第6話 それぞれの「選択」


 時計の針が12時を少し過ぎたころに、まずガベイラからそろそろ迎えにいくね、との連絡がリリィの傍らにあった貰ったばかりの端末に届いた。

 おおよそその連絡から15分が過ぎた頃には、ガベイラは皓月の私邸に到着していた。

 それじゃあ行こうか、とリリィをエスコートして玄関へと向かいかけていたガベイラの足がふと何かに気づいたかのように止まる。

 

「あれ、お皿洗っておいてくれた?」


 リリィはこっくりと頷く。

 それぐらいならリリィにも出来る。


「ありがとう、助かるよ。あ、でももしかして手で洗ってくれた?」

「駄目だったん?」

「いや、駄目じゃないよ。僕もあれぐらい量が少ないとぱぱって手で洗っちゃう。でも食洗器もあるから、そっちの使い方も教えておこうか」

「ありがとなん」


 おいでおいで、とキッチンに手招かれて、リリィはちょこちょことガベイラの隣に並ぶ。

 こうして並んでみると、ガベイラは本当に背が高い。

 見上げると、首が痛くなるほどだ。

 それでいてひょろりとしているということもなく、スーツの胸板はみっちりと厚い。

 リリィにはよくわからないけれど、護衛ということはきっと戦うことを生業としているからなのだろう。

 動きの一つ一つに神経が通っていて、目的がある。

 そんな男が今は長閑にリリィの隣で食洗器の使い方についてをレクチャーしてくれている。

 洗剤を入れるところやそのタイミング、脂っこい汚れの時には食洗器に入れる前に軽く水で濯ぐといいよ、とかそういうコツ。

 語る声音は穏やかで、どこか楽し気で、快活だ。

 一通り語って、


「とはいえ、別にやれって話じゃないからね」


 ガベイラはそう最後に締めくくった。

 きっとガベイラはリリィがやってみようと思い立ったときに困らないようにと教えてくれただけで、別にリリィに食器洗いの役割を期待しているというわけではないのだろう。

 リリィがやらなくとも責めはしないだろうし、食器がシンクに残っていれば自らさっさと手際よく洗って片づけてしまうはずだ。

 それでも教えてもらえたことが、リリィにはなんだか嬉しかった。

 リリィは実家にいるとき、家のことを何一つしたことがなかった。

 食後のお皿一枚洗ったことはなかった。

 それはある意味恵まれた環境だったのかもしれない。

 だが、それは同じ家に住む家族でありながら、一人蚊帳の外に置かれているような、家に関わることを許されていないような、そんな孤立感を伴うものでもあった。

 リリィが家からいなくなっても誰も困らない。

 家に関わることを何もしていなかったから、リリィがいなくなってもあの家は何も変わらずに、リリィの欠落を欠落とも思わないままに日々が進んでいく。

 それは、少し寂しいことのようにもリリィは思うのだ。

 そう考えると、こうしてガベイラが家のことを教えてくれるのは、リリィに居場所を作るためのスペースを与えてくれているようにも感じられる。

 ……リリィが昨夜したことを知っているはずなのに。


「ガベイラ」

「ん?」


 ぽつりと呼びかけた声音の強張った響きに、ガベイラが首を傾げる。

 どうしたの、と覗き込まれて、リリィはその鮮やかな碧にまっすぐに視線を重ねて問うた。


「……どうして、皓月もガベイラも何も言わないん?」


 昨夜、リリィは確かに短剣をもって皓月の寝室を訪れたのだ。

 殺すつもりはなかった。

 あくまで身を護るだけのつもりだった。

 恐ろしいことが起きないようにと祈る寄る辺のようなもののつもりだった。

 だがそれでも、確かにリリィは皓月を殺すことが出来る凶器を、彼の寝室に持ち込んだのだ。

 それをどうして二人がなかったことにするのかが、リリィにはわからない。

 皓月に危害を加えるかもしれないリリィに二人が親切にしてくれる理由も、二人がリリィをこの家に受け入れようとしてくれる理由も、わからない。


「ンー……、まあ、そうだね」


 ガベイラが少しだけ困ったように視線をさ迷わせる。


「あれは皓月が悪いっていうか」

「???」

「……一緒に寝よう、なんて言ったら姫が怖がるのは当然だからね」


 思わず、リリィは目をぱちくりとさせてしまった。


「ごめんね、皓月が怖がらせて」


 当たり前のようにさらりと謝罪までされてしまったもので、リリィはますますどんな顔をして良いのかがわからなくなる。

 そんな途方にくれた子どものような顔をしたリリィを覗きこんで、ふ、とガベイラが口元に笑みを浮かべた。

 明るくて、快活で、優しくて、お日様の匂いのする男なのに、そんな表情だけはどこかリリィの夫となった男によく似ているような気がした。


「それに、昨夜の君ぐらいなら皓月でも簡単に無力化できちゃうからね」


 ふふりと楽しげに笑って、ガベイラはひょいと肩を竦める。

 大きな手のひらがくしゃりとリリィの頭を撫でる。

 皓月よりも大きくて、厚みのある手だ。

 子どもが喜ぶ雑さで撫でた後に、そっと柔らかに乱れた髪を整えるようにもうひと撫でかふた撫でしていく指先の慣れがどこか狡い。


「…………」


 む、とリリィは小さく唇を尖らせる。

 確かに昨夜、リリィの行動は全て二人にはお見通しだった。

 皓月にだってバレていたし、ガベイラにはあっさりと短剣を奪われた。

 それどころかそもそもリリィはあの部屋にガベイラがいたことにすら、皓月が彼の名を呼んだその瞬間まで気づいていなかった。

 だから二人にとって、リリィは敵ですらない。

 皓月が怖がらせるようなことをしたから、子猫がささやかに爪をたてようとした、というような、その程度のこととして二人には処理されてしまっている。

 別に、む、とするところではないのだろう。

 むしろ敵だと認識されてしまうよりも、ずっとずっと良いはずだった。

 そうわかっているのに、少しだけ、ほんの少しだけ面白くない。

 リリィはあんなにも怖かったのに、この二人にとってはなんでもない取るに足らないことだったのだ。


「ほら、行こう。皓月が待ってるよ」


 そう促されて、リリィはガーベラとともに家を後にする。

 10分も車に揺られているうちに、車窓からの景色は雰囲気を変えていた。

 穏やかな住宅街から、どこか煩雑で華やかな街並みへ。

 大勢の人々が行きかう通りには大仰なまでに派手なつくりの建物が並び、煌々と明るい陽射しの下ではどこか舞台セットめいた白々しさが浮き立っている。 


「この辺りはあまり治安も良くないから、姫は絶対に一人で出歩いちゃ駄目だよ。必ず僕か、誰か僕がつけた人と一緒にいるようにね」

「わかったん」


 リリィにとっては初めて触れた『街』だった。

 こんなにも大勢の人を、リリィはこれまで見たことがない。

 いや、どうだろう。

 子どもの頃通っていた学校と、今この大通りにいる人はどちらが多いだろうか。

 少し速度を落とした車の中から眺める街の景色には、今までリリィの知らなかったものばかりが溢れている。


「夜になるともっと賑やかになるよ。……っと、ここだ。ついたよ」


 車が止まる。

 先にガベイラが降りて、リリィの為にドアを開けてくれる。

 すぐに小走りにやってきたのは駐車場係だろう。

 慣れたようにガベイラが鍵を渡す傍らで、リリィはぽかんと目を丸くしてその建物を見上げていた。

 美しい、城だ。

 それも、遠い異国の城だ。

 艶めかしい朱色の柱にと薄く蒼みがかった黒灰の瓦の対比が幾重にも重なってはっとするほどに鮮やかで人目を惹いている。


 「ここが、蓮糸楼だよ」


 楽しそうにそう言ってガベイラが手をかけると、重たげにも見えた両開きの扉はするすると魔法のように内側へと開かれた。

 一歩足を踏み入れて、自然とリリィの唇からはほう、と感嘆の息が零れ落ちる。 ぱたむと背後で静かに閉じる扉の音を聞きながら、リリィはここは夜だと思った。

 扉一枚で外界から遮断された夜だ。

 決して薄暗いというわけではない。

 明るい光が隅までを煌々と照らしてはいるものの、その明るさはどこか夜の闇を彷彿とさせる。

 明るいのはここだけで、外はもう暗いのだろう、と思わせる明るさだ。

 壁にそってよく磨きこまれた艶のある木製の長椅子が幾つか置かれ、周囲には目を楽しませる美しい調度品がさり気なく配置されている。

 カジノ、というよりも高級なホテルのようだった。

 実際エントランスの奥にはどっしりとした木製のカウンターが設置されており、その中には皓月が身に纏うのとよく似た、それをもっと華やかにしたような装束に身を包んだ美しい女性が涼やかな笑みをその口元に浮かべて佇んでいる。

 彼女はガベイラに気づくと恭しく腰を折った。


「おかえりなさいませ、ガベイラ様」

「ん、ただいま」


 ガベイラは気さくに声を返しつつも、リリィへの案内を続ける。


「ここがエントランスロビー。この奥からフロアに出られるよ。一階のフロアはスロット系が多いかな。ここから先はちょっと騒がしいし、人が多いから手を繋ごうか」


 リリィはこっくりと頷いて、差し出されたガベイラの手を取った。

 大きな掌だ。

 男らしく筋張っていて、掌の皮は厚く硬い。

 そんな掌が優しくリリィの手をすっぽりと包み込んでいる。


「……小さいね」

「ガベイラが大きいんだと思うん」

「まあね」


 のんびりとの同意が返る。

 自らが並外れた長躯の持ち主であるという自覚はガベイラにもあったらしい。

 ガベイラに手をひかれ、リリィはぴたりと閉ざされていたフロアへと続くゲートをくぐる。

 とたんリリィを打ちのめしたのはけたたましい熱狂だった。

 人の気持ちを掻き立て、高揚させるような賑やかな音楽が背後に流れ続ける中で、ゲーム筐体が奏でる華やかな電子音が幾重にも重なって響いている。

 一言でいうならば、ジャンジャンバリバリジャンジャンバリバリ、だ。

 時折勝利の雄たけびめいた声やら、甲高い嬌声、悲鳴までもが聞こえてくる。

 思わず立ち尽くしてしまっていたリリィの手を緩く引いて、ガベイラはフロアの中央にそびえる階段へと歩を進めていく。


「ここからね、二階にあがれるんだ。二階にはバカラやポーカー、ルーレットみたいな対人の、ディーラーと遊ぶようなテーブルがメインになっているよ。バーやダイニング、レストランやショーを行うためのステージなんかもこの階だね」


 二階は、下に比べるとゆったりとした間隔でテーブルが並んでいた。

 テーブルごとにオリエンタルな装束に身を包んだディーラーが立っているのがわかる。

 彼らが進行役として各テーブルでゲームを進めているのだろう。

 ガベイラはリリィの手を引いて、そんなテーブルの隙間を縫ってのんびりと歩んでいく。

 ふと、時折テーブルにつくディーラーがこちらに気づくと静かな目礼を密やかに送ってくるのに気づいて、リリィはちらりとガベイラを見あげた。

 ガベイラも、特にその目礼にわかりやすい反応は返してはいない。

 ただ、本当に微かに目を伏せたり、わずかに顎を引いたりというような所作でささやかに、よくよく観察してようやく気づける程度のさりげなさでコンタクトを返している。

 そんなガベイラがリリィの視線に気づかないわけもなく、ガベイラはまるで悪戯の共犯にでも誘うようにぱちりと片目を閉じて見せた。

 なるほど。

 どうやら、ガベイラが皓月の影武者をしているのはあの夜に限った話、というわけでもなかったらしい。

 ホールを抜けて、フロアを回り込むように壁沿いに進んでいくと、やがてこぢんまりとしたカウンターバーへとたどり着いた。

 カウンターに席は三つしかない。

 その内側で、老紳士が一人、ぽつんと丁寧にグラスを磨いている。

 わざわざこんな静かな場所に飲みに来るような客は少ないらしく、あたりに人の気配はない。

 華やかなカジノの喧噪が、ここでは少しだけ遠い。

 ガベイラはカウンターではなく、その傍らの壁の前で足を止めた。

 壁に溶け込むように、ほっそりと微かに四角く扉の形が浮いている。

 スタッフ専用の搬入口といった風情のその扉にガベイラが懐から取り出したカードを翳すと、内側の方からかちゃりと小さく解錠の音が響いた。

 そのまま掌で押すと、するりと抵抗なく内側へと扉が開く。

 扉の向こうには、小さな空間があった。

 入って正面の行き止まりの壁には、美しい装飾の施された両開きの扉が設置されている。

 エレベーターだ。


「これが、VIPルームに繋がるエレベーター。3階はプレイルームで、4階には宿泊のための部屋がいくらかあるよ。カードキーがないと行き来できないようになっているから、気を付けてね」


 そんな説明を語りながら、エレベーターに乗り込むとガベイラは一番上のボタンを押す。

 四階だ。

 ふわりと一瞬の浮遊感の後、エレベーターはすぐに止まった。

 降りる。

 こちらは宿泊のための階だと言っていたこともあって、まるでホテルのような作りになっている。

 ふかふかとした絨毯が敷き詰められた廊下は静かだ。

 かすかに、聞きなれない弦の音が響いている。

 幾つかの角を曲がる。

 いくつもの部屋に繋がるドアが両脇にぽつぽつと並んだ廊下は、部屋にかけられたルームプレートのナンバーが異なるだけでそれ以外はほとんど外観が変わらないこともあって、すでにリリィはスタート地点であるエレベーターまで戻れるかどうかすら危うい。

 ここでガベイラとはぐれたら間違いなく迷子になる。

 絶対にこの手は離さないぞ、という強い意思でぎゅっと繋いだ手を握ると、頭上から小さく笑うような呼気が降った。


「心配しなくても大丈夫だよ。今回は案内を兼ねて遠回りしてるんだけど、次からは五階までの直通のエレベーターで上がっちゃうから。それに、君が一人で来ることはないと思うし」

「……良かったん。姫、たどりつけて二階までなん」


 ふふふ、とまたガベイラが笑う。

 そうして、四階の宿泊エリアの端、目立たぬ位置にひっそりと設置されていたエレベーターに乗り込んで一つ上の階へと上がった。

 こちらはカード認証ではなく、指紋認証でしか使えないようになっている。

 それだけ、立ち入りできる人間を制限しているのだろう。

 五階は、他の階に比べて静かだった。


「ここが皓月のプライベートエリア。上がってこれるのは僕と皓月と、セキュリティールームで監視カメラのチェックをする何人かぐらいかな。店の運営に関する物事だとか、皓月がオーナーとしての仕事をしているのがこの階になるよ」


 そんな説明をしながら、ガベイラはリリィの手を引いたまま角を曲がる。

 目的地はすぐにわかった。

 何故なら、とある一室の扉の前に二人の黒服が直立不動の姿勢で立っていたからだ。

 随分と厳重な警備だ。

 指紋認証でしか上がってこれないはずの階で、部屋の入口前には二人の見張りが配備されている。

 が。


「お疲れ様、皓月はちゃんと中にいる?」

「ボスが出てから部屋の中から出た人間はいません」

「そりゃ良かった。それじゃあ後は引き継ぐから二人とも仕事に戻っていいよ」

「了解しました」


 ガベイラと見張りの黒服二人のやり取りに、思わずリリィは半眼になってしまった。

 どうやらこの見張りは外部からの侵入者を警戒してのものでなく、部屋の中に閉じ込めた人間の脱走を防ぐためのものであったらしい。

 つまり皓月の。

 二人の黒服はガベイラに一礼するとさっさとその場を後にしていく。

 それを見送ガベイラはコンコンコンとノックを鳴らし部屋へと足を踏み入れた。


「ただいま、姫迎えにいってきたよ。ついでにちょっと店の中案内もすませてきたところ」

「おかえり」


 皓月は扉の正面にあるデスクにて書類仕事をしていたようだった。

 視線を持ち上げて、手にしていた書類を無造作にぱさりと机に置く。


「ドア前の見張りは?」

「今帰らせた」

「もう少し僕のことを信用してみては」

「僕の目を盗んでよくよく脱走する皓月が悪い」

「ガーベラくんがいるところじゃ出来ないようなことをする機会は逃せなくって」

「僕がいると出来ないようなことは僕がいなくてもしないでくれるとありがたいんだけど」


 軽快な掛け合いの果てにガベイラははあ、とわざとらしく溜息をつき、皓月は楽しそうにくすくすと笑いをこぼした。

 それから、皓月の眼差しがふとリリィへと流れる。


「姫、ちょっとこちらに来てくれるかな」


 招かれるままに、皓月のデスクへと歩み寄る。

 皓月は引き出しから幾つかの金属製の棒を取り出すと、ことりことりとデスクの上へと並べて見せた。

 文鎮だろうか。

 形は酷くシンプルで、つるりとしたスティック状をしたものが多い。


「これ、持ってみてくれる?」


 一番左端にあるものを指で示されて、言われるままにリリィはそれを手に取った。

 金属製だからなのか、見た目よりもずしりと重く感じられる。


「なん……?」

「どうかな、もってみて。しっくりくる?」

「???」


 しっくり、とは。

 リリィの頭上にクエスチョンマークが飛び交っているのがわかったのか、皓月は口元に柔らかな笑みを浮かべると次のものを指さす。


「今度はこっちをもってみて」


 言われるがままに、一つ隣を手に取ってみる。

 最初に持ったものよりも少しばかり重みが増しているような気がした。

 だが、その重みは心地が良い。

 重さによって安定する、といえば良いのだろうか。

 手の中に馴染む重さだ。


「…………よくわからないけど、こっちの方が、しっくり……? 来るような気がするん」

「それじゃあ次は?」


 もう一つ隣を手に取ってみる。


「…………」


 試しに、一度それを置いて、最初に手にとった左端を手に取ってみる。

 こうして比べると明らかに右に進むにつれ重さが増しているのがわかる。

 もう一度、三つ目を手に取る。


「……こっちは、少し重いように感じるん」

「そう。それじゃあさっきのがちょうど良い感じかな。もう一度一つ前のものを持ってみてくれる? その状態でちょっと手を振れるかな。ああ、すっぽ抜けないように気を付けてね」

「……?」


 皓月の目的はわからないものの、言われるままに振ってみる。

 掌の中に重しがある分、いつもよりも遠心力がかかってより素早く動かせるような気がする。


「ガーベラくん、どうかな」

「良いんじゃないかな」

「じゃあ、それで」

「了解」


 何が了解されたのかわからないものの、ガベイラが手を差し出してきたものでリリィは手の中にあった金属の棒をガベイラの掌に載せた。

 ガベイラはその金属棒をするりと懐に収めてしまう。


「それで、お昼はどうしようか。どこか食べに出る?」

「姫にちょっと見せたいものもあるからここで食べようか。良い機会だし、うちの店の味を知ってもらうのはどうかな。姫も構わない?」

「…………う」

「あ、外の方が良かった?」


 気づかわし気に覗きこまれて、リリィはう、とまた小さく呻く。

 違うのだ。

 そういうわけではない。

 そういうわけではないのだ。

 ただ、あまりにもあっさりと説明なく流された謎の金属棒の一幕が一体何だったのかが気になっているだけだ。

 ぶんぶんと首を横にふったリリィに、皓月が何か、とでも言いたげに首を傾げる。

 さらりとその肩口から艶やかな黒髪が零れ落ちる。

 何度でも思うが、綺麗な男だ。

 口元には穏やかな笑みが浮かび、その紫闇の双眸にはリリィに対する悪意などひとかけらも見当たらない。

 ただ、その本意だけは見えない。

 何を考えているのか、どうしてリリィに優しくするのか。

 一番大事なところだけが、隠されている。


「…………」


 聞いたら、答えてもらえるだろうか。


「…………」


 駄目だろうな、と思った。

 聞いても、きっと皓月は口元の笑みを深めるだけだ。

 ほそりとその双眸を細めて、うつくしく笑うだけだ。

 きっと答えはくれないままに、その黒革の手套に包まれた指先で優しくリリィの頭を撫でて、それで誤魔化してしまう。

 それがわかってしまったから、リリィは心の中でまあいいかと呟くだけにすることにした。

 どうせこれまでだってわからないことばかりだ。

 わからないままに流され続けて、今リリィはここにいる。


「大丈夫なん」

「本当?」


 確認の声にこくりと頷く。

 皓月はそれなら良かったと呟いて、引き出しから数種類のメニューを取り出した。

 普段から階下のレストランから食事を取り寄せることが多いのだろう。

 見やすいようにテーブルに広げられたメニューを覗きこむ。

 写真つきで表示される料理はどれも盛り付けまで手が込んでいて、種類も豊富だ。

 日替わりや週替わりのメニューも少なくなく、細部にまで客を飽きさせない工夫がなされているのがわかる。


「何か美味しそうなものあった?」

「これが良いん」


 リリィはちょいとサーモンと香草のパイ包み焼きを指さす。


「良いね、ちょうど良い鮭が入ったって厨房が言ってたよ。僕はこっちのステーキにしよっと。皓月は決まった?」

「僕はオニオンスープに薄目に切ったバゲットをかりかりに焼いたものを三枚ばかり添えてもらえれば」

「それだけで良いの?」

「君と違って僕は座り仕事ばかりだからね」

「…………」


 ガベイラがちらりともの言いたげな視線を皓月へと投げかける。

 リリィが気づけるぐらいなのだから、皓月は間違いなくわかっているだろう。

 だというのに、皓月はまるでそれに気づかなかったかのようにかたくなにガベイラと視線を重ねないまま、引き出しからまたメニューとは異なる薄い冊子をいくらか取り出した。


「…………はあ」


 それに対するガベイラの仕返しは、これまたわざとらしい溜息だ。

 お互いに相手が気づいているとわかった上で、さらにいうなら気づいているぞアピールが無駄になるというところまで織り込み済みでのじゃれあいである。

 一瞬仲が悪いのかとも思ってしまうようなイヤミな応酬ではあるものの、それが家族のような距離感でなされるものだということをリリィはもうすでに学んでいる。

 ガベイラが端末を取り出して三人分の食事の手配を始めるのを横目に、皓月はリリィの手元へと新たに取り出した冊子の束をずいと差し出した。


「早速この辺りの学校で、候補になりそうなところを幾つかピックアップしてパンフレットを取り寄せてみたんだけれども――どうかな」

「もう?」


 リリィは思わずぱちくりと瞬いてしまう。 

 早い。

 あまりに早い。

 皓月がリリィに学校に通う気はないかと打診したのは今朝のことである。

 それが、数時間後の昼にはもう周辺学校のパンフレットを用意してしまっているのだ。

 もしかすると、リリィに聞く前にはすでに用意していたのかもしれなかった。


「…………」

「立ったままでもアレだしね、こっちにおいで」


 誘われるままに、窓近くのテーブルへと案内される。

 皓月と二人向かい合わせに座って、リリィは改めて手元に用意されたパンフレットへと視線を落とす。

 どのパンフレットも真新しいぱりっとした制服に身を包んだ少年少女の日常を切り取ったような、溌剌とした学校生活を彷彿とさせる写真が使われている。

 なんだか、不思議な気がした。

 リリィの立場は家の為に金で売られた娘だ。

 そのはずなのに、家にいた時よりもよほど環境に恵まれている。

 いろいろリリィの理解の及ばない物事も進行しているようではあるのだが、それでも学校に通わせてもらえるというのは嬉しい。


「すぐには決められないと思うけれど……」

「ここが良いん」


 今度は皓月が目を丸くする番だった。

 切れ長の双眸の麗人がそんな顔をすると、少しばかり印象が柔らかくなる。


「ええと、中を見なくても良いの?」

「?」


 皓月の問いに、リリィも首を傾げる。


「ここ制服が一番可愛いん」

「制服」


 復唱された。

 リリィはこっくりと頷く。

 その学校の制服が一番リリィによく似合うと思ったのだ。


「ン――……」


 皓月は少しだけ困ったように喉を鳴らす。


「姫にとって学校を選ぶ上での大事なポイントはそこなの?」


 まるでそれだけではいけないのだということを示唆するような皓月の問いかけに、リリィは言葉に詰まって双眸を伏せる。

 少しの間沈黙が続く。

 あくまでリリィの答えを待つような間にいたたまれなくなって、ぽつりとリリィは口を開いた。

 

「…………姫は、可愛いん」

「そうだね」


 肯定する返事は早かった。

 だからそれに勇気づけられるような心地で、リリィはぽしょぽしょと言葉を続ける。


「可愛い姫は、可愛くないといけないん」

「ン――……」


 こちらには、物言いがついてしまった。

 けれどやはり、皓月の声音に咎めるような響きはない。

 ただ少し、納得しかねる、というわずかな不満だけが滲んでいる。


「姫がね、可愛い、というのには僕も同意するよ。姫は、可愛い」


 はっきりと言い切られる。


「でもね」


 続けられた言葉に、心臓がきゅうとなる。

 可愛いだけではいけないのだろうか。

 リリィには、それしかないのに。

 リリィにはそれしか求められてこなかったのに。


「姫は、何のために可愛くありたいのかな。可愛くなくてはいけないのは何の為?」


 何の、為。

 目的を聞かれて、リリィは考える。

 可愛くあろうと思ったのは、そうでなくてはいけないと思うようになったのは。


「……お父様が、そう言ったん」

「そう。お義父様は、どうしてそう言ったんだろうね」


 家を、立て直す為だ。

 より良い夫に嫁げるように。

 つまり。


「皓月に、好きになってほしいん」


 気恥ずかしさに目元を染めつつ、リリィは顔をあげて皓月に視線を重ねていう。

 皓月の双眸が笑みの形にほそりと細くなった。


「ふふふ、可愛いね。でも、僕はもう結構姫のことが好きなんだけど」

「……そうなん?」

「そうじゃなかったら結婚してないと思わない?」

「一理ある」


 納得してしまった。

 皓月は、大変見目の良い男だ。

 リリィよりは年上ではあるが、経営者としてはまだ若い部類に含まれるだろうに、カジノオーナーとしての辣腕ぶりはサザルテラでも広く知れ渡っている。

 そんな男であるので、きっと伴侶ともなれば候補になりたがる女はきっと星の数ほどにいただろう。

 それでも、皓月はリリィを選んだのだ。

 リリィが知らない理由が何か他にあるにしても、皓月の語る「結構好き」という言葉には嘘はないように感じられた。

 そもそもリリィを丸めこむための嘘であるのならば、「好き」だとか「愛している」だとか、もっとわかりやすいストレートな言葉だって選べるはずなのだ。


「だからね」


 皓月が言葉を続ける。


「可愛いだけじゃなくても、良いよ」


 可愛いだけじゃ、なくても。

 その言葉はすとんとリリィの胸に落ちた。

 リリィの目的は既に叶ったのだ。

 家を救う為に、金満家に嫁ぐ。

 その役割はすでに果たされつつあり、その夫となった男が「可愛いだけでなくても良い」と言っているのだ。

 改めて、手元のパンフレットへと視線を落とす。

 可愛いだけではない自分。

 それがどんなものなのか、今のリリィにはよくわからない。

 何を目指したら良いのか、何を学べば良いのか。

 ただ、せっかく与えられたチャンスは存分に楽しみたいと思った。


「………………もうちょっと、考えても良いん?」

「もちろん。ゆっくり考えてみてごらん」

「ありがとうなん」

「どういたしまして」


 そんな二人のやり取りが終わるのを見計らっていたように、ガベイラが三人分の食事の乗ったカートをテーブルの脇まで運んでくる。

 入れる人間を制限しているフロアであるため、わざわざガベイラが階下まで食事を取りにいってくれていたらしい。

 小さなテーブルは三人分の食事を載せるとわりとスペースがギリギリになる。

 というか、そもそもテーブルに椅子は向かい合わせの二脚しか用意されていない。

 てっきり食事の際にはソファか、別のテーブルに席を移すのかとリリィは思っていたわけなのだが。

 ガベイラは特に許可を取るようなこともなく、皓月のデスクチェアを無造作にがッとテーブルの横に引き寄せた。

 皓月も何も言わない。

 自分のデスクチェアをガベイラに使われても文句はないらしかった。


「それじゃあ食べようか」

「いただきます」

「いただきますなん」


 三人それぞれ手を合わせてから、食事に口をつける。

 お酒と合わせることを前提にしているのか、リリィにとっては少しばかり濃いめの味付けだとは思ったものの、蓮糸楼は食事も十分美味しいのだということがよくわかるひとときだった。


■□■


 家に戻ってからも、リリィはずっと皓月に渡された学校のパンフレットを眺めて過ごした。

 学校ごとに特色があり、それぞれ自慢とするカリキュラムがある。

 スポーツの強い学校、勉学に注力する学校、他国との交流に熱心な学校、挙げていけばキリがない。

 そのどれもがリリィにとっては目新しく、馴染がなかった。

 それ故、「選ぶ」というのがどうにもピンと来ない。

 基準がわからない。

 学校ごとに特色があることはわかった。

 だが、どれを選べば良いのかがわからないのだ。

 悶々と悩んでいるうちに夕刻になり、やがて皓月がガベイラと供に帰宅し、夕食を終えればあっという間に夜だった。

 昨夜は皓月の寝室へと招かれたけれども、今晩はどうなるのだろうか。

 今のところ何も言われてはいないけれど、言われなくとも寝室に向かうのが正解なのかどうか思い悩みながら全身を丁寧に磨いてから風呂を上がる。

 いろいろと考えてばかりだ。

 ひと先ず髪を乾かして、皓月から声がかからなければ自室で眠ってしまおうか。

 そんなことを考えながら部屋に戻って――……、ふと、風呂に向かう前にはなかったはずのものが部屋に置かれていることに気づいて足を止めた。

 書き物机の上に、美しい装飾の施された小箱と、その傍らに布に包まれた何かが置かれている。

 どちらも、浴室に向かう前にはなかったものだ。

 おそるおそる、布の塊を手に取る。

 ずしりと重いそれには心当たりがあった。

 そろそろ布を剥いだ下から出てきたのは、リリィが思った通りのものだった。

 昨夜、ガベイラに回収された短剣だ。

 きっと何かの拍子に鞘が落ちても怪我をしないようにとわざわざ布に包んで返してくれたのだろう。

 そもそも何故返してくれたのかは非常に謎だが。

 昼間にガベイラが言っていた通り、武器を扱う術を知らないリリィが多少武装した程度では敵にもなりえないから、なのだろうか。


「…………」


 それじゃあこの小箱の中身は、とリリィは小箱の蓋へと手をかける。

 木製の箱の表面に滑らかな布を張り、装飾を施したその風情はオルゴールのようにも見える。

 皓月からの贈り物だろうか。

 そろりと上蓋を持ち上げて……、リリィは思わず眉根を寄せた。

 クッションの上に横たえられているのは、一本のナイフだった。

 全体的に細身で、刃先には革製のシースがかかり、木製の柄には握る際に邪魔にならない程度に美しい装飾が掘りこまれている。

 そろりと手に取ってみる。

 先の短剣に比べると随分と軽い。

 その癖、シースの下の刃はぞっとしてしまうほどに鋭く研ぎ澄まされていた。

 いけないものを見てしまったような気がして、慌ててシースを戻す。

 これは、危ないものだとその艶やかなまでの白刃の煌めきが語っている。


「なんで……」


 確かに昨夜、皓月はリリィが持っていた短剣をなまくらと呼んだ。

 ガベイラもまた、それでは致命傷は与えられないだろうと語った。

 きっと、今リリィの手元にあるぴかぴかとしたナイフは、なまくらでもないし、ひとを相手に致命傷を与えることが出来るものだ。

 これは、皓月を殺せるナイフだ。

 そう思うと、自然とぎゅっと眉間に皺が寄った。

 ぎゅっとシースの上からナイフを握りしめて、リリィはとっとっと、と軽やかな足音をたてて小走りに皓月の部屋へと向かう。

 書斎の扉をノックして抜けて、招かれて、寝室へと足を踏み入れる。

 昨夜と同じ流れて迎えられた寝室で、昨夜とは違って皓月はまだベッドには入っていなかった。

 首元まできちりと止まった肌触りの良さそうな寝間着に身を包み、髪を下ろし、化粧を落とした姿でベッドに腰掛けて首をかしげている。

 ついドアの脇にガベイラが控えていないかと視線で探してしまっていると、今日はいないよ、と笑い交じりに教えられた。

 いたら良かったのに、と思う。

 ガベイラがいたならば、きっと皓月に何か言ってくれたはずだ。

 自分を殺せる凶器をリリィに渡してしまう皓月の危うさを、きっとガベイラなら叱ってくれた。


「どうしたの? 眠れない?」

「これ」


 握りしめていたナイフを、皓月へと差し出す。

 皓月の掌がそれを受け取る。

 それでようやくリリィは少しほっとした気持ちになったというのに、皓月は出来を確かめるようにその形の良い指先でナイフを弄んだ後、シース越しの刃先をもって柄をリリィへと差し出し返した。


「ちょっと握ってみてくれる?」

「…………」


 む、と眉間に浅く皺を寄せて、嫌ですの顔をしてみる。


「お願い。ね?」

「…………」


 渋々と手に取る。

 柄を握るリリィの手の上から、持ち方を教えるように皓月の手が重なる。


「……うん。良さそうだね」

「何が、どう良いん」

「姫の手にあってる」


 ふふりと、自らの目利きに満足そうに皓月が笑う。

 昨夜リリィの手に触れたのも、昼間リリィにいくかの重りを持たせて見せたのも、この為だったのだ。


「姫の手で扱いやすいサイズの刃物、となるとこれぐらい華奢になってしまうからね。どうしても殺傷力が落ちてしまうのが難なんだけれども――…、取り扱いの良さが第一だからね。刃が薄くて鋭い分、急所を狙えば十分に殺せるよ」


 語る声音は、いっそ楽し気ですらある。


「…………ガベイラに怒られなかったん?」


 こんなものを、用意して。

 口にはしなかった意図はしっかり通じたのか、皓月はますます楽しそうに笑った。


「ちょっと」


 怪しい。

 皓月には、ガベイラの忠告をスルーするという悪癖がある。

 きっと、ガベイラは皓月がリリィのためのナイフを用立てることに関して、あまり良い顔はしなかったはずだ。

 リリィの半眼に、皓月はひょいと肩を竦めて見せる。


「使い方、ガーベラくんが教えてくれるって言っていたよ。習うと良い。ガーベラくんはすこぶる腕の良いプロだからね。きっと損はしない」

「皓月は教えてくれないん?」

「僕は我流だからね」


 少し眉尻を下げて、それから皓月は口元に感情の読めない笑みを浮かべたまま首を緩くかしげて見せた。


「一緒に、寝る?」


 リリィの手の中には、ナイフがある。

 小さなリリィの手にも収まりの良い、それでいて十分にひとを殺すことの出来る鋭い刃を持った凶器がある。

 今のリリィには、皓月の申し出を断るだけの力がある。


「…………」


 リリィはゆっくりとナイフを持つ手を動かして――…ベッドサイドに置いた。


「いいの?」

「いいん」

「そう」


 呼気だけで笑うような柔く掠れた声音とともに、リリィの腰裏に皓月の手が回って引き寄せられる。

 そのまま布団の中にまで招かれて、リリィはぬっくりと皓月の懐の中へと抱きこまれる態勢に落ち着いた。

 だがそれだけだ。

 皓月の腕は緩くリリィの背を抱くだけにとどまっている。

 そして、リリィもまた少し身体を起こして手を伸ばせば「十分にひとを殺傷しうるナイフ」に手が届く。

 でも、しない。

 それは他でもないリリィの選択だ。

 すり、と傍らのぬくもりに頬を寄せて、リリィはぽしょりと呟いた。


「…………ガベイラ、絶対帰ってないと思うん」

「おやすみ、姫」


 誤魔化すように、笑みを含んだ皓月の唇がそっとやさしくリリィの額に触れていった。

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