第8話 リリィの決断
「おっと、いけない」
ふと、ガベイラがそんな風に何気なく口を開いたのはいつものように昼食後にリリィを自宅まで送り届けた際のことだった。
恒例のセキュリティチェックも終わって、後はリリィが玄関のロックを確認するだけ、というタイミングでのことだ。
「ベル家から君宛に荷物が届いてたんだった。危ない危ない、渡すの忘れるところだった」
一度車に戻ったガベイラが、助手席に置いていた小箱を手に取って戻ってくる。
「この家、住所公開してなくって。皓月宛の荷物って全部店に届くように手配してるんだよ。それでベル伯爵が君宛に送った荷物も一度店の方に届いちゃってて」
「なるほど。ありがとなん」
渡された小包を受け取る。
一抱えほどの段ボールの箱だ。
重さはそれほどでもない。
振ってみると、中からはコトコトと微かに物が揺れる音がした。
「何か実家から送られてくる予定あった?」
「なかった……と、思うん」
「もしあれだったら僕の方で中を改めても良いけど」
「大丈夫なん……、お父様の字なん」
小包の表に書かれている住所や、リリィの名前を書き作る書体には見覚えがある。
間違いなくリリィの父親であるベル伯爵のものだ。
日頃から忙しくしているガベイラの手をそれ以上煩わせるのも避けたくて、リリィはガベイラの申し出を断る。
それからリリィは皓月の元へと戻るガベイラの背を窓越しに見送って、自室へと戻った。
最近では一人で家にいる時間のほとんどをリリィは自宅学習に当てている。
皓月が手続きを進めてくれたおかげで、転入予定の学校からたくさんの自宅学習用の教材が送られてきているのだ。
これまで実家にいた間も、真面目に家庭教師の出す宿題に取り組んで勉強してきたおかげで、学校のレベルとリリィの学力の間にそれほど大きな乖離はなかった。
しっかり自宅学習に取り組めば、次の学期が始まるタイミングでスムーズに転入することが出来るだろうとリリィの受けた試験の結果を見た教師陣からは太鼓判を押されている。
学校に戻ることが出来る、というのはリリィにとって大きな楽しみだった。
机の上に広げられていたノートや課題をたたんで隅に寄せ、父親から送られてきた箱を載せる。
カッターを丁寧に滑らせて箱を開く。
「……?」
一瞬何か、箱の内側で赤い光がきらめいたような気がしてリリィは瞬く。
何だろう。
箱の中から内容物を取り出す。
中に入っていたのは、可愛いではあるのだろうがリリィの趣味ではない大ぶりなブローチが一つと、香水の小瓶が一つだった。
父親からの贈り物だろうか。
珍しいな、と思う。
リリィが実家にいた頃でも、こういった形で父親からファッションに関係するものを渡される機会は少なかった。
デビュタントの夜のような、ベル家の娘として人目に触れるようなことがある際には父親が主体となってリリィの身に纏うものを決めるというようなこともあったが、基本的にはリリィがこれが欲しいとねだったものをねだられるままに用意する、というのが父親のスタンスだった。
ブローチはハート型にカットされた大ぶりの輝石ーーおそらくは硝子を加工して宝石風にしたイミテーションだーーがリボンの中心に嵌め込まれているという大変使いどころが難しそうなものだった。
一般的には「可愛い」デザインには含まれるのだろうが、リリィの趣味ではない。
「可愛い」は奥深いのだ。
一言に「可愛い」と言っても、その系統は無数に枝分かれしているし、「可愛い」を極めんとしているリリィにしたって、「可愛い」ジャンルのものであれば何でも似合うというわけではない。
調和が大事なのだ。
今度父親に逢う際にはきっとこのブローチをつけなくてはいけないのだろうが、このブローチに合わせられるようなファッションが手持ちのストックの中から果たして作れるだろうかなどと吟味しながらリリィは香水のボトルを手に取る。
こちらは至って普通の香水のボトルだ。
薄く中身が透けた小さな色硝子の小瓶の中に液体が揺れている。
ラベルは花のイラストがあしらわれただけのシンプルさで、メーカーや香りの名前らしきものは書かれてはいなかった。
どんな香りがするのかわからないものを噴いてみる気にはなれなくて、かぽりと蓋を開けてみる。
ふわりと鼻先を掠めていったのは、華やかな花の香りだった。
花の香りだと意識させる程度には甘さを帯びているもののしつこくはなく、どちらかというとあっけないほどにスッと残り香が消えていく。
良い香りではあるものの、香水として身に纏うのには不向きなあっさりさだ。
噴いたひととき、その瞬間しか香らないのではないだろうか。
ブローチにしろ香水にしろ、なんだか違和感がある。
リリィは首を傾げながら、最後に同封されていた手紙を手に取った。
一枚目には父親たちの近況が書かれていた。
どうやら皆恙なく暮らしているらしい。
そして二枚目に入る手前、一枚目の最後に、ここから先は一人で読んで欲しいと書かれていることにリリィは眉根を寄せる。
皓月やガベイラには間違っても見られたくない内容なのだろう。
どうにかして今以上に皓月から援助を引き出せないか、という金の無心の類いだろうかと思いながらリリィはぺらりと一枚目を後ろに送って、そのままの姿勢で硬直した。
『ここからが本題だよ、私の可愛いお姫様。
どうか、ここから先は一人で読んでほしい。
いいね?
ようやくお前をうちに呼び戻してやることが出来るよ。
お前はうちに帰ることが出来るんだ。
同封した香水瓶に入っている液体を、お前の夫の飲み物に混ぜなさい。
それだけで良いんだ。
それだけで、すべてが上手くいく。
お前は何も心配する必要などないからね。
飲み物に混ぜるだけで良い。
一緒に入っているブローチは通信機になっている。
光を感知して自動でスイッチが入るようになっているからね、事が済む頃にはパパがすぐに駆けつけるからお前は何も心配しなくても良いんだ。
すぐにパパがお前を助けにいけるように、ブローチは肌身離さず持ち歩くようにするんだよ。
わかったかい?
パパの可愛いお姫様、パパを助けると思ってどうか言うとおりにしておくれ。
お前がパパの言うとおりにしてくれないと、パパはとても困ったことになってしまう。
もしかしたら、殺されてしまうかもしれない。
パパだけじゃないよ。
ママや、お前の弟、小さなサイラスも無事では済まないかもしれない。
パパたちを助けておくれ。
お前だけが、ベル家を救うことができるんだ。
助けておくれ、パパの可愛いお姫様。
わかったね?
この手紙は読み終わったらすぐに燃やしてしまうんだよ。
お前を迎えに行くのが楽しみだよ』
読み進めるにつれて、ザッと全身血の気の引く音が聞こえたような気がした。
箱をあけた際に、ちかりと何か光が瞬いたように見えたのはリリィの勘違いではなかったのだ。
あの瞬間、ブローチが通信機としての役割を果たすべく起動したのだろう。
今この時も、ブローチの向こうからリリィの様子を伺っているものがいるのかもしれない。
そう思うとあまりの薄気味悪さにブローチを叩き壊してしまいたいような衝動にかられるものの、そういうわけにもいかない。
父親の言葉が正しいのならば、ベル家の人間が人質になっている。
リリィが何かおかしなことをしたとたんに、家族が害される可能性があるのだ。
震える手で手紙を畳む。
皓月の飲み物に混ぜるだけで良い、などと目的をぼかしてはいるものの、間違いなく目的は皓月の毒殺だろう。
直接皓月を殺せなどと書けばリリィがことの大きさに怯えて動けなくなるかもしれないことを考えて、あえて目的は伏せたままやるべきことだけを書いて寄越したのだ。
「…………」
かぼそく、息を吐き出す。
正直、心当たりはあった。
思えば父親は、最初からリリィが皓月を殺すことを期待していた節がある。
何か意に沿わぬことを無理強いされたのなら、と家を出る際に持たされた短剣がその証拠だ。
娘の身を案じて、というもの以上の意味合いがあの短剣にはこめられていた。
結局皓月がリリィに対してそういった性的な接触を一切無理強いしてこなかったことから、あの短剣は使われないままに終わった。
むしろ、あの短剣以上に殺傷力の高い武器を与えられたわけだが、やはりそれが使われるような機会には今のところ一度も恵まれていない。
だが、そのときにもリリィはちらりと思ったのだ。
例え初夜に皓月がリリィに手を出したとして。
仮にリリィがあの短剣を使うようなことになったとして。
果たしてそれはベル家に何をもたらすだろう。
リリィは14歳で、戸籍上は皓月とは未だ無関係だ。
皓月は法律上では夫ではないのだ。
だから、例え皓月が死んだとしてもベル家に皓月の財が齎されることはない。
それならば父親の後ろに第三者がいると考えた方が自然だ。
皓月が消えることで利益を得る人間が父親の背後で糸を引いていて、父親は皓月を消すことでその人物から何かしらの報酬を受けることになっているのではないだろうか。
もしくは、脅されている。
そう考えた方が自然だった。
皓月もガベイラもリリィに直接語ることはなかったが、きっと皓月には敵が多いのだろうということはこの数週間の共同生活の中でリリィも十分感じ取っていた。
ガベイラは常に皓月の身の安全に気を配っているし、自宅の警備も念入りだ。
皓月自身も、いともあっさりとリリィを懐に抱え込んだように見えてあれでなかなか警戒心の強い男だ。
ともに過ごすようになってしばらく経つが、リリィは皓月がガベイラ以外の人間を側に置いているところを見たことがない。
ガベイラの警備を突破して正面から皓月に危害を加えるのは難しいだろう。
だから、リリィだ。
皓月とガベイラの懐に潜り込んだリリィであれば、効果的な一手が打てる。
「…………どう、しよう」
ぽつりと呟く。
呟いてから、はっとして口元に手をやる。
通信機がどれくらいの精度を誇るのかはわからないが、音も聞かれている可能性があることを考えると下手なことは言えない。
手紙を小さく、小さく畳んで、引き出しの奥に隠す。
読み終わったら焼くように、との指示があったものの、キッチンに火を使った痕跡などが残っていればきっとすぐにガベイラには気づかれるだろう。
ひとまずは人目につかないように隠すことしかできない。
普段通りを装わなければ、と机の上に課題やノートを広げる。
けれど、何一つとして頭には入ってこなかった。
皓月を、殺したくはない。
優しくしてくれた人に危害を加えるつもりなどない。
だが、言われた通りにしなければ家族に危害が及ぶ。
リリィの肩に三人分の命が乗っているのだと思えば、その重みに潰されてしまいそうだった。
■□■
こんこん、とドアが鳴った。
「姫、開けるよ」
外から声がして、ドアが開けられる。
廊下に立っていたのはガベイラだった。
薄暗い室内にガベイラは眉を寄せつつ、椅子に座ったままのリリィの元へとやってくるとぱちりと明かりをつけた。
ぱッと明るくなった部屋の中で、リリィはぼんやりとまぶしげに瞬く。
「連絡しても返事がないし、声かけても無反応だからちょっと心配したよ。明かりもつけてないし……どうしたの、大丈夫?」
言われて、リリィは机の上に置いてあった端末へと視線を向けた。
チカチカとメッセージがあることを知らせるように瞬くライトに、ぱちりと一度瞬いてからのろのろと口を開く。
「気づかなかったん……」
「みたいだね。よほど宿題に熱中してた? まだ転入までは時間があるんだし、あんまり根は詰めすぎないようにね」
こくん、と頷く。
ガベイラの連絡や、玄関の出入りの音だけでなく、いつの間にか日が暮れて部屋が暗くなっていたことにすらリリィは気づいてはいなかった。
それだけ、頭の中が父親の手紙のことでいっぱいいっぱいだったのだ。
「顔色が良くないね。実家で何かあった?」
どきりと心臓が跳ねる。
「なんにもないん」
平坦な声音で答える。
こういう時だけ、自分のあまり動かない表情筋に感謝したくなる。
いつも通りを、ちゃんと装えていただろうか。
「それなら良かった。ちょっと失礼」
断ってから、ガベイラの手が伸びてきてリリィの額に触れる。
「熱はなさそうだけど……食欲はある?」
ふるふると首を横に振る。
腹の中にずどんと重苦しい塊が居座ってしまっていて、何も食べられる気がしない。
何よりも、今から傷つけなくてはならない人々を前に談笑し、食事をとる気になどなれなかった。
「たぶん……疲れだと思うん」
「そっか、最近いろいろ環境が変わったもんね。お父さんからのお手紙で安心して疲れが出てきちゃったかな。ちょっと待ってね、皓月に連絡するから」
ガベイラは優しくくしゃりとリリィの頭を一度撫でてから部屋から出て行く。
店で待っている皓月へと連絡してくれるのだろう。
廊下から何事か話す声がして、ガベイラはすぐにリリィの元へと戻ってきた。
「皓月もすぐに戻るって言ってたから、姫は着替えて休んでてね。皓月迎えに行くついでに何か食べやすそうなものを見繕ってくるから。何か食べたいものはある?」
「……思いつかないん」
「甘いものとしょっぱいものならどっちがいい?」
「しょっぱい方……?」
「それならおじやにしようか。それじゃあ僕はちょっと皓月拾って買い物済ませてから戻るから、姫は着替えてお布団に入ってなね」
こっくり頷いたリリィに、良い子、と褒めるようにガベイラがその頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。
暖かくて大きな掌だ。
リリィは、皓月だけでなくガベイラのことも好きだ。
とても良い人だと思っている。
雇い主の許嫁、というだけの関係でしかないはずのリリィに対しても、今のように細やかに気を遣ってくれているし、とても優しくしてくれている。
そんなガベイラの職務は多岐にわたるものの、本業は皓月の護衛だ。
皓月の身を安全に護ることがガベイラの役割だ。
そしてリリィは、ガベイラが職務以上の意味合いをもって皓月に接していることをよく知っている。
そうでなければ、食事やら何やらにまで干渉したりはしないだろう。
ガベイラにとって皓月は雇い主以上の意味を持つ存在なのだ。
その皓月を害する行為を、きっとガベイラは許さないだろう。
リリィのことだけなら良い。
リリィを憎み、許さないだけなら、それは当然の罰だ。
だがきっとガベイラは、皓月に危害を加えられることを許してしまった自分自身のことをきっと誰よりも許さないだろう。
リリィがしようとしていることは、リリィがしなくてはならないことは、皓月だけでなく、今も気遣わしげにリリィのことを心配してくれている優しい男までをとことん傷つけることになる。
「……ごめんなさい」
「ん? 何が?」
「迷惑かけるん」
「そんなこと気にしないの」
ぺちりと軽く小突くようにガベイラの大きな掌がリリィの頭を撫でる。
酷く優しくて、愛情のこもった仕草だ。
そんな手の持ち主を傷つけることを考えるだけで、きりきりと胸が痛んだ。
「ちゃんとお布団に入ってなね」
そう言い残して、ガベイラが部屋を出て行く。
足音が少しずつ遠ざかって、やがて玄関が開閉される音がする。
言われたままに着替えを済ませて、とぼとぼと布団に潜り込んだ。
肌身離さず持つようにと言われたブローチはパジャマのポケットに忍ばせる。
嫌だ、と思っているのに、冷静にポケットのある、なるべく不自然に見えないパジャマを選んで身につけてしまった自分の計算高さに嫌気がさす。
目を閉じて、次に目を開けたら全てが夢だったのなら良いと思った。
いっそのこと、実家で目が覚めたって良い。
皓月と出会ったところから、全てが夢だった方がまだいくらかマシだった。
そんなことを思いながらリリィは強く強く、目の裏で星がチカチカと瞬くほどに目を閉じるものの、そんなのは所詮現実逃避に過ぎない。
時が巻き戻ることもなければ、全てが夢に変わるようなこともなく、しばらくすると階下から物音がして、やがて静かに扉がコンコン、とノックされた。
「僕だけど。入っても良いかい?」
皓月だ。
「平気なん」
リリィがぽしょぽしょと布団の中から応えるのを待ってから、皓月が部屋に入ってくる。
布団の中で丸くなり、ドアに背を向けているリリィの様子にふ、と皓月が柔く呼気で笑う気配が伝わってくる。
きしりとベッドが微かに軋んで、リリィの身体がスプリングに沈む。
皓月がベッドに腰掛けたのだ。
黒革の手袋に覆われた指先がそっとリリィの額にかかった髪をかきわけて、額に触れかけて……、ふと何かに気づいたようにつ、と引いていく。
しゅるりと衣擦れの音がして、思わずはっと視線を持ち上げたところで黒手套の中指の先を咥えた皓月と目が合った。
ず、ず、とゆっくりと手が引き抜かれていって、たらりと抜け殻のように口元に残された黒革の手套が最後にぱすりと無造作に膝の上に落とされる。
ばくりと変な風にリリィの心臓が跳ねた。
皓月は日頃、その手を覆う黒手套を滅多なことでは外そうとしない。
夜寝る前、風呂上りにようやく脱ぐといったような徹底ぶりだ。
別段リリィに触れることを厭う様子がないことから、潔癖症ではないことは知っている。
おそらく、リリィが「可愛い」を纏うように、皓月にとっては黒手套までが蓮糸楼のオーナーとしての仕事着であり、ある種の武装なのだろう。
それを、今皓月はリリィの目の前で脱いで見せた。
武装の一部を解いて、柔らかな素肌を真心とともに差し出してくれている。
それはきっと皓月なりの、許嫁である少女に対する誠意なのだろう。
その誠意が、今のリリィにはとても痛い。
改めて伸ばされた素肌の指先が、そろりとリリィの額に触れる。
少し乾いた、体温の低い指先が熱の有無を確かめていく。
「熱はないみたいだけど……、大丈夫かい?」
「……ちょっと、疲れただけだと思うん」
「そう。お医者さんは呼ばなくても大丈夫そう?」
「平気なん」
そんなやりとりの間も、皓月の手指はリリィの髪を指で梳くようにして撫で続けてくれている。
「疲れが出ちゃったかな。ああ、そういえば実家から荷物が届いてたんだって?」
こくり、と頷く。
下手に声を出すと、みっともなく泣き出してしまいそうだった。
途方にくれた子どものようにわんわんと泣いてしまえたら、どれだけ楽だっただろう。
けれど、リリィには出来ない。
ポケットの中でごつりと存在をアピールしているブローチがそれを許しやしない。
「家族と離れて寂しいだろうしね。今度の週末、ちょっとベル家に戻ってゆっくりしてくるかい?」
また、こくりと頷く。
皓月は、リリィの不調をホームシックから来るものだと思っているようだった。
実家からの荷物が届いた直後に体調を崩した、という事実だけを見ればそう考えるのが正しいのだろう。
そうこうしている間に、ガベイラがリリィのための夕食を届けてくれた。
米を出汁のきいたスープでことことと煮込んだおじやだ。
東洋の方では消化に優しく、滋養に良いとして一般的な病人食であるらしい。
ふよふよと柔らかに煮込まれて膨らんだ米に溶け込むように、薄く色づいた卵がたなびくように漂っている。
具材は卵と米だけであるように見えるのに、はむ、と口に運べば風味豊かな出汁の味わいがふわりと口の中に優しく広がった。
ちなみにリリィが甘いもの、と答えていた場合には、蜂蜜とミルクで煮たパン粥を用意するつもりだったらしい。
そっちも食べてみたかったな、とふと思って、きっともうその機会はないのだということに気づかされてリリィはやわりと目を伏せる。
きっともう、こんな優しい時間は訪れない。
どんな結末を迎えることになったとしても、リリィがこの家で彼らとともに暮らす日々が終わってしまうことだけは確かなのだ。
ゆっくりと時間をかけて、味わっておじやを食す。
その間、二人はなんだかんだ他愛もない雑談をしながらそばにいてくれた。
「それじゃあ、今晩はあったかくしてゆっくり休むんだよ」
「明日の朝も無理に起きなくていいからね」
口々にそんな風に言って、食後の皿を携えて二人が部屋を出て行こうとする。
誰に気兼ねすることなく、リリィが一人でゆっくり休めるように、との気遣いだろう。
だが、これが最後の夜かもしれないと思うと、リリィはついそんな皓月の服の端を捕まえてしまっていた。
「姫?」
訝しげに皓月が振り返る。
「…………今日は、皓月と一緒に寝たら駄目なん?」
ぱち、と皓月が驚いたように瞬く。
リリィの口からそんな言葉がでるとは思ってもみなかった、という顔だ。
それから、ゆっくりとその口元が柔らかな笑みに綻ぶ。
「かまわないよ。姫が望むなら――・・・今晩も一緒に寝ようか」
リリィがベッドから抜け出すよりも早く、ベッドサイドに戻ってきた皓月がひょいと軽々とリリィのことを抱き上げた。
どうやら、そのまま皓月の寝室まで運んでくれるつもりらしかった。
そこまでも甘やかしてくれるつもりらしい所作に、きゅうと胸が締め付けられる。
裏切ることになる相手に対して図々しいという自責と、どうせこれが最後になるのなら、という自棄のような気持ちがリリィの胸の中ではぐるぐると渦を巻いている。
皓月の腕は、リリィのそんな葛藤ごと抱きしめてしまうように暖かだ。
そうっと優しくベッドに下ろされて、お布団の中に大事そうにしまわれる。
「僕はシャワーを浴びてくるから、先に寝てしまっててかまわないからね」
そう言い置いて、皓月の姿が見えなくなる。
やがて水の音がし始めた頃に、コン、とノックが鳴った。
どうぞ、と声をかけるとドアを開けてガベイラが顔を出す。
「皓月はお風呂?」
布団の中で、リリィはこっくりと頷く。
「僕はそろそろ引き上げようと思っているんだけど、明日の朝何か欲しいものはある? 食べたいものとか」
「大丈夫なん」
「そっか。早く良くなると良いね、具合。ああ、そうそう、これ」
置いとくね、と言って寝室に足を踏み入れたガベイラが、そっとリリィの枕元においたのは皓月が見繕ってリリィへと贈ったナイフだった。
「お守り、おいとくね」
ガベイラの言葉に、ふ、と小さくリリィの唇から笑うような呼気が漏れる。
夫とのベッドに持ち込まれる鋭いナイフがお守りだなんて、おかしな話だ。
だが、確かにそれはお守りなのだ。
皓月の差し出した覚悟でもある。
何か意に沿わぬことを無理強いするようなことがあれば、そのナイフでもって反撃してもかまわない、という意思表示だ。
だからリリィは、こうして安心して皓月の寝床を訪ねることが出来ている。
それでいて、皓月とガベイラの両名には万が一リリィが悪意でもってそのナイフを凶器にしようとした際には切り抜けられるという自信と余裕も持ち合わせている。
リリィにとっての自衛の武器としては十分に意味を成しつつ、その一方で皓月を害する為の武器として使うには不十分、というのがリリィとナイフの持つ威力の位置づけだ。
ならば、今リリィの自室にあ毒物はどれくらい位置づけになるだろう。
リリィと毒の組み合わせは、彼らにとってどれくらいの警戒レベルに該当するのだろう。
「…………」
ふと、思った。
あの手紙の文面は、利用できるのではないだろうか。
手紙には繰り返し、『皓月の飲み物に混ぜるだけで良い』と書かれていた。
具体的に『確実に毒殺を成功させろ』とは言われていないのだ。
それは、リリィを怖じ気づかせないように、との思惑だろう。
いくら家族の命を助けるためだとはいえ、その為に誰か別の人間を殺さなければならないと言われれば精神的な負荷は大きい。
だが、飲み物に液体を混ぜるだけ、と言えば、問題を矮小化することが出来る。
リリィの気持ちや行動を操ろうという腹立たしい小細工だ。
だが、利用できる。
上手く利用したならば、皓月への危険度を限りなく下げることが出来る。
例えば、リリィが混ぜた毒物に皓月が気づいてくれたのなら。
リリィは指示を果たしたことになり、それでいて皓月が危険な目にあうこともない。
父親の背後にいる人間がそんな子供だましの言い分に納得するかどうかはわからないが、少なくともリリィ自身は納得できる。
言われた通りのことをしたのに家族は助からなかった。
それなら、リリィは背負っていける。
深く、深く、息を吐く。
たぶん駄目だろう、とわかっている。
今リリィがしようとしているのは、家族三人と皓月の命を天秤にかけた上での綱渡りだ。
相手にはルールを守る気があるかすらわからない、あまりに分のない賭けだ。
それでも、それがリリィにとって最上の落としどころだった。
水音がやみ、やがて皓月がドライヤーを使う音が聞こえてくる。
それが一緒に眠るリリィのためだということを知っている。
同衾するリリィを濡らしてしまわないように、冷たい思いをさせないようにと、皓月は時間をかけてきちんと髪を乾かしてからしかベッドに戻ってこない。
寝る前でなければ、濡れ髪をそのまま適当に放置して、風邪を引くだのあちこちに滴を落とすなだのとガベイラに小言を並べられているような男なのだ。
最終的に書類仕事をする皓月の背後にたってドライヤーを使う羽目になっていたガベイラの姿を思い出して、リリィはふくくと小さく笑う。
二人と過ごした日々は、幸福だった。
その幸福を、明日には自ら手放すことになるのだと思うと胸はじくじくと痛んだものの、今ならその痛みも受け入れられると思った。
何故なら、リリィはそれを自分で決めた。
自分で考えて、決めた。
リスクをわかった上で、すべてを失うかもしれないとわかっていて、それでも良いと思って自分で決めたのだ。
何を犠牲にして、何を守るのか。
流されたのではない。
自分で、決めた。
「……起きてたの」
布団の端っこを持ち上げて、するりと皓月が潜り込んでくる。
いつものように、リリィの腰を抱いてぬっくりと引き寄せられる。
暖かな懐の中で、こつりと額をその胸元に擦り寄せる。
「寒い?」
「大丈夫なん」
ぽんぽん、と大きな掌が背中を撫でてくれる。
洗い立ての石鹸の香りのする胸元に顔を伏せる。
ぽろりとこぼれた涙には気づかぬふりで、皓月はリリィが寝入るまでずっと背中を撫でていてくれた。
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