第7話 騒がしい足音


 それからの数日は、穏やかに過ぎていった。

 週末には三人で買い物にもいった。

 家具を少しずつ選んで、リリィの部屋はゆっくりとリリィの部屋らしくなっていった。

 真っ白だった壁紙は、淡くピンクがかったセピアに。

 不愛想なまでに清潔な白い書き物机は、角を丸めた濃い色の木材で作られたものに。

 少しずつ、少しずつ、入れ替わっていく。

 そんな机の上に置かれた学校のパンフレットも、あれからもう少しだけ増えた。

 最初に貰った分だけでも全然決められないのに、選択肢を増やされるとますます途方にくれてしまう。

 増やされても困るん……、と訴えてはみたものの、返されたのはにこやかな笑みだけだった。

 皓月はどうにもリリィが困っているのを見て楽しんでいる節がある。

 朝食のあと、二人が出勤するのを見送って食器を片づける。

 それから昼にガベイラが迎えにくるまで、自室で悶々とたくさんのパンフレットと見つめあう、というのが最近のリリィのルーティーンだ。

 リリィだって、ただただパンフレットを読んでいただけではない。

 どこが自分に向いているのか、どういう学校が良いのかをずっと真剣に考えている。

 皓月が手配してくれている端末でいろいろ検索だってかけてみた。

 そして、その結果ますます途方に暮れてしまっている。 


『将来の夢がお医者さんなので、そのための学校を選びました』

『将来外国で仕事をしたいと思ったので、語学に力をいれていて海外交流カリキュラムの豊富な学校を』

『家業を継ぐために必要な知識を得るために』


 進学先をどう決めたのか、というインタビューに答えるピカピカの真新しい制服に身を包んだ子どもたちは皆、何かしらの目標をもっていた。

 彼らは皆将来に目標があり、そのための学校を選んでいるのだ。

 では、リリィはどうだろう。

 リリィには、将来の夢がない。

 何かになりたいなど、考えたこともなかった。

 目標ならあった。

 富んだ男に嫁ぎ、ベル家に財を齎すことだ。

 それがリリィに与えられた役割であり、目標だった。

 その目標は今、ほとんど果たされている。

 リリィは皓月と名乗る男の許嫁として、その男の家で暮らしている。

 懸念点があるとしたら未だ法律上はまだ夫婦にはなっていない、ということだろうか。

 リリィが正式に結婚できるまでには、あと二年待たなければならない。

 二年間、皓月の許嫁という立場をリリィは何としてでも守らなければいけないのだ。

 つまり、リリィの今の目標は「皓月に好かれること」だ。

 だが、そんな目的にあった学校など存在するはずもない。

 せめて皓月が「語学に堪能な子が好き」だとか、「楽器の出来る子が好き」といったようなことを言ってくれたのならまだリリィにだって選びようがあった。

 だというのに、どんな奥さんがほしいのかといくら聞いても、皓月は例の口元だけを柔らかに笑ませた何を考えているのかわからない綺麗な顔でリリィを見つめ返すだけなのだ。

 あれは間違いなく自分で考えてごらん、の顔だった。

 しょぼりとリリィは項垂れる。

 何をしたら良いのか、何を求められているのかがわからないのは困ってしまう。

 目標のために考えて、計画をたてて、行動するのはそう苦手ではない。

 と、そこでがちゃりと玄関の開く音が聞こえた。

 時計代わりに傍らにおいていた端末を覗きこめば、少し前にガベイラからそろそろ迎えにいくよ、との連絡が入っていた。

 たすたすたす、と足音を響かせてやってきたガベイラが、リビングにでしょんぼりと肩を落としているリリィの姿に首をかしげる。


「どうしたの、浮かない顔して」

「…………学校が、選べないん」

「ああ、別に皓月は時間がかかっても良いって言ってたんだし、急いで決める必要もないんじゃない?」

「…………」


 時間があれば、決められるのだろうか。

 時間さえかければ、リリィにも正しい学校の選び方がわかるのだろうか。

 少しだけ迷って、リリィは小声で打ち明けた。


「……選び方も、わからないん」


 声にして打ち明けるのを躊躇してしまったのは、皓月に自分で考えてごらん、と言われた内容をガベイラに聞くのはなんだかズルなような気がしてしまったからだった。

 一応リリィだって、どちらがより良いのかを、ガベイラに決めてほしいと思っているわけではないのだけれども。

 どちらが何をもってより良いのかを決めるためのモノサシすらもっていないから、モノサシの見つけ方すらわからないから、リリィはこうして困り果てている。

 ガベイラの返答を視線を伏せたまま恐る恐る待っていると、ぽん、と大きな手のひらがリリィの頭の上に乗った。

 そのままもしゃもしゃと慰めるように撫でられる。


「学校の選び方がわからない、かあ」


 んー、と少し考える間をおいて、ガベイラはポンと手を打った。


「よし。それじゃあちょっとお昼は予定を変えて皓月の部屋で食べようか。三人で考えたら良い考えも浮かぶかもしれないし」

「……でも、皓月は何も言ってくれなかったん」

「それは姫が答えを聞こうとしたからじゃない? どういう風に考えたら良いのかわからない、って聞いていたなら、皓月の返事も違うと思うよ。数学なんかでいうとさ、皓月、答えを教えるのは嫌がるタチだけど、解き方を教えるのは好きなタイプだよ。パンフレットはここにあるだけ?」


 ガベイラに聞かれて、リリィは慌ててテーブルの上に広げてあったたくさんのパンフレットをかきあつめて、こくこくと頷いた。

 それじゃあ行こうかと促されて一緒に家を出る。

 そしてその足でファーストフード店によって、三人分のランチをテイクアウトしてから蓮糸楼へと向かった。


「……お昼、外に食べにいこうか、て話してなかった?」

「予定変更」


 ガベイラはあっさりとそう言う。

 皓月は部下による勝手な予定の変更にも物言いをつけるつもりはないらしく、ガベイラが腕に抱えたファーストフードの包みに切れ長の双眸をぱちくりと瞬かせつつも窓際のテーブルへとおとなしく移動した。

 ここでお茶をしたり、食事をするときの定位置だ。

 ガベイラはいつも当たり前のように皓月のデスクチェアを引き寄せて使う。

 それに対しても皓月が何かを言ったことはないし、そもそも皓月がガベイラに対して文句を言っているところをリリィは見たことがない。

 基本的に皓月はされるがままだ。

 せいぜいお小言に対して渋い顔を見せる程度である。

 それでいて、ガベイラが皓月を軽んじている風でもない。

 主従の関係と、気安い友人の関係が二人の間では当たり前のように成立している。


「適当に買ってきたから、好きなものとってね」


 そう言いながら、ガベイラは紙袋の中からとりだしたバーガーの包みをポンポンポンとテーブルの中央に並べていく。


「姫はどれにするの?」

「ハンバーグが入ってるやつなん。それが一番基本だってガベイラが教えてくれたん」

「なるほど、基本から押さえていく感じか。ハンバーガーは初めて?」

「初めてなん」


 リリィの実家、ベル家では、ファーストフードなど出てこなかった。

 当然ハンバーガーも初めてだ。

 パンの間に肉や野菜が入っている、という意味ではサンドイッチに似てはいるものの、パンの種類も違えば食べ方も異なる。

 サンドイッチは基本的に常温で食べるが、ハンバーガーは暖かいうちに食べるものであるらしい。


「僕は白身魚のやつもらおうかな」


 リリィが一つ、皓月が一つ。

 中央にはハンバーガーの包みが二個残る。

 その二つをひょいひょいとガベイラは自分の手元に移動させて、それからポテトの入っていた紙袋をばりばりと破って広げた。

 その紙の上にざらりと四人前のポテトをあけていく。

 こんもりと山になったポテトにリリィが目を丸くしている間に、さらにその横に蓋をあけたナゲットの箱を添える。


「ポテトとナゲットは適当にセルフに食べてね」


 三人で軽く手を合わせ、いただきます、と呟いてからハンバーガーの包みをぺりぺりと開いていく。

 リリィは二人の見よう見まねだ。

 包みは最後まで取り出してしまわずに、半分は残す。

 その紙に包まれた部分に手を添えて、口元に運ぶ。

 がぶり。


「!」


 二人の大胆な一口に、リリィは思わず息をのんでしまった。

 あ、と開けた大きな口が、ふかふかとした柔らかそうなバンズにずぶりとめり込んで、間に挟まった具材ごと咬みちぎっていく。

 手元のハンバーガーには、大きく食い込んだ半円状の穴がぽっかりと残されている。

 食べて、いる。

 すごく、食べている。

 これまでに何度も食卓をともにしているはずなのに、なんだか不思議とどぎまぎしてしまって、リリィは視線を揺らす。

 見てはいけないものを見ているような気がするのに、目がそらせない。

 リリィの視線の先で、皓月がまた大きく口を開く。

 本日の皓月はいつもと少し髪型を変えている。

 左に流す長めの前髪ごと緩く編んだ髪を前に流し、小粒の真珠を連ねた飾り紐で束ねた様が酷くミステリアスな印象と上品さを際立たせている。

 黙っていれば、飾り立てられたモデルのようにも見えることだろう。

 ひとが手間をかけて作り上げた、人工物めいた美だ。

 そんな男が、大口をあけてハンバーガーに齧りついている。

 ソースを滴らせたしんなりとしたレタスが手元のバンズからずるりと引き出されててろりと落ちかけるのを黒革の手套に包まれた指先がついと掬って咥内へと運んでむしゃむしゃと咀嚼されていく。

 生きている。

 どうしようもないほどに、生きている。

 生きた獣の熱量を感じる。


「姫は食べないの?」


 横からかけられたガベイラの声にハッとして、リリィは二人を真似て「ぁ」と大きく口をあける。

 はぷり。


「…………」


 悲しいかな、具に届かなかった。

 ふかふかと香ばしい小麦の風味だけが口の中に広がる。

 ごくんとそれを飲み込んでから、二度目のチャレンジだ。

 今度はかぶりついた口の中に濃い甘辛い味わいが広がっていく。

 がぶぶ、と咬みちぎろうと顎に力を入れて………、ずりゅ、と嫌な感触がハンバーガーを支える指先に紙越しに伝わった。

 具が、はみ出てしまった。

 ぼたり、と袋の端が重くなる。

 へにゃりとリリィが眉尻を下げたあたりで、耐えられなくなったように男二人がふくくくくく、と笑いだした。


「後ろの方でね、紙ごしにしっかり押さえるんだよ」

「見ててね」


 ひょいとガベイラが新しいハンバーガーの包みを手に取る。


「…………」


 新しい包み???

 見れば、ガベイラの手元には食べ終わったあとの包み紙が無造作にくしゃりと丸められて転がっている。

 皓月が二口齧り、リリィが二口齧って打ちひしがれている間に、ガベイラはすでに一つ平らげてしまったらしかった。


「こうして、包み紙を開いて……、ちょっと角度を調整してね。袋の角っちょがハンバーガーの後ろにくるようにすると、タレが洩れて手が汚れるのを防げるよ。ある程度だけどね。で、この後ろの方でぎゅってつかんで……、齧る」


 がぶり。

 大きく開かれたガベイラの口が、ハンバーガーに齧りつく。

 も、とガベイラの頬が膨らむ。

 もっもっも、と咀嚼して、ごくり。


「ね?」


 簡単でしょう? みたいに言われて、リリィは思わず神妙な顔になった。

 後半、完全にガベイラの口の大きさに気をとられてしまっていたリリィだ。

 見れば、すでにガベイラの手の中にあるハンバーガーはその体積を三分の二ほどまでに減らしている。


「三口なん……」


 どおりで、一つ目のハンバーガーがあっという間に消えたわけだった。

 ガベイラを真似て、ぎゅ、っとしっかり包み紙越しにハンバーガーを押さえる。

 それからがぶりと思い切ってハンバーガーに齧りつく。

 ぺた、と口の端にソースがつく感触に、眉尻が下がる。

 こんな食事をこれまでリリィは知らなかった。

 手や口を汚して何かを食べるなんて、どれくらいぶりだろう。

 けれど、それがこの場では許されているのだ。


「ン」


 どうぞ、と言うように正面から皓月が紙ナプキンを渡してくれるのを受け取って、口元をぬぐう。

 それからまた、一口。

 ガベイラを真似て、口いっぱいに頬張って、頬を膨らませてもっもっも、と咀嚼する。

 口の中に広がるのは、本来の肉や野菜の味を塗りつぶしてしまうほどに濃いソースの味ばかりだ。

 だがそれが不思議と美味しく感じられる。

 ハンバーガーを食べ終えたところで、リリィは手元に残った包み紙をどうしたものかと考える。

 ガベイラや皓月はくしゃくしゃと手元で丸めてしまっていたものの、リリィの包み紙の中には零れ落ちたソースがたっぷりと溜まってしまっている。


「それね、ポテトにつけると美味しいよ」

「!」


 天才の発想だと思った。

 テーブルの真ん中に盛られたポテトの山に手を伸ばし、一本手に取る。

 包み紙に溜まったソースを掬うようにして口に運ぶ。

 ハンバーガーと同じ濃い味と、塩ッけのあるポテトの味わいが口の中に広がる。

 これはこれで美味しい。

 もくもく、とポテトに手を伸ばしては口に運ぶ。

 それを繰り返している辺りで、で、と皓月が口を開いた。


「ところで、僕まだなんで今日のお昼がハンバーガーになったのか聞いてないんだけども」


 あ、とリリィとガベイラが顔を見合わせる。

 なし崩しにお昼にしてしまったが、皓月にはまだ何も話していなかったのだ。


「姫がね、皓月に相談したいことがあるんだって」


 ね、と相槌を求められてこくんと頷く。

 それじゃあ聞きましょう、という面持ちでリリィに視線を流す皓月に、リリィはぽつぽつと自分の言葉で何に悩んでいるのかを語る。

 学校の決め方がわからないということ。

 何を基準に選べばいいのか、そこから決めかねてしまっているということを。

 やはり今回もあの何を考えているのかわからない、あえかな笑みで流されてしまったどうしようかとも思っていたものの、返されたのは悩まし気に口元に手をやって首を微かに傾ける所作だった。


「ン―――……、難しいな。何を基準に学校を決めるか、か」


 どうやら真剣に、リリィの相談に乗ってくれるつもりらしかった。

 脳裏に、ガベイラの言っていた「答えを教えるのは好きじゃないけれど、解き方を教えるのは好きなタイプ」という言葉が蘇る。


「姫の相談に乗ってあげたい気持ちはあるのだけれども――…実は僕もそういった経験がなくてね。だから僕自身の経験として姫の参考になりそうな話をしてあげられそうにないんだけど、ガーベラくんはどう?」

「僕はそうだなあ。僕の学力で行ける学校の上位の中から一番フットボールの強いところを選んだよ」

「へえ、君、フットボールを?」


 にんまりと双眸を細めて面白がるように聞いた皓月に、ガベイラは何が言いたいのかはわかってるぞと言いたげな顔で肩を竦めて見せる。


「ええ、ええ。クォーターバックでしたとも」

「やっぱり」


 ふふふ、と皓月は満腹の猫のように笑った。


「テンプレで悪かったね」

「悪いとは言ってないだろう。ふふ。ふふふ。あ、痛い」


 どうやら皓月は机の下でガベイラに蹴られたらしい。

 そんな二人のやり取りは微笑ましいものの、リリィはむぅ、と悩まし気に眉間に皺を寄せた。

 ガベイラの選択は、とてもわかりやすい。

 きっとガベイラはフットボールの選手になろうとは考えてはいなかった。

 だから第一条件を学力にした。

 自分の学力で行ける範囲の学校の中からまずは学力を条件に絞り、そこに残った学力面ではほとんど差のない複数の学校の中から、さらに一つを絞るための第二条件として「フットボールが強い」という要素を追加したのだ。

 それならばリリィもそれに倣って、学力で学校を選ぶのが良いのだろうか。

 それは良い考えのように思えた。

 まず試験を受けて、自分の学力のレベルを知る。

 そして、そこから相応しい学校を探すのだ。

 ――と、思ったのに。


「姫には試験は必要ないよ」

「なん……」


 試験が受けたいん、とのリリィの希望は皓月によってあっさりと却下された。

 かぼそい鳴き声が漏れる。


「これは別に僕がズルをしたというわけでなくてね。姫は対外的には体が弱くて自宅学習を続けていた、ということになっているだろう? そういう生徒に対してはある程度便宜を図ってくれるところが多いんだよ。その代わり実際に転入する前に宿題が出されるし、しばらくは補習に参加してもらうことになったりもすると思うんだけど。……まあ、でも学力を基準にする、というのは一つの基準として良いかもしれないね。パンフレット、持ってきてる?」

「持ってきたん!」


 リリィはパンフレットの束を皓月へと差し出す。

 皓月は一度丁寧に黒手套の手を拭ってから、それらを受け取った。

 ぱら、ぱら、とめくりながらその中から数冊を抜き取っていく。


「偏差値が高いのはこのあたりの学校だね」

「二番手だとどのあたり?」

「この辺……、かな?」

「僕としてはトップの進学校よりは二番手ぐらいが良いんじゃないかと思うよ」

「どうして?」

「トップクラスの進学校というのはどうしても勉強がメインなんだよ。こう……、医者だとか弁護士、そういった職業を目指す子たちが大学進学率を基準に選んでくるようなところって感じ。勉強にマジなやつが集まりがち、って言ったらわかるかな。でも姫はまだ別にそこまで勉強に専念したいわけじゃないんじゃないかな、って思って」

「なるほど……、そうなるとトップクラスの進学校ともなると道を狭めすぎるかな」

「あくまで僕の意見だけどね」

「いや、参考になるよ」


 皓月の言葉に、リリィもこくこくと頷く。

 勉強は嫌いではない。

 知らなかったことを知るのは楽しいと思う。

 けれど、今のリリィにはそうして得た知識を将来に役立てるというビジョンがない。

 そう、リリィにはまだ「将来どうしたいのか」という目標がないのだ。

 ガベイラが言ったように、「まだ」と言っても良いのだろうか。

 皓月とガベイラのあれこれと話し合う真剣な声音を聞きながら、リリィはぽつりと口を開く。


「姫……」


 リリィには将来に対するイメージがない。

 どうなりたい、という目的がない。

 だから。


「……世界を、広げたいん。姫は、知らないことばっかりなん」


 学校を選ぶ基準にしては、あまりにも曖昧な希望だろう。

 今はまだ将来の明確な目標を何も持たないリリィだからこそ、何かそういったものを見つけられるような学校が良いな、と思ってしまった。

 あまりにふわふわとした希望すぎて、皓月やガベイラには笑われてしまうかとも思ったものの、二人は一度顔を見合わせてからなるほど、と頷きあった。

 確かにその口元には笑みが浮かんでいたものの、それは決して子どもの無知を嘲けったり小馬鹿にするようなものではなかった。

 柔らかに穏やかに、くすぐったいほどに優しい笑みだ。


「良いね」

「僕も良いと思うよ」

「あまり専門的すぎず、多角的に学べる学校、という感じかな」

「学校を通して将来の選択肢が広げられるようなところが良いよね」


 ぐいとガベイラが皓月の方へと身を寄せる。

 男二人が顔を突き合わせてパンフレットを吟味する姿は真剣でありながらも、どこか楽し気でもある。


「こっちはどう?」

「うーん、でもこっちの方が制服は可愛いよ」

「確かにこの程度の差だったら制服の可愛さで選んじゃっても良い気がする」

「僕はこっちの制服も好き。可愛くない?」

「あ、可愛い。でもそっちの学校はちょっと僕としてはセキュリティの甘さが気になるな」

「なるほど警備目線」

「大事でしょ」

「大事だねえ」


 そんなやり取りが行われた結果、最終的に三校ほどまで候補は絞られたようだった。


「ガーベラくん、ちょっと付箋とペンとって」

「はいよ」


 とん、と床を蹴って、ガベイラが椅子ごと皓月のデスクへと滑っていく。

 帰りも同じ要領で、ついでにくるくると回りながら戻ってきた。

 とんでもない横着ぶりだが、皓月は何も言わずに差し出されたペンと付箋を受け取り、付箋に次々と何事かを書きつけてはパンフレットの表紙へと貼り付けていった。


「よし」

「できた?」

「できた。姫、待たせたね」


 間にガベイラを挟んで、リリィのもとへとパンフレットの束が戻ってくる。

 一番上のパンフレットには「第一候補①」と整った字で描かれた付箋が貼ってあり、その下には何故第一候補に選んだのかが簡潔に箇条書きで書かれていた。

 特に第二候補から下には、何故第一候補の中に入れなかったのか、の理由までもが書かれており、メリットデメリットが大変わかりやすい。


「あくまで僕とガーベラくんの考えた候補なので、姫が考えるときの参考にする、ぐらいに考えてもらえれば」

「めちゃくちゃ参考になるん」


 即答した後、リリィはぎゅ、と手元に戻ってきたパンフレットの束を抱きしめる。

 学校を選ぶ上での指針や、考え方のお手本を見せてもらえたことはそれだけでとてもありがたい。

 けれど、何よりも。


「……皓月とガベイラが、姫のこと考えてくれたのが、嬉しいん」


 それが、嬉しかった。

 特に、二人が当たり前のように「こっちの制服の方が可愛い」と、制服の可愛さも判断の基準に入れてくれていたことがリリィには何よりも嬉しかった。

 学力や、カリキュラム、警備、そういった実用的なことだけを基準にするのではなく、これまでのリリィがこだわってきた部分を「それだけじゃなくても良い」と言ってくれつつも決して蔑ろにするわけではない二人のあり方に、随分とほっとしたのだ。

 そんなリリィの様子に柔らかに双眸を細めて、皓月が言う。


「せっかくのモラトリアムだからね」

「モラトリアム?」

「猶予、とかそういう感じの意味かな。大人になるまでの準備期間であり、猶予だ。どんな大人になりたいか、どういう人生を送りたいか、考えて、実行するための力を得るための期間、と言えば良いのかな」


 ゆるゆるとした声音で語りながら、皓月の指先がポテトをつまむ。

 その声音は優しく、穏やかでありながらどこか一般論を語るような空々しさが微かに滲んでいるようにリリィの耳には響いた。

 皓月がリリィに与えてくれようとしているモラトリアムを、皓月自身は果たして得られていたのだろうか。

 大人になるための時間が、皓月にもあったのだろうか。

 その喉元までこみあげた問いを口に出来なかったのは、そのせいで皓月の表情を曇らせてしまうことを躊躇ったからかもしれなかった。

 おそらく皓月はリリィがそれを聞いたとしても傷ついたりはしないだろう。

 ただ少し、困ったように眉尻を下げるだけだろうというのはまだ付き合いの浅いリリィにも簡単に想像がついた。

 ついてしまったからこそ、リリィは喉にひっかかった問いを声に出すことなく飲み込んだ。

 皓月は、自分が手に入れられなかったものの持つ価値を正しく理解した上で、それをリリィには与えようとしてくれている。


「学校、選べそう?」


 皓月の問いかけにリリィはこくりと頷いた。

 そう、良かったと皓月が微笑む。

 そうしてまた一つ、皓月はポテトをつまんだ。


■□■

 

 昼食の後、ガベイラの運転でリリィは自宅へと戻る。

 玄関の前で車を横づけに停めて、ガベイラがセキュリティを解除する。

 それだけでなく、ガベイラは必ずリリィを送り届けた後に一度屋敷の中をぐるりと一周し、カメラをチェックし、留守中になんの異常もなかったかを丁寧に確認してからしかリリィを車からは下ろさない。

 それが毎回の手順だ。

 確認作業を終えて戻ってきたガベイラが車のロックを外から解除して、ドアを開けてくれる。


「……あの」


 とん、と車から降りて、リリィはガベイラを見上げた。


「ん? どうかした?」

「ガベイラは、姫の送り迎えとか、大変じゃないん?」


 リリィの問に、ガベイラが思ってもないことを聞かれたというようにぱちりと瞬く。

 昼食や夕食のたびにここまでリリィを迎えに来るだけでも大変だろうに、そのたびに自宅の警備チェックが入るのだからガベイラの負担は決して軽くはないと思うのだ。


「姫、何か食べるものを用意してくれたら、別に一人でも大丈夫なん」

「…………」


 リリィの言葉に、ガベイラは吟味するような沈黙を数秒挟んだ。

 それからリリィの前にちょいとかがんで視線を重ねる。


「姫は、僕らとごはん食べるの嫌?」

「嫌じゃないん」


 嫌だとは、思ったことはない。


「一緒に食べなきゃいけない、ってプレッシャーに感じたりする?」

「それもないん」

「じゃあ、たまには一人でご飯食べたいなーって思ったりは?」

「そういうわけでもないん。ただ、やっぱり姫をいちいち迎えにきたりするの、ガベイラが大変なんじゃないかと思ったん」


 ただでさえガベイラは忙しそうだ。

 そんなガベイラに余計な手間をかけているというのはただただ純粋に気がひける。

 リリィの言葉に、ガベイラはくしゃりと目元を安堵の笑みに細めた。


「それなら良かった。それならさ、姫が嫌じゃないならさ、姫の学校が始まるまではなるべく一緒にご飯を食べようよ。僕としてもそっちの方が助かるんだ」

「そうなん……?」

「皓月、今までだと昼はほとんど食べていなかったからね。書類仕事しながら適当にプロテインバーやら栄養補助食品を齧って終わり、みたいな」

「…………」


 その姿は、あまりにも想像がついた。

 元より皓月はガベイラに比べると食が細い。

 さすがに夕食となれば人並に食べてはいるが、朝食は果物中心にトーストを一枚食べるか食べないかの量だし、昼食は毎回軽食で済ませている。

 今日だってガベイラがハンバーガーを二つ食べていたのに比べて、皓月は一つだ。


「皓月、食に対する興味がびっくりするほど薄くて。姫が一緒にいたほうが、ちゃんとしたものを食べてくれるんだよ」


 溜息混じりの言葉は、あまりにも切実だった。


「………………ママ?」

「ママではないね」


 思わず零れた言葉を、即答で否定される。

 ママではなかったらしい。

 だがその口ぶりは完全に保護者のそれだ。

 育児相談的な。


「まあ、だからね。姫が嫌じゃなければ、一緒に食べられるうちは一緒に食べよう? 今後は僕たちの方も仕事で何かあればそっちに手を取られて一緒に食事が出来ない日なんかもあるかもしれないし」

「それなら、お言葉に甘えるん」


 もともと、ガベイラの負担になっているなら、という提案だった。

 ガベイラ本人が気にしていないどころか、その手間を歓迎していると言ってくれるのならば、リリィとしてもありがたい。


「よし」


 満足気にそう言って、ガベイラはすっくと背筋を伸ばす。

 それから褒めるようにくしゃくしゃとリリィの頭をその大きな掌で撫でた。


「夕食のときにまた迎えにくるよ。たぶん19時頃かな。忙しいともうちょっと遅くなるかも。連絡するよ。ドア閉めたらロックがかかっているか確認してから離れるように。良いね?」

「わかったん」

「それじゃあ、良い子にね」

「ママ……」


 からかうようにそう言えば、「ママじゃないよ」との即答がかえってきて、リリィはたまらずくすくすと喉を鳴らして笑ってしまった。


■□■


 ガベイラが迎えに来るまでに、リリィは学校を決めた。

 皓月とガベイラが選んでくれた第一候補グループの中から、選んだ。

 進学率もそれなりに高く、カリキュラムの幅が広く、部活動や地域交流も盛んな学校で、何より制服も可愛かったのが決め手になった。

 夕食の席でこの学校に決めたと告げれば、皓月はリリィの差し出したパンフレットに一通り目を通して、「良いね」と一言紫暗の双眸を細めて言った。

 付け足すように、すぐに手続きを取るね、とも。

 蓮糸楼の近くにある格式高そうなレストランでの夕食の席でのことだ。

 三人の目の前には、美しく盛り付けられた前菜の皿がある。

 見た目からも楽しめるようにと料理人が工夫を凝らした一皿だ。

 それを三人は、ぴかぴかに磨き上げられた銀のナイフとフォークで少しずつ切り崩しては口に運び、味わっていく。

 ちらりとリリィが伺った先では、皓月とガベイラの二人が危うげのない見事な所作で食事を楽しんでいる。

 その姿は所作も相まって、周囲の人々の視線を惹き寄せる程度には大変麗しいのだけど。

 なのだけれども。

 なんとなく。

 リリィは、昼のように大口を開けてハンバーガーにかぶりつく二人の方が好きだな、なんて思った。

 和やかな談笑を交わしながらそんな食事を終えて、そろそろデザートが届くという頃合いを見計らったように、ふと皓月が口を開く。


「あのね、姫、ちょっと申し訳ないのだけど……、僕とガーベラくんはこの食事を終えたらまた仕事に戻ろうと思うのだけど、構わないかな」

「構わないん。けど……、お仕事で何かあったん?」

「何かあった、というわけじゃないのだけどね」


 それが店で起きたトラブルをリリィには隠そうとしている……、というような口ぶりではなかったことにリリィは少しだけ安堵する。


「ここしばらく、姫がサザルテラの生活に慣れるまではなるべく家にいるようにしてはいたんだけれども――……、蓮糸楼はもともと24時間営業の店だし、どちらかというと夜になってからの方が本番、みたいなところがあってね」

「なるほど」


 確かに言われてみればその通りだ。

 カジノなどという特性を考えても、当然昼間よりも夜の方が盛況になって当然だろう。

 オーナーである皓月が、そんなピークの時間帯に店を空けていることの方が特別だったのだ。

 それだけ、皓月はリリィに気を配り、生活サイクルを合わせてくれていたのだと思えば感謝の気持ちこそあれど、皓月に無理をさせようという気にはならなかった。


「なるべく日付が変わる頃には帰るつもりではいるのだけどね。何かトラブルがあると長引くこともあるから……、僕を待たずに先に眠ってしまって良いからね」

「わかったん」

「ありがとう」


 そんなやりとりを終えたあたりで見計らったようにデザートが届く。

 本日のデザートは季節の果物をつかったシャーベットだった。


■□■


 夕食の後、リリィだけが自宅へと送り届けられる。

 いつものように警備のチェックを終えたガベイラが車のドアを外から開けてくれて、降りかけたリリィを引き留めたのは皓月だった。

 黒革に覆われた指先がリリィの座席についたままだった手の上に重ねられる。


「皓月?」


 振り返ったところで、もう片手の黒がリリィの頬に柔らかに触れて、微かに引き寄せられた。

 車内の暗がりの中、皓月の整った顔が近づいてくるのをリリィはぽかんと目を丸くして見つめることしか出来ない。

 窓から差し込む光に、皓月の普段は暗い紫の双眸がちかりと鮮やかな紅紫を含んで煌めくのが見えた。

 美しい石のようだ。

 角度によって変わるその煌めきに目を奪われる。


「おやすみ。良い夜をね」


 柔らかな声音がそう告げて、いつも寝る前にしてくれるように、皓月の唇がそっとリリィの額に触れていく。

 そこから、じんわりと熱が広がっていくようだった。

 車内が暗くて良かった、とリリィは思う。

 きっと、耳まで赤くなっていたはずだ。

 声音だけは平坦に、「おやすみなん」と返して、リリィは車から降りる。

 一緒に眠るベッドの中で、子どもにやるように額に触れる唇には慣れてきたと思っていたのに、少しシチュエーションが変わるだけでこんなにも胸がどきどきとしてしまったのがなんだか少し悔しい。


「………………」


 じ、と頭上からガベイラの視線が注がれているのがわかる。


「なん」


 気恥ずかしさを誤魔化すように、何も言うなよ、との意図をこめて威嚇するように言ったのに、傍らの長躯は面白がるように肩を竦めただけだった。


「耳、真っ赤だなあと思って」


 なぜ。

 なぜ言ってしまうのか。

 じとりとリリィはガベイラを見上げる。

 すました顔で、楽し気を漂わせる男を見上げて、ぽつりと口を開く。


「まま」

「ママじゃないよ」


 否定はめちゃはやだった。

 それだけ嫌なのだろうと判断して、少しだけ気が晴れてリリィはふす、と満足気に息を吐く。

 その頭を、仕返しのように少しだけ強めにガベイラがうりうりと撫でた。


「それじゃあ僕らは行くからね、ちゃんと戸締り確認してから上にあがるんだよ」

「はいなん」

「うわ、すごい適当な返事された」


 くっくっく、と笑いながら、お休みと告げてガベイラがドアを閉める。

 言われた通り、一度ドアに手をかけて、ちゃんとロックがかかっているかを確認してからリリィは二階に上がった。

 こうして夜にこの家で一人というのは初めてのことだ。

 少しだけ心細いような気もするが、きっとすぐに慣れるだろう。

 いつものように寝支度を整えていく。

 お風呂に入って、パジャマに着替えて。

 少し、本を読んで。

 さてベッドに入ろうか、と思ってから少し迷う。

 リリィはこれまで、自室で眠ったことがない。

 この家に迎えられて以来、なんだかんだ皓月の部屋で一緒に眠っていたのだ。

 皓月は、先に寝てて良いよ、とは言っていた。

 場所については、何も言われていない。

 

「…………」


 ころん、と自室のベッドに横になってみる。

 まっさらなシーツからは、清潔な石鹸の香りだけがする。

 すん、と小さく鼻を鳴らして、物足りなさを覚えてしまった。

 皓月のベッドなら、違う匂いがする。

 皓月が使っている石鹸と、香水とがほのかに混じった匂いがする。


「…………」


 むくりと身体を起こして、リリィは机の引き出しの中にしまってあったナイフを取り出した。

 皓月がリリィの為に用意してくれたナイフだ。

 リリィは夜に皓月の部屋に行くときには、いつだってそのナイフを携えて行く。

 きっとそんなものがなくても、皓月がリリィに酷いことなどしないだろうということはもうすでによくわかっている。

 この家の中で、皓月やガベイラを相手に自衛する必要などないということを、この家に迎え入れられて以来大事にされてきたリリィは十分に理解している。

 それでもナイフを持っていくのは、それが皓月がそのためにリリィに与えたものだからだ。

 贈られたものを使っているところを贈り主にちゃんと見てもらいたい、なんていういじましい心遣いだ。

 シースに収めたままのナイフを胸に抱いて、リリィはとてとてと皓月の寝室に向かう。

 許可は得ていないけれど。

 夫婦なのだし。

 新婚なのだし。

 ひとけのない書斎を抜けて、寝室へと足を踏み入れる。

 ベッドサイドの定位置にナイフを置いて、それから主の欠けた寝台の端をぺろりと捲ってその中に潜り込んだ。

 薄く鼻先を掠める皓月の気配めいた香りに満足して目を閉じる。

 呼吸が、少しずつ深くなる。

 意識がまどろむ。

 いつしかリリィの意識は完全に夢路を下りかけて――…

 ばん、と強くどこかのドアを開けるようなけたたましい音にふわりとリリィの意識が浮上する。

 続いて、ばたたたたたたた、と忙しない足音が響く。

 大の男が階段を駆け下りたなら、きっとそんな音がするのだろうとぼんやりと思った。


「ガーベラくん!」


 日頃とろりと穏やかな低音が、焦燥を含んで護衛の男の名を呼ぶ声が階下から響く。

 きっと、何か大変なことが起きてしまったのだと思った。

 リリィに出来ることなどないのだろうけれど、家主たる男が柄にもなく大騒ぎするようなことが起きてしまったのだ。

 知らないふりをして寝なおすわけにもいかない。

 もぞりとベッドから抜け出して、眠い目を擦りながらもリリィはぽてぽてと階段を降りていく。

 不用心にも、玄関の扉は中途半端に開いたままだった。

 どうやら皓月は階段を駆け下りた勢いでそのまま外に飛び出していったようだった。

 問題が起きているのは外なのだろうか。

 リリィが玄関の外を覗こうとするのと、ずんずんと速足の足音が近づいてくるのはほぼ同時だった。


「姫が部屋にいないってどういうこと!?」

「いないものはいないんだ、すぐにセキュリティの確認を」

「了解、カメラのログを精査、」


 なんて緊迫感溢れる会話を交わしながらバン、と玄関のドアを二人が開け放ったところで、玄関先に立っていたリリィと目があう。


「………………」

「………………」

「………………」


 ぴたり、と二人の足が止まる。


「…………いるじゃん」

「…………いるね」


 皓月が脱力するようにかがんで、リリィへと視線を重ねる。


「どこにいたの、下にも部屋にもいないから何かあったのかと」

「皓月の部屋で寝てたん」


 むぐ、と皓月はなんだかとてもヘンな顔をした。

 うっかりゆで卵を丸のみにしてしまった蛇のような顔だ。


「……僕の部屋で寝てたの」

「ダメだったん?」

「駄目じゃないよ、駄目じゃないけど…………、ちょっと、驚いた」

「ちょっと?」

「うるさいよ」


 ぎろりと皓月は下から思い切りガベイラを睨み上げるものの、ガベイラに堪えた様子はない。

 それどころか、くっくっく、と愉快そうに喉を鳴らして笑う音まで響いてくる。

 皓月は苦虫を噛み潰したような渋面だ。


「あのさ、皓月」

「なに」

「耳、赤いよ」

「ぶん殴る」

「わははははは」


 すいっとガベイラは皓月から距離を取る。

 拳の届く範囲からの退避だ。


「それじゃあ僕は一応セキュリティの確認をしてから引き上げるから」

「シッシ」


 犬でも追い払うような皓月の口ぶりに、ガベイラはますます楽し気だ。

 皓月は憂鬱そうに深々と溜息をつく。

 それから、リリィのことをひょいとその腕に抱き上げた。

 子どもにやるような縦抱きだ。

 そのままゆっくりと階段を上っていく。

 自分で歩けるん、とリリィが申告しようか迷っているところで、ぽつりと皓月が口を開いた。


「……寝る前にね」

「うん」

「君の顔を見ようと思ったんだよ」

「うん」

「そしたら部屋にいないから……、何かあったのかと思って、本当に肝が冷えた」


 は~~~、と深く息を吐く音がする。

 リリィを抱く胸からは、とっとっと、といつもベッドの中で聞くのよりも随分と速いリズムで脈打つ鼓動が響いている。

 本当に、焦ったのだろう。

 リリィに何かあったのではないかと、普段足音らしい足音を立てない男が、リリィが目を覚ますほどの勢いで階段を駆け下りた。

 もしかすると、ガベイラの言っていた「耳が赤い」というのもただ揶揄うための言葉ではなくて、本当だったりするのだろうか。

 顔が、見たい。

 今なら、いつものあの悠然と笑んだ顔以外のものが見られる気がする。

 にょ、と首を擡げて見上げようとしたところで、大きな手のひらが極々当たり前のようにリリィの後頭部に添えられて、子どもをあやすような所作でソッと押さえこまれた。

 さては。


「姫のこと抱っこしたの、顔を見られたくないからでは」

「なんのことやら」


 しらばっくれられた。

 間違いなく、図星だ。

 顔を見られたくないからといって腕力に訴えるのはあまりにずるい。


「はい、到着」


 ぼすりとベッドに下ろされる。

 明かりを付けていない寝室は薄暗く、残念ながら皓月の表情はそれほどよくは見えなかった。


「明かり、つけたいん」

「却下」


 優しい手つきで、それでも容赦なくぎゅむっとお布団の中に収納される。


「それじゃあ僕はシャワーを浴びてくるから、姫は先に眠ってていいからね」

「まってるん」

「またなくていいから」


 そう言いつつも、もしかしたら本当にリリィが待っている可能性を考えてくれたのだろう。

 皓月がベッドに潜り込んできたのは随分とすぐのことだった。

 ほんのりと水の香りの混じる腕に抱かれて、リリィはふくふくと満足げに口元を笑ませる。

 何を考えているのかわからなくて、近くて遠いように感じられていた男が、今夜は随分と近くにいるような気がした。

 

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