた。
こちらも、ほぼ正常な反応に戻ったと言って良いだろう。
すぐに吐かせたといってもある程度は身体に吸収されてしまっていたはずだが、比較的回復が早いのはやはり皓月が自分で言っていた通りの耐性のおかげだ。
カチリとライトを切って懐に戻す。
「もうほとんど薬の影響はなさそうだね」
「それは良かった」
他人事のように言って、皓月はちびりとスポーツドリンクで口元を湿らせる。
それからすっと視線を持ち上げて、口火を切った。
「僕は、どれくらい眠ってた?」
「眠ってた、というか、意識を失ってた、の方が正しいからね」
「で、どれくらい?」
正しい言葉の定義には興味を持っていただけなかったようだった。
はあ、とため息混じりにガベイラは問いに答える。
「せいぜい5時間ってところだよ。今は深夜の0時過ぎ」
「姫はどうしてる?」
「部屋に戻ってもらった。今も部屋にいるはずだよ」
「ベル伯爵家の動きは?」
「……あのね、君、この話本気で続ける気?」
ぎゅ、と眉間に皺を寄せてガベイラは皓月を見る。
このままだと済し崩しで仕事の話になる。
なってしまう。
薬の影響が抜けたとは言っても、完全に回復したと言うわけではないのだ。
実際脈を取るために触れた皓月の肌は未だ熱をもっていた。
おそらく熱を測れば、それなりの体温が数値として明確になるだろう。
顔色だって、未だ幽鬼めいて青醒めたままだ。
だというのに、酷い顔色の中でその双眸だけは強い色を浮かべて爛とガベイラを見据えている。
暗がりで光る、獰猛な獣の眸のようだった。
野生の獣は、手負いの時が一番手がつけられないのだ。
ガベイラは、はあ、と二度目のため息を深々と吐き出す。
「……ベル伯爵は、商談とやらでこちらに来てるらしいよ。滞在しているホテルに一人部下をつけておいたから、何か動きがあれば連絡が来る。ローインドの方のお屋敷にも人をやったけど、そちらも動きはなし。ベル伯爵夫人も、弟くんも、特に変わった様子もなく普通に過ごしてる。この時間だから、っていうのもあるかもしれないけど、現状何事もなく非常に静かだ。……これで良かった?」
「充分だよ、ありがとう。店の方は?」
「そっちも特に変わりはなし。……というか、店の方で何かあると思っていたの?」
「ンーー…、まあね。最悪の場合、ここか店に乗り込まれるかもしれない、と思っていたよ。一応釘は刺したつもりではあったんだけども……、刺された釘にも気づかない阿呆の場合いきなり武力行使、とか充分にあり得るからね」
脅しが通じる程度には知恵があるようで何よりだ、と辛辣なことをのたまいながら、皓月がまたスポーツドリンクを一口啜る。
身体の方はまだ本調子というわけにはいかなさそうではあるが、その頭脳だけは通常運転に戻りつつあると見ても良いだろう。
「あちらも、こちらの動きを伺っている、というところかな。おかげさまで時間が稼げて助かった。いやあ……、あの系統の毒なら2、3時間も休めば動けるようになると思ってたんだけど、存外に効いたな」
「馬鹿なの???」
心の底からのガベイラの言葉に、皓月はひょいと肩を竦める。
勝算のない賭けに出るような男ではないということはガベイラもよくわかっている。
大抵の毒物に対しては耐性があると言って憚らない皓月は、ガベイラよりもよほど毒物に対する造詣も深い。
その皓月が大丈夫だと判断した上で飲み干しているのだから、ガベイラが手を出さずにいても無事に済んでいた可能性は高いのだ。
だが、それでも。
「……なんで、飲んだの」
皓月はわかっていたはずだ。
皓月のカップからは、独特な花の香りがした。
口をつける前から、それが毒物であることはわかっていたはずだった。
おそらくは、リリィがそうした。
あの少女は皓月が気づき、回避出来るようにとわざとその特徴ある香りを隠そうとはしなかったのだ。
それなのに、皓月は飲んだ。
わざわざ、飲み干して見せた。
「あの子があんなことをする理由は一つだろう」
ぽつり、と皓月が呟く。
まだ詳しい事情はガベイラも確認はしていない。
だがそれでも想像はたやすかった。
もともと14歳という幼さで、外の世界のことを知らないままに、それでも家族のために見知らぬ男に嫁ぐことを決めた少女だ。
そんな彼女にとって有効な人質が何かだなんて、考えるまでもない。
「あれが、あの子のラインだった」
「ライン?」
「家族のために、どこまでするか。どこまで、出来るか」
薄暗がりの中、皓月の言葉は静かだ。
「家族のためにやるべきことをやろうとしたけど失敗した、という建前が欲しかったんだろうね。その建前で、あの子は僕を助けようとした」
家族の命と、皓月の命と。
両方は選べない中で、それでもリリィは皓月を助けようとしたのだ。
ガベイラの耳には、未だあの場で己の名を呼んだ少女の悲痛な叫び声が残っている。
皓月が毒入りだとわかっている紅茶を飲んでしまうなど、予想にもしていなかったのだろう。
助けを求める声は、あまりにも必死だった。
リリィには、皓月を傷つけるつもりなどなかったのだ。
それは、ガベイラにもよくわかっている。
だからこそ、ガベイラは皓月の飲み物に毒を仕込んだ張本人であるリリィを拘束もせず、ただ部屋に返すだけで済ませている。
「でもね、ガーベラくん」
声音は、静かなままだった。
暗い部屋の中に静かに、響く。
「選ぶことは、傷になる」
静かな声音には、日頃皓月が見せない、皓月の言う『傷』が齎す痛みが籠もっているかのようだった。
「後悔っていうのは、存外に痛むし、膿むものだ」
「それは経験から?」
「まあね」
それが、どんな経験なのかをきっと皓月は言わないだろう。
人に弱みを見せることを、『傷』を晒すことをとことんまでに嫌う男だ。
『傷』があることを認めたことすら、充分に珍しい。
「あの子なりに考えた上で決めたはずだ。『失敗』することを。僕を殺さないことを。でも……、それでもしも本当に家族を喪うことになれば、あの子は一生あの時の決断が正しかったのかを悩むことになる。あの子の意図的な『ミス』が、僕を救うための『失敗』が彼女の家族を殺す引き金になるわけだからね」
「だから……、飲んだの?」
「僕なら死なないからね」
ガベイラは、深々とため息をついた。
心の奥底から、ため息をついた。
「君さ」
「なに」
「頭は回るのに、たまに本当に、びっくりするぐらい、恐ろしく馬鹿だよね」
しみじみと万感の想いがこめられたガベイラの言葉に、皓月は心外だという顔をする。
皓月は、本気であの紅茶を飲み干したことが最良の選択だったと思っているのだろう。
これでリリィが傷を抱えずに済んだと、思っている。
リリィはやるべきことをやった上で、皓月も死んではいない。
皓月が死ななかったのは、『リリィが毒を盛ったことがバレて皓月に毒入り紅茶を回避されてしまったから』ではなく、『毒物という手段がそもそも皓月には通用しなかったから』だ。
だから、どんな結果になったとしてもリリィには落ち度はない。
リリィは、「家族を見捨てる決断をした」という傷を抱えずに済む。
万が一の際に、家族の死に責任を感じずに済む。
それで良かったのだと、皓月は本気で思っている。
ガベイラの言う『馬鹿』の意味もきっと正しくは伝わっていない。
きっとただリリィの心の重荷を軽くしてやるためだけに毒を飲んでみせたことを指しているのだとしか思っていないだろう。
ガベイラによって浴室で吐かされている皓月を見て、リリィがどれほど怯えていたのかなど、知らないのだ。
家族を犠牲にしてでも助けようと思った男が、目の前で毒に倒れた姿を見せられて、そちらの方がよっぽど傷ついたであろうことなど、知りもしないのだ。
「あのね、皓月」
「うん」
「皓月は馬鹿だから、言わないとわからないだろうから言うんだけど」
「僕、先ほどから酷い言われようでは」
「いいから聞いて」
「はい」
ガベイラの圧に負けたような、殊勝なおへんじだった。
「家族に何かあったら、確かにあの子は傷つくし、悲しむだろうけどね」
「うん」
「君に何かあったら、僕だって傷つくし、悲しむ」
皓月が毒を飲んでみせたことでリリィが傷ついたであろうことは、言わないでおいた。
それは、リリィが自分の口で言うべきことだ。
ガベイラが代弁すべきことではない。
第一、代弁したところで皓月には理解されないだろう。
そういう風にも考えられるかもしれないね、と可能性の一つとして処理されるだけだ。
だから、今確かな証左として差し出せる自分の気持ちだけを告げる。
「…………、」
きょとりと、紫闇の双眸が丸くなる。
猫欺しを眼前で喰らった猫のような面持ちだ。
「死んでないのに?」
「それでも」
「後遺症も残らないよ」
「それでも」
目の前で服毒されたあげくに苦しまれる、というのはどうしたって心臓に悪い。
そもそも死にはしなくとも、後遺症も残らずとも、その過程で発生する苦しみは本物だ。
結果として死んでいないだけだ。
ガベイラも、そしておそらくはリリィも、そんな苦しみを皓月に与えることを良しとは思っていない。
それが、どうしてだかこの目の前の賢いはずの男にはわからない。
「僕が、傷つくし悲しむ」
もう一度、言い含めるように繰り返す。
皓月は考えるように眼を伏せて、そう、と小さく呟いた。
そのまま伏せられた視線がついと滑って、ガベイラの利き手に止まる。
人差し指と中指の付け根のあたりには、細かな傷が残ったままだ。
皓月に吐かせようとして咬まれた傷だ。
「……手間をかけさせて、悪かったね」
「馬鹿も休み休み言わないとそろそろぶん殴るよ」
「まって今君に殴られるとたぶん死ぬ」
「皓月が元気でも殺せる自信はある」
皓月の視線がうろりと泳いだ。
それがガベイラの自信過剰でもなんでもないことは皓月にはよくわかっている。
それだけの腕力と技術がガベイラにはある。
なんせ、元軍人である。
それもエリート中のエリート、特殊部隊出身だ。
皓月自身も一般人が相手であればある程度は立ち回れるが、ガベイラが相手ではたとえ万全の状態であったとしても確かに勝ち目はない。
「君が僕にかけたのは手間じゃなくて心配だよ。僕は、君を心配してるんだ。だから、それを言うなら心配かけて悪かった、だ」
言い直してもらおうか、の圧をこめてガベイラは皓月を半眼で見据える。
自分に向けられる善意をないものとして扱いたがるのは皓月の悪癖だ。
単純な照れやら気恥ずかしさも理由の一つではあるのだろうとわかっているもので、普段なら見逃してやることも多いガベイラだが、今回これくらいの意趣返しは許されてしかるべきだろう。
ぐぬ、と嫌そうに皓月が唸る。
それから充分な間を置いてから、皓月は渋々といった様子で「心配かけて悪かった」と小さく口にした。
「よくできました」
「僕の方が年上なの、忘れてないかい」
「そういうのは人並みに情緒を発達させてから言ってくれ」
軽口の応酬の果てに、皓月は手にしていたコップをガベイラに押しつけるとぞもぞと布団の中へと戻っていてしまった。
ガベイラに背を向けて、横向きに丸くなっている。
心配されていた、という事実を明確に認めさせられた事により、照れているのかもしれなかった。
存外に繊細な生き物である。
「その手」
「ン?」
「ちゃんと消毒するんだよ。僕が狂犬病なんぞもっていた日には君、死ぬからね」
「はいはい」
聞き流しながら、ガベイラはぼすりとベッドに腰掛ける。
もちろん消毒はとっくに済ませてある。
咬み傷が化膿しやすいのは常識だ。
皓月自身、ガベイラがすでに処置済みであることはわかっているだろう。
それでも口にしたのは照れ隠し七割、何か言い返したかった気持ち三割、というところだろうか。
「それで、この後は?」
「この時間まで動きがないなら、今日は動く気がないんだろう。僕は、もう少し寝るよ。朝には動き出すから、君もそのつもりで」
「……、君、一応今死にかけてたのわかってる?」
死ななかったからノーカン、という顔をしているが、それでも致死量の毒物を摂取したことには変わりはないのだ。
体温は低下していたし、瞳孔は散大し、呼吸は浅く、脈は早く弱まっていた。
ガベイラは側についている間、何度ともなく皓月の脈を確かめた。
顔の前に手をかざし、呼吸を確かめた。
それだけやきもきさせておきながら、本人はまるで何事もなかったかのように眠たげの滲んだ声音で明日の予定を口にする。
本当なら少なくとも二、三日は安静にしていて欲しいところだが、状況がそれを許さないのはガベイラも承知していた。
わざとらしく、もう何度目になるのかもわからない溜息をガベイラはついた。
「何か、手配しておくことは?」
「引き続きの警戒と、ベル伯爵の監視ぐらいかな。もし店のほうにベル伯爵、もしくは兄弟が現れたら手出しはせずに見張りと尾行を」
「了解。動きがあったら報告するよ」
「頼むよ。ああ、それとね」
掛け布団の下で、ごろりと皓月が寝返りを打つ。
乱れた黒髪の隙間から、鮮やかな紫がガベイラを見上げる。
「まだ他に何か?」
そ、と手をのばし、顔にかかる黒髪を指先でのけてやる。
皓月はくぅと口角を持ち上げて、悪戯ぽく笑った。
「僕に命を預ける心の準備もよろしく」
ガベイラも笑う。
獲物を前にした猟犬のような面持ちで笑って、言う。
「そんなの、とっくの昔に」
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