第9話 毒薬
翌朝、リリィは何か生き物が動く気配で目が覚めた。
傍らのぬくもりはすでになく、皓月が起きてベッドを抜け出した後なのだということに気づいてリリィももそもそと身体を起こす。
その気配に気づいたように、身だしなみを整え、いつもの黒手套で白い手の甲を覆っていた皓月がちらりと視線をベッドへと投げかける。
すでに化粧も終え、余所行きの支度が整っている。
「起こしちゃったかな。まだ眠っていて良いよ。昼にガーベラくんが様子を見に来てくれるからね。その代わり、今日は僕も早めに仕事を切り上げて戻ってくるよ」
寝乱れたふわふわの髪を、黒革に覆われた指先が優しく梳く。
心地よさにリリィが双眸を細めたところで、ちゅ、と柔らかく唇が額に触れていった。
「熱はなさそうだね。下に昨日のおじやの残りとか、ヨーグルトとか果物とか、食べやすそうなものをガーベラくんが用意してくれているから、食べられそうだったら食べるようにね」
「わかったん」
寝起きの少し掠れたリリィの声に、皓月がふ、と口元を笑ませる。
背中がくすぐったくなるようなあたたかな眼差しとともに、肩を軽くトンと押されてリリィの背中はぱふりとあっさりとふかふかとした枕に埋まる。
「もう少し、寝ると良い」
「……ひどい顔、してるん?」
返事はなかった。
にこり、と皓月が笑う。
示唆するようにするりと黒革の手套に覆われた指先に目元をなぞられて、リリィは唇をへの字にした。
夢のように綺麗な男がすでに身だしなみを整えている中、自分は寝起きのまま未だベッドの中にいるだなんて酷い話だ。
見られたくもないみっともない姿をさらしてしまっている。
もぞもぞと布団を引き上げて、埋まる。
そんなリリィの様子に皓月は楽しげに喉を鳴らして、それから行ってくるね、と言って部屋を出て行った。
足音はほとんど響かない。
静かな男だ。
ただ、しばらくすると階下の方から微かにドアを開閉する音が聞こえた。
皓月とガベイラが出かけていったのだろう。
その後ももう少しだけ布団の中でぐずぐずとしてから、リリィはようやく身体を起こしてベッドから抜け出した。
自分の部屋へと戻り、鏡を覗き込む。
「…………思ってた以上に不細工なん」
ぽつり、と呟く。
昨夜寝入り端に泣いてしまったせいだろう。
目元はうっすらと赤く腫れ、そのせいでいつもの七割程度しか開けていない。
顔を洗い、着替えを済ませようとして、ポケットの中に入れたままになっていたブローチの存在を思い出してリリィは顔をしかめた。
不細工な顔をますます不細工にしてしまった。
が、誰も見ていないので良しとしよう。
ポケットから取り出して、机の上に香水を装ったボトルと一緒に並べる。
反射めいて、手持ちの服の中からこのブローチに合わせられそうなコーディネートを脳裏に思い浮かべたものの、リリィは首を左右にしてそれらを却下した。
皓月には、何かがおかしいと気づいてもらわなければいけないのだ。
できるだけ、違和感を覚えてほしい。
なので、服装はいつも通りのリリィの趣味によるものにした。
胸元にブローチを留める。
姿見で確認してみれば、予想通り調和もへったくれもない、ブローチが悪目立ちした姿が確認できた。
思惑通りとはいえ、可愛いを武器に生きるリリィとしては大変不本意だ。
それから自室を出て、濡れタオルを用意して目元を冷やす。
ここ最近の日課であれば、ノートを開いて課題に取り組むところだ。
けれど、リリィはもう知っている。
三人で相談して、頑張って考えた学校にリリィが通うことはないだろう。
今日で皓月との生活は終わる。
もしかしたら、リリィの一生自体今日で終わるのかもしれない。
皓月やガベイラはリリィのしたことが露見してもきっと命までは取らないだろう。
警察には言うだろうか。
言うかもしれない。
皓月はカジノオーナーというグレーゾーンに身を置いているわりにーー…否、そういったグレーゾーンに身を置いているからこそ、法律を尊重している節がある。
リリィはまだ未成年だが、殺人未遂で捕まった場合どうなるのだろう。
その場合、リリィの家族はどうなるのだろう。
「…………」
深く、息を吐く。
この先のことを考えるのは怖い。
自分や家族がどうなるのかを考えるのは、とても恐ろしい。
だがそれでも、皓月を、ベル家とは関係のない人間を傷つけるつもりはなかった。
それだけが、リリィにわかっていることだ。
皓月を傷つけるわけにはいかない。
傷つけないために、気づいてもらえるように、リリィは今宵皓月に毒を盛る。
■□■
夕方、皓月は宣言どおりいつもよりもずっと早い時間に戻ってきた。
玄関先まで迎えに出たリリィに、皓月が柔らかに双眸を細める。
「もう具合は大丈夫なの?」
「平気なん」
「夕飯は食べられそう?」
横から問いかけてくるガベイラにも頷く。
「それじゃあ僕、何か適当に手配しちゃうね。姫はまだ本調子じゃないだろうし、食べやすいものがいいかな」
どこかに食事を注文するつもりなのだろう。
端末を片手に玄関先に残ったガベイラを横目に、リリィと皓月はリビングへと向かう。
皓月は夕食の支度が整うまで、リビングに腰を落ち着けることにしたらしかった。
見れば、普段は手ぶらで帰ってくる男が片手に書類のファイルを抱えている。
おそらく、本来ならば店で済ませる仕事をリリィのために持ち帰ってきてくれたのだろう。
皓月は長椅子にゆたりと腰掛け、取り出した書類に目を通し始める。
絶好のタイミングだと思った。
毒を盛るならきっと今だ。
寝る前の寝室で、唐突に飲み物を差し入れるよりもよほど自然に違いない。
もちろん皓月には毒が盛られていることに気づいてもらわなければならないので出来るだけ不自然な、違和感が残るようなシチュエーションであることが理想ではあるのだが、淹れる前に阻止されてしまうわけにはいかないのだ。
そうでなければ、「皓月の飲み物に小瓶の中身を入れろ」という父親からの指示を果たしたことにはならない。
ポケットを、布地の上からそろりと撫でる。
スカートの生地越しに、こつりと硬い感触。
香水の小瓶がきちんとそこにあるのを確かめてから、リリィはさりげなさを装って口を開いた。
「姫、紅茶でも淹れるん」
そう言って、キッチンへと向かう。
お湯を少な目に沸かして、茶葉を多めにざかざかと入れる。
本当なら美味しい紅茶を淹れるためにはしっかりとした手順があるし、湯に対しての茶葉の割合なども決まっているのだが、今回は無視してしまっても構わないだろう。
今からリリィが淹れる紅茶は、どうせ皓月の口には入らない。
ティーカップに、濃ゆめに煮だした紅茶を浅く注ぎ、それからポケットから取り出した香水瓶の中身を全部ぶちこんだ。
出し惜しみはしない。
茶葉本来の香りをかき消すように、濃い花の香りが周囲に漂う。
これならば、皓月も気づくだろう。
残った分を自分のカップに注いで、リビングへと戻る。
こちらにも、口をつける気はなかった。
リビングのローテーブルに先に自分の分のカップを置いて、それから長椅子の皓月へとしずしずと距離を削る。
「僕の分も淹れてくれたの?」
こくり、と頷く。
油断すると指先が震えてしまいそうだった。
一度書類から目を離した皓月がありがとうと穏やかな声音で言って、リリィからティーカップを受け取る。
香りを楽しむように、皓月がティーカップに鼻先を寄せる。
「ッ……」
そんな所作にすら、思わず息が詰まった。
まだカップに口を付けたわけでもないというのに、その身に害をなす毒物が口元近くに寄せられたというだけで飲まないで、と叫び出してしまいそうになる。
全身の血の気が引いて、くらくらと足元が揺れているようだった。
こめかみのあたりで心臓がガンガンとうるさく鳴っている。
もう、良いのだろうか。
飲まないで、と止めても良いのだろうか。
父親からの指示である「皓月の飲み物に香水瓶の中身を注ぐ」という指示はもう果たしたはずだ。
だから。
だから。
リリィがわななく唇を開こうとするのと、皓月が視線を擡げたのはほぼ同時だった。
紫闇の双眸が、ひたりとリリィを見る。
デビュタントの夜を思い出さずにはいられない眼差しだった。
底知れぬ、思惑の読めないうつくしい瞳。
明かりを受けて、鮮やかな赤みを帯びてちかりと瞬く。
そんな眼差しに見据えられて、吐き出しかけた言葉は喉の奥にびたりと貼りついてしまったかのようだった。
「良い香りだね、姫」
明らかにリリィの挙動は不審だろうに、そんなリリィを見つめ返す紫闇の瞳も、その声音も、いつもと何ら変わらない穏やかさばかりを帯びている。
何も言えず、胸のあたりで手を握って固まってしまっているリリィに向けて柔らかに双眸を細めて、皓月は日常の続きの一幕であるように言葉を続ける。
「花に似た濃い香り……、うん。紅茶に入れたのは良い選択だね。ハーブティーだって言われたらきっと信じるんじゃないかな。ただ、タイミングはもうちょっと選んだ方が良い。だって、ここは僕の家だからね。家主である僕が把握していない茶葉があるのは少しばかり不自然だ」
まるで、リリィに課題にあった間違いを指摘するような口ぶりだった。
ああよかった、とリリィは思った。
皓月は、ちゃんと気づいてくれた。
リリィは、皓月を傷つけずに済んだ。
安堵に、リリィは深々と喉奥に詰めていた息を吐き出す。
その場にへたり込んで、皓月の沙汰を待ちたい気持ちでいっぱいいっぱいだ。
ただ、少しだけ、皓月の顔を見るのは怖いと思った。
侮蔑や呆れ、そういった色が皓月の双眸に浮かんでいるのはあまり見たくないと思ってしまったのだ。
それに値するだけのことをしてしまったのだということは、よくよくわかってもいたのだけれども。
だから、反応が遅れた。
「ところで、見慣れないブローチをしているね」
趣味、変わった?
雑談の調子で軽やかに問いかけながら、俯いてつま先を見つめるリリィの視界の端で。
皓月が毒で満ちた紅茶のカップを優雅に傾けて、こくりと一口飲み下した。
「――ッ!?」
見間違いだろう、と思った。
思いたかった。
だが、顔を上げた先で皓月は柔く笑みの形に双眸を撓める。
リリィの注意を引いたことに、満足する獣のような面持ちだ。
「ああ、香りが強いのはあたたかな紅茶に入れたからかと思っていたけれど、量もそれなりに入れたのかな。紅茶は色をつける程度? ここまでくると茶葉の味が薄いし、舌先にひりつくような独特の甘味があるから、紅茶だと偽って一口以上飲ませるのはちょっと難しいかもしれないね。花のジャムなんかを入れると、誤魔化せるかもしれないよ」
滔々と語って、語って、語って。
皓月は艶やかににこりと微笑んだ。
「とはいえ、僕は大抵の毒物には耐性があるからね」
ふう。
ふう。
皓月が紅茶に息をふきかけるたびに、ふわりとリビングに甘い花の香りが広がる。
本来ならば人の命を狩るための毒の香だ。
茫然と目を瞠り、立ち尽くすことしか出来ないリリィの目の前で、皓月はぐぅと喉を反らして綺麗にティーカップの中身を飲み干した。
「――ごちそうさま」
皓月は空になった中身を見せつけるように傾けてから、ティーカップをローテーブルに戻して代わりのようにリリィへと手を差し出す。
「そのブローチ、渡してくれる?」
いつの間にか、指先の震えは消えていた。
安堵したからだ。
皓月は無事だ。
皓月に毒はきかない。
リリィや、リリィの父親の裏にいる何者かの意図など、こうしていともあっさりとねじ伏せてくれる。
ブローチを外して、皓月へと差し出す。
「あとその紅茶も。構わない?」
テーブルの上に置きっぱなしになっていたリリィの紅茶のカップを寄越すようにと言われて、リリィはそれもまた皓月へと手渡す。
「どこの誰が裏で糸を引いているのかおおよそ見当はついているけどね、素敵な贈り物をありがとう。せいぜい利用させていただくから、覚悟しておくことだ」
その言葉はリリィへ、というよりも、ブローチの向こうで聞く者へと向けられた警告であり脅しだった。
いつもより低めに抑えられた声音には、決して荒げられたわけでもないのにゾッとするような凄みが潜んでいる。
直接その言葉を向けられたわけでもないリリィの背筋がその圧に凍えるほどだ。
言うべきことは言ったとばかりに、皓月はぽちゃりとブローチを紅茶のカップに落とす。
派手なリボンが紅茶を吸って重たく沈み、石がひたりと沈む。
その刹那、小さくばちりと何か回路が爆ぜるような音がした。
それを見届け、たっぷりと充分な間を置いてからーー…皓月が深く、深く、息を吐く。
よろりと揺れた背が、ソファの背もたれに預けられる。
傍目には、一仕事終えて脱力しただけの所作にも見えるだろう。
けれど、皓月は普段であればそんな隙をリリィには見せない。
ふつ、と。
その額に汗が浮き始めていることに気づくのと同時に、リリィは悲鳴のような声音でガベイラを呼んでいた。
「ガベイラ!!」
すぐさまに、リリィの声に応じるようにガベイラの長躯がリビングに飛び込んでくる。
明るい碧の双眸がソファの皓月へと流れて、く、と眉間に深く皺が刻まれた。
皓月の元に掛けより、そのソファの足下に膝を着く。
「何があったの」
鋭くそう問いながらも、ガベイラの視線は状況証拠から情報を探るべく、立ち尽くしているリリィと、テーブルの上に乗った空のティーカップと、それとは対照的になみなみと紅茶をたたえつつもその底にブローチを沈めたティーカップを一瞥している。
皓月は、ふうと息を吐きながら億劫そうにガベイラを見る。
どこか悪戯がばれた直後のようなバツの悪さだけがその双眸には滲んでいる。
「植物系の神経毒、ティーカップ一杯分飲み干した」
「なんで!?」
あまりに尤もな問いだった。
リリィだって、聞きたい。
どうして、飲んだのか。
飲み干して、しまったのか。
皓月は見事に看破して、それが毒物であるとわかっていたはずなのに。
「……諸事情」
「馬鹿なの!?」
ガベイラ、渾身のツッコミだった。
が、皓月は堪えない。
「……僕のカップと、そっちのブローチの残骸、そのまま保全しといてくれる? ブローチの石の部分に、マイクとカメラが仕込んであるはずだから。あとできちんと調べる……、ああ、それと姫の実家に人をやって、全員の無事の確認を急いで。……うっぷ」
「もう何も言わないで。そんなことより先にすぐに吐かせる」
「自分で」
「僕がやる」
ぴしゃりと主張を遮られて、皓月の視線がうろりと揺れる。
助けを求めるような視線が一度はリリィにも送られるものの、ガベイラに引くつもりがないことがその強い色を浮かべた眼差しからも察せられたのだろう。
頷く代わりに伏せられた双眸に、それを許可ととってガベイラの腕があっさりと皓月をソファから抱き上げた。
だらりと脱力した腕が垂れ下がる。
観念したように双眸を閉ざした横顔は酷く青ざめ、額にはふつふつと汗の玉が浮き始めている。
何も、大丈夫ではなかった。
リリィの盛った毒は、確かに今皓月を蝕んでいる。
苦しめている。
「…………」
どうして、と叫び出したかった。
毒であることはわかっていたはずなのだ。
それを皓月は、自分には耐性があるのだと笑って飲み干した。
どうして、そんなことをしたのか。
足早に二階へと向かいかけたガベイラが、ひたりと足を止めて立ち尽くすリリィを振り返る。
「君は部屋に戻っておとなしくしてて」
それだけだった。
ただそれだけを短く告げて、ガベイラがすぐに身を翻して二階へと向かって行ってしまった。
後には、リリィだけが取り残される。
「どう、して」
途中までは上手くいっていたはずだった。
皓月はちゃんと見抜いてくれた。
リリィが用意した紅茶に毒が入っていることを見通していた。
おそらく、あの口ぶりからするとおそらく種類も予想がついていたようだった。
それなのに、皓月はそれを飲み干した。
飲み干して、しまった。
そして、今リリィは一人ぽつんと蚊帳の外に立ち尽くしている。
このまま、皓月に何かあったら、リリィはどうしたら良いのだろう。
皓月を傷つけるつもりなんて、なかったのだ。
苦しめたかったわけじゃなかった。
それを回避するための方法を必死に考えたつもりだった。
ふらりふらりと雲を踏みしめるかのような足取りで、リリィは自分も二階へと向かって歩き始める。
どうして。
どうして。
どうして。
そんな疑問ばかりが頭の中でこだまする。
皓月の命を奪ってしまうかもしれないという恐怖が、今更のように足下を竦ませる。
まるで悪夢のようだった。
ここ数十分の間に行われたことが、すべて悪い夢だったらどれだけ良かったことか。
ふらり、ふらりと階段を上る。
ガベイラには部屋に戻るように言われた。
けれど、おとなしく部屋に戻るのは恐ろしかった。
ただただ何も状況がわからないままに部屋で待ち続けることがリリィには怖くて仕方がなかった。
自室があるのとは逆の、皓月の私室に向けて歩を進める。
皓月の無事を、一目確認したかった。
大丈夫だと、思いたかった。
皓月の書斎の扉は開いたままだった。
その隙間をすり抜けるようにして書斎へと足を踏み入れる。
同じく開きっぱなしになっている寝室の扉の向こうから、ザアアアアア、と水を使う音が響いている。
引き寄せられるように、リリィは衝立で遮られた浴室へと向かう。
うっすらと湯気が、これもまた開けたままの扉から漏れている。
開け放たれたまま放り出されていたドアが、ガベイラの余裕のなさの証めいていてリリィの不安をかき立てる。
うっすらと不吉な花の香りを籠もらせた湯気の向こうに、皓月とガベイラはいた。
ガベイラはジャケットだけ脱いではいるものの、ガベイラのシャツも、皓月の装束もぐっしょりと湯気に濡れそぼって重たげに色を変えている。
皓月は洗い場に膝をつき、ぐったりと上身を浴槽の縁にひっかけるように項垂れているようだった。
ともすればだらりと二つ折りに崩れてしまいそうなその身体を支えているのは、背後から覆い被さっているガベイラだ。
苦しげに胸を喘がせる皓月の顎を右手で支え、もう片手にはプラスチック製のコップが握られている。
シャワーから流れっぱなしになっている湯をコップに溜めて、ガベイラがぐいと皓月の口元に押しつける。
「ほら、水飲んで」
「……、もう、」
「自業自得でしょ、はい、口あけて。飲めないっていうなら漏斗で流し込むよ」
その声は脅しですらなかった。
淡々とした有言実行の宣言だ。
それがわかっているのか、皓月はのろりと恨めしげな視線を背後に向けて、それから諦めたようにおとなしくコップの縁に唇を寄せる。
皓月が水を飲み干す速度にあわせてゆっくりとコップを傾けてやり、ガベイラは皓月がコップの中身を完全に干したのを確認すると今度は顎を支えていた右手の中指で皓月の唇を割った。
嫌がるように皓月が顔を背けようとするものの、背後からしっかりと抑えこまれていることもあって逃げ場はどこにもない。
「吐いて」
えぐ、ぐぷ、と呻くような音とともに、無骨な指先を無理矢理喉奥まで突っ込まれて皓月の背が痙攣めいて震える。
やがて、げぽりと吐き出されたのはほとんどが透明な水のようだった。
ぜいぜいと痛々しい喘鳴がリリィの元にもで届く。
だというのに、ガベイラに容赦はなかった。
またすぐにコップに湯を汲み、皓月の口元に突きつける。
「飲んで」
一切の反抗を許さない声だ。
静かに、淡々とガベイラはその拷問めいた作業を繰り返す。
飲ませて、吐かせる。
そのワンセットを延々と繰り返して、ようやくガベイラがシャワーを止めたのは浴室にうっすらと立ちこめていた淡い花の香りが完全に消えた頃のことだった。
その頃にはもう皓月はぐったりと瞼を伏せて、ガベイラの声にもほとんど反応を返さなくなっている。
これ以上吐かされるのを避けるための死んだフリ、というわけではなく、体力を消耗しきって本当に意識が半ば落ちているようだった。
ガベイラの方も無傷というわけではなく、皓月の口に押し込んでいた指の付け根には、歯で浅く切ったのかうっすらと血が滲んでいる。
ぐにゃりと力の抜けた皓月の濡れそぼった身体を幾重にもタオルでぐるぐると巻いて、ガベイラはベッドへと運び込む。
そして寝台の上でその梱包を解き、濡れた服を脱がせてやろうとして……、ようやく思い出したようにリリィへと視線を向けた。
「……何か、用かな」
その声にも、顔にも、いつものような人懐こさはなかった。
眉間には深く皺が刻まれたままで、声音は鋭く尖っている。
言外に威圧するような響きに竦みそうになりながらも、リリィはおずおずと問う。
「……こうげつは、だいじょうぶ、なん……?」
「大丈夫じゃないよ」
ぴしゃりと吐き捨てるように否定されて、びくりと肩が震える。
ガベイラは、リリィよりもずっとずっと大きくて強い大人の男だ。
それでも日頃恐怖心を抱かずにいられたのは、それだけガベイラがリリィを怖がらせないようにと気遣ってくれていたからなのだということを思い知る。
余裕のないガベイラは、こんなにも怖い。
顔色を悪くして怯えた色を隠せないリリィに、ガベイラは気まずそうに視線を一度そらして、それから深々と息を吐いた。
「…………ごめん。僕も今、あまり余裕がなくて。皓月は……、まあ、うん。大丈夫ではないけど、死ぬほどじゃないよ。本人も言ってたと思うけど、ある程度は耐性もあるから。二、三日寝込めば回復するんじゃないかな」
命を落とす危険性はないと知って、少しだけ安堵する。
そんなリリィに、ガベイラは意図的に柔らかくしたのであろう声音で言葉を続けた。
「皓月こと、心配なのはわかるんだけど……悪いけど、今は君は部屋に戻っていてくれるかな。皓月、君がいると見栄張って無理しちゃうから」
「……わかったん」
ガベイラが最大限リリィに気を遣ってくれているのが充分に伝わってきて、リリィはおとなしくこくりと頷いた。
ガベイラが皓月を脱がせようとしかけたところで改めてリリィに意識を向けたのは、皓月がこれまでそれを避け続けていることを知っているからだろう。
皓月はいつだってきっちりと首元まで隠れるような服を好む。
リリィと眠るようになってからもそれは変わらなかった。
人に肌を見せることを厭うのだ。
外に出向く際の黒手套も、それに類するものだと言えるだろう。
だから、リリィがここにいる限りガベイラは皓月を着替えさせてやれないのだ。
それがわかったから、リリィはとぼとぼと皓月の部屋を後にする。
寝室の扉を締めて、書斎の扉を締めて、自室へと戻る。
一人きりの自室はしんと静まりかえっていた。
思えば、この家にきてから一人で迎える夜はこれが初めてだ。
心細さに、思い出したように押し殺した嗚咽が零れ落ちた。
二、三日寝込めば回復するだろうとガベイラは言っていたけれど、それでも真っ青な顔色で濡れそぼってベッドに横たわる皓月の姿がどうしたって眼裏からは離れない。
このまま、皓月が死んでしまったら。
そんな恐怖が頭から離れてはくれない。
もしも神様がいるのなら、皓月を助けてほしかった。
罰を受けるべきなのはリリィであり、皓月ではない。
どうか。
どうか神様。
そう、祈り続ける静かな夜だ。
どこからも、音は聞こえない。
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