第5話 夢かもしれない

『この後はそうだね、汗を流したら――…新婚らしく一緒に寝ようか』


 皓月にそう言われた後のことを、リリィはあまりよく覚えていない。

 頭の中が真っ白になって、「わかったん」ととりあえず返事を返して、アイスのカップを片づけて、自室へと戻った。

 そして、お風呂に入った。

 浴室はリリィの予想通り広々とした立派なものだった。

 洗い場も浴槽も、家族で入れそうなほどに広々としている。

 揃えられているソープ類も、リリィが実家で使っていたのとは違ってこそいたもののとても良い香りがした。

 清楚で、少し大人っぽい花の香りだ。

 皓月が、リリィのために見繕ってくれたのだろうか。

 念入りに髪と身体を洗い、バスタブに浸かって身体を芯から温める。

 行動に心がついていったのは、そのあたりでのことだ。

 これから、きっとリリィは皓月に抱かれる。

 夫婦になるというのはそういうことだ。

 新婚らしい、というのはそういうことだ。

 リリィとて、何も知らない子どもではない。

 夫婦が閨の中でどういったことをするのか、という知識はきちんと得ている。

 ちゃんと教えられた上で、リリィはこの家にやってきたのだ。

 だから、最初から覚悟は出来ていたはずだった。

 それなのにいざその時が来てしまえば、こんなにも動揺している。

 少しずつ湯が温んできたのに気づいて、リリィはざばりと湯を割ってバスタブから抜け出した。

 脱衣スペースの鏡の前に立つ。

 湯気に晒されても曇りもしない鏡に映るのは、実家にいた頃に何度も見たのと変わらない華奢な少女の身体だ。

 初々しく青い、まだ固く閉ざされた蕾のような身体だ。

 皓月は、この身体を抱くのだろうか。

 あのいくらでも相手を選べそうな男が、わざわざリリィの未成熟な身体を。

 彼は、まだ幼い少女の身体を暴くことを好む男なのだろうか。

 まだ固い蕾を優しく手ほどきして花開かせることを好むのか。

 それとも手ひどく踏みにじるようなやり方を好むのか。

 考えれば考えるほど、頭の芯がぼうと麻痺するような感覚に襲われる。

 恐ろしいから考えたくないのに、今からその恐ろしい目にあうのだと思えば懸命に何がおこるのかを予想してしまう。

 その一方で何が起こるのかがわかってしまえば恐ろしさに身が竦んで動けなくなってしまうだろうからと思考が麻痺する。

 そんな堂々巡りだ。

 身を蝕む恐怖を落ち着かせるための方法として、リリィはまるで儀式のようにいつもの手順を踏む。

 身体を拭いて、保湿ローションを塗りこみ、それから可愛いパジャマに着替える。

 白くてふわふわの、肌ざわりの優しい素材で出来たロングドレスのような仕立てはリリィのお気に入りだ。

 それからナイトガウンを羽織り、髪にも保湿のためのオイルを丁寧に馴染ませてから、備え付けのドライヤーで乾かしていく。

 濡れて艶やかにまっすぐだった髪が、空気を含んでふわふわと波打ち、次第に膨らんでいったところでこれまた丁寧に櫛を入れて落ち着かせる。

 それがリリィの風呂上りの儀式だ。

 いつもの儀式の手順を完璧に終えて、そこで改めて、完璧に終わってしまったからこそ、今から皓月の寝室に赴かなければならないのだ、と思い知る。


「…………、」


 呼気が震える。

 どうしよう。

 どうしたら、良いのだろう。

 怖い。

 とてもとても、怖い。

 部屋に戻って、クローゼットを開ける。

 クローゼットの一番奥には、くたりと中身を抜かれて萎んだボストンバッグがしまってある。

 夕食の前にしまったばかりのそれをひっぱり出して、その底に隠したままの短剣を取り出した。

 ひやりとした金属の質感が、ずしりとリリィの手に乗る。

 父親に言われた通りの筋書きで皓月を殺すなら、一番相応しいのは初夜だろう。

 金で買われた少女が、夫となった男に無体を強いられそうになって恐ろしくてつい、という筋書きを実行するならこの夜しかない。

 今リリィが抱えている恐怖に突き動かされたならば、父親にやれと言われたことが出来てしまうのかもしれない。

 風呂上がりだというのに血の気の失せた冷えた指先で、短剣の柄を握りしめる。

 自分が誰かを傷つけることが出来るかどうかも、リリィにはわからなかった。

 けれど、何か今自分が想像し、覚悟しているよりもずっとずっと酷いことが自身の身に起きそうになったときに、抵抗の手段があるのだと思うと少しだけ心のどこかが楽になるのは事実だった。

 ぎゅ、と冷えた指先で強く短剣を握って部屋を後にする。

 廊下は暗く、しんと静まり返っている。

 ぱたり、ぱたりとリリィのスリッパの足音だけがささやかに響く。

 廊下の奥から二番目の部屋、書斎を軽くノックして、開く。

 部屋は暗く、人の気配はない。

 この奥の、続きの間が皓月の寝室なのだと言っていた。

 書斎へと足を踏み入れ、寝室へと続くドアの前に立つ。


「……………………」


 右手に短剣の柄を痛いほどに握りしめたまま、左手でコン、コン、とノックをする。

 今度は中から「どうぞ」と寛いだ声音が応じた。

 応じられて、しまった。

 硬直する思考とは裏腹に、左手は勝手にドアノブへと伸ばされて、ドアを開けている。

 皓月はすでにベッドに横になっていた。

 ふかふかとした大きな枕に横臥の態で視線をリリィに向けている。

 長い黒髪がさらさらと白い枕に零れ落ち、目元の朱や耳元の飾りも今はその身を飾り立てる役目を終えている。

 薄暗い部屋の中、ベッドサイドの照明がぼんやりと皓月のそんな姿を浮かび上がらせていた。


「……おいで」


 皓月が、ぺろりと布団の端をめくってリリィを招く。

 その指先が黒革に覆われていないことに気づいて、どきりとリリィの鼓動が跳ねた。

 先ほどまで隠されていた部位が露わになっていることが、今が秘めやかなひと時であることを際立たせているかのようだった。

 根の生えたような足をなんとか一歩、二歩、と踏み出してリリィは皓月の横たわるベッドへと近づく。

 後ろ手に隠した右手には、短剣を強く握りしめている。

 けれど、手を伸ばせばすぐに届く距離までやってきたところでリリィはすっかり困って立ち尽くしてしまった。

 招かれるままにベッドに入れば、短剣を手にしていることはバレてしまうだろう。

 だからといって、現状無防備にただおとなしくベッドに横たわっているだけの男に先制攻撃をするつもりにもなれなかった。

 あくまでこの短剣は、身を護るために持ってきたのだ。

 何か恐ろしいことが置きたときに少しでも抑止力になれば、と。

 いうなればこの短剣は恐怖に負けずに皓月の寝室を訪ねるためのお守りのようなものだったのだ。 

 だが、短剣をもってこの場に現れたリリィを皓月はどう受け止めるだろうか。

 そんな簡単なことに今更気づいてしまって、リリィはベッドの傍らに立ち尽くす。

 どうすべきなのかがわからない。

 いっそ逃げ出してしまおうか。

 リリィの身体の重心がぐらりと後方に傾く。

 そのまま背後に一歩踏み出そうとして、


「ガーベラくん」


 皓月の静かな声音が響いたのは、その瞬間のことだった。

 びくりと固まったリリィの代わりに、ぬぅと背後から長躯が身を乗り出して、リリィが背中に握りしめていた短剣をいとも簡単に攫っていく。

 ぎくしゃくと振り返った先に立っていたのはガベイラだ。

 おそらくずっと、寝室の脇に控えていたのだろう。

 リリィはまったく気づかなかった。

 ずっと、そこでガベイラは短剣を後ろ手に隠し、立ち尽くすリリィのことを見ていたのに。

 ガベイラが検分でもするように短剣を鞘から引き抜く。

 皓月はどこか物憂げな眼差しをちらりと薄明りの下に浮かび上がった白刃へと滑らせて、それから面倒そうに「なまくらだね」と評価を一つ呟いた。


「そうだね」


 ガベイラが同意する。


「彼女の力じゃ正面から刺しても致命傷を与えるのは難しいと思うよ」

「そう」


 それきり、皓月の興味は失せたようで、酷く淡泊な相槌が返る。


「それ、頼めるかい?」

「了解」


 それが二人の会話の全てだった。

 ガベイラは短剣だけをもって寝室からさっさと出て行ってしまった。

 立ち尽くすばかりのリリィとベッドの中の皓月だけがその場に残される。


「…………ガベイラ、帰ったんじゃなかったん」

「彼は僕の護衛だからね」


 第一、帰るとは言ってなかったと思うよ、と少し笑いを含んだ声音が言う。

 思い返してみれば、確かにガベイラは「帰る」と明言してはいなかった。

 じゃあそろそろ、と言って席を立って見せただけだ。

 あのとき、玄関を出入りする音は聞こえただろうか。

 きっと、最初から疑われていたのだ。

 彼らの掌の上で踊らされていたことが少しだけ悔しくて、それと同じぐらいほっとする。

 やはりあの短剣はどうしたってリリィの手には重すぎた。


「…………これから、どうなるん?」


 小さく、聞く。

 知ってしまうのも怖かったけれど、知らない方はもっと怖かった。

 だというのに、リリィの硬く強張った問いに皓月は緩く首を傾げただけだった。


「これからって? とりあえず今日はもう寝ると良いんじゃないかな。君も荷解きで疲れただろう? ほら、いつまでも立ってないでおいで」

「………?」


 皓月の意図がわからなくて、リリィは警戒を滲ませた目で見つめ返す。

 たった今凶器である短剣をもって寝室に訪れたことが露見したというのに、不思議と皓月の眼差しにリリィへの敵意や怒りのような色は見当たらなかった。

 身にまとう雰囲気もとろりと眠たげに寛いだものだ。

 これもまた、何かの罠なのだろうか。

 リリィがどう動くかを試されているのだろうか。

 それとも、ベッドに招いて罰として手ひどく凌辱でもするつもりなのだろうか。

 そのどちらにしろ、リリィには選択肢はなかった。

 例えこの部屋から逃げたところで逃げ場はない。

 だから、リリィはぎこちない動きで皓月が招くようにめくっていた布団の端っこを持ち上げて、ぎくしゃくとベッドに上がる。

 するりと皓月の腕がリリィの腰に回って、その懐に引き寄せられる。


「ッ……!」


 思わず息をのみ、ぎゅ、と目を閉じて――

 ――それだけ、だった。

 乱暴に口づけられることもなければ、腰にまわった腕が不埒な動きでナイトガウンを引き剥がすようなこともない。

 ただ腕一本分の重みが緩くリリィの腰のあたりに乗っている。

 ただ、それだけだ。


「…………?」


 おそるおそる、瞼を持ち上げる。

 目の前には、きっちりと釦のかかった男の胸板がある。


「姫」


 穏やかな声音に呼ばれて、視線を擡げる。


「手、出してくれる?」


 言われるがままに、手を差し出す。

 その手首についと皓月の手が触れ、そのまま天井に向かって掲げられる。

 されるがままに翳されてリリィの掌を、皓月は薄暗がりの中何かを見定めるようにまじまじと眺めている。


「ちょっとごめんね」


 皓月の手が、リリィの手に触れる。

 だがその触れ方は性的なものというよりも、どこか吟味するような色が濃い。

 手の大きさ、指の長さ、太さ、そういったものを確かめるような手つきだ。

 皓月は一通りリリィの手に触れると、満足したように「もういいよ」と言って手を下ろさせてくれた。

 再び緩く皓月の右の腕がリリィの腰に載せられる。

 その手が、まるで寝かしつけでもするかのようにぽん、ぽん、とリリィの背を柔く撫でた。


「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみ、なん……?」


 よくわからないまま、挨拶だけはなんとか返す。

 皓月はふわりと口元を一度緩めて笑んだ後、実際に瞼を下ろしてしまった。

 すぅ、すぅ、との寝息が耳元をくすぐるがそれだけだ。


「………………」


 なんだか、すごい勢いでいろんなものに置き去りにされてしまったような気がして、リリィは皓月の腕の中で途方にくれる。

 何も恐ろしいことが起きなかった、ということはリリィにとっては良いことだ。

 だが、理由がわからないのは同じぐらい怖い。

 どうして、皓月はリリィが短剣を持ち込んだことについて何も言わないのだろう。

 ガベイラだってそうだ。

 皓月の護衛であるのならば、ガベイラは皓月を害そうとしたリリィを取り押さえるなり隔離するなりしなければいけなかったのではないだろうか。

 それなのにガベイラは短剣だけを持ち去り、取り残されたリリィは何故か皓月の腕の中で寝かしつけられている。

 明日になれば、わかるだろうか。

 明日に、なれば。

 リリィは、もぞりと身じろいで皓月の腕の中で丸くなる。

 もう眠ってしまおうと思った。

 今はもう考えたって何もわからないのだから、こうなったらもう眠るしかない。

 目を閉じる。

 きっと、次に目を開けるのは朝だ。

 昼間、車での移動中もリリィは眠っていたし、今だってこんな状況だ。

 寝ようと思って目を閉じても、なかなか眠れないかもしれないと覚悟もしていたのに、全身を包みこむ柔らかな体温にぬくぬくとあたためられてなんだかすぐに眠くなってきてしまった。

 何を考えているのかもわからない、得体のしれない男の腕の中だというのに、久しぶりの体温はなんだか随分と心地よく感じられた。


■□■


 ゆすり、と遠慮がちに身体をゆすられてリリィの意識が浮上した。

 ぼんやりと瞬いていると、頭上から穏やかな声音が降ってくる。


「おはよう、起きれそうかい?」

「…………おはようなん」


 ぽそぽそと、寝起きの掠れた声で挨拶を返しながらもぞもぞとリリィは身体を起こした。

 まだ少し頭がぼうとして、目が開かない。

 くしくしと目を擦りながら、昨夜のことを思い返して……はっと顔をあげる。

 先に起きていたらしい男は、すでに着替えを終えて身嗜みを完全に整えている。

 モノトーンの落ち着いた東洋の装束に、目元に刷く朱が鮮やかだ。

 しゃらりと長く垂れる耳飾りを揺らして、皓月はリリィの視線に向かって「なあに」とでも問いかけるように首をかしげている。

 まるで、何もかもが夢だったかのようだ。


「ガーベラくんが朝食を用意してくれているからね。着替えたら下に降りておいで」


 こっくり頷いて、ベッドから降りる。

 廊下に出ると、下から立ち上る良い香りが鼻先をかすめた。

 トーストを焼く香りと珈琲の香りが混ざった朝の匂いだ。

 一度部屋に戻り、着替え、顔を洗い、身嗜みを整えてから階下へと降りる。

 皓月は先に降りていたのか、すでに食卓についてフルーツをつまんでいるところだった。

 薄皮まで丁寧に剥かれた瑞々しいピンクのグレープフルーツを刺したフォークを口に運ぶだけの所作ですらやたらと絵になる。

 そこに狐色にこんがりと焼目のついたトーストを三枚と、マフィンを一つ載せたお皿をガベイラが運んでくる。

 三つ揃いのスーツの、ジャケットを脱いで少しだけラフな恰好だ。

 食卓にはすでにバターとジャムが並んでいる。


「ああおはよう、姫。昨夜はよく眠れた?」


 眠れた、だろうか。

 眠れた、のだろう。

 あんなことがあってきっと眠れないだろうと思っていたはずなのに、リリィは結局皓月の腕の中で朝まですやすやと安らかに寝入ってしまった。


「こっち、座ったら?」


 ガベイラが、皓月の隣の椅子を引く。

 促されるように、リリィは皓月の隣へと腰掛けた。

 ガベイラは皓月の正面に座る。


「これが昨日言ってたマフィン。オレンジのピールが入ってて美味しいんだよ。あ、足りなかったらトーストも焼くから言ってね」


 目の前には艶々としたピンクグレープフルーツが取り分けられた小皿と、なみなみと注がれたミルクのコップが置いてある。

 リリィがそろりと手を伸ばしてマフィンを手にとるのを微笑ましそうに眺めながら、ガベイラはテーブルの中央に置いた皿からトースト一枚取り上げると、薄くバターを塗って、皓月へと手渡した。

 皓月は皓月で、渡されたトーストをおとなしくもぐりと齧っている。

 当たり前のように行われた一連の流れが、どうにもあまり当たり前ではないような気がして、リリィは思わず皓月とガベイラの間で視線をうろりとさせた。

 視線に気づいたのか、ガベイラが言いつける声音でぼやいた。


「皓月、放っておくとそのまま食べるんだよ」

「そのままでも十分美味しいよ」

「最悪焼きもしないで食パンそのまま塊からむしって食べてるか、水だけで済ませようとするからね」

「そのままでも十分美味しいよ」


 大事なことなのか、皓月は二度繰り返した。

 ふふ、と思わずリリィは笑ってしまう。

 昨日自分でも言っていたように、皓月という男は食事には無頓着な質らしかった。

 あれば食べるし、なければ食べないのだろう。

 そして、ある程度胃に入って空腹を満たしてくれさえすれば何でもよい、とばかりに食事に手間をかけるということもひとりであればしないのだ。

 ガベイラが呆れたように溜息をつく。

 一方そんなガベイラは、健啖家だ。

 薄くバターを塗ったトーストの上に、マーマレードをこれまた薄く伸ばして、がぶりと豪快に齧りついている。

 食べることを楽しんでいるし、生きることを楽しんでいる。

 溌剌とした生命力に満ちている。

 皓月とは対照的で、まるで月と陽の組み合わせのようだ。


「そういえばね、姫」


 ふと皓月が口を開くのに誘われたように、リリィはそちらへと目を向ける。

 片手に珈琲のカップを浮かせながら、皓月は言葉を続けた。


「僕たちはこれから仕事に向かうつもりなんだけれど、姫はどうしたいかな」


 思わず首をかしげてリリィはぱちくりと硝子色の双眸を瞬かせた。

 どう、したいのか。

 それはリリィにとっては困ってしまう質問だ。

 どこまで許されているのかもわからない中で希望を答えることに、リリィはあまりに不慣れだ。

 選択肢が欲しい。

 リリィが困っているのを察したのか、皓月が質問の内容を変える。


「実家にいたときは日中はどう過ごしていたのか教えてくれる?」


 ほっとする。

 これなら答えられる。


「本や雑誌を読んだり、テレビを見たりして過ごしてたん。可愛いもの、見るの好きなん。家庭教師の先生がきたら勉強を見てもらって、そうじゃない日は先生が出してくれた宿題をやったりしてたん」

「そう。姫はこれからも家庭教師が良い? 学校に通ってみる気はない?」

「がっこう」


 リリィは目をまんまるにして復唱する。

 数年だけ、通っていたことがある。

 兄が実家を出てから少しして、ある日風邪を引いて学校を休んだあの日から、リリィは病弱であることを理由に教室に戻ることが出来なくなった。

 もうだいぶ記憶は薄れてしまったけれど、友達がいて、楽しかったことは覚えている。


「…………いいん?」

「いいよ」


 答えは即答だった。


「幾つかパンフレットを見繕ってくるから、それからどこが良さそうか、どんな学校が良いのか一緒に考えようね。それじゃあ……、今日のところはうちで留守番でも良いかな。ランチの時間にはガーベラくんを迎えにやるからね。外で一緒に食べよう」

「わかったん」


 二人がそんな話をしている間に、ガベイラはてきぱきと食卓を片付け始めている。

 見れば、二人の皿はすでに空っぽだ。

 リリィが慌ててグレープフルーツをフォークで刺そうとするのに、二人が小さく笑った。


「いいよ、姫はゆっくり食べてて。お皿はシンクにおいといてくれたら後で僕が片づけるよ」

「それじゃあ、行ってくるね。留守番、よろしく頼むよ」


 そう言って立ち上がった皓月が、そっと姫の前髪を撫でつけるように持ち上げて額に口づける。

 優しい触れ方だった。

 暖かな慈しみだけが伝わってくる。

 そうして、二人そろって玄関に向かったところで、はた、と思い出したようにガベイラが足を止めた。


「あ、そうだ。姫に注意があるんだった」

「注意?」

「僕たちがいない間、誰が着てもドアは開けないようにね。来客の類は全部こっちで管理しているし、記録しているから、姫が出る必要はないよ。それと、これはお願いなんだけど、出来れば一人ではまだ出歩かないでほしいんだ。まだ姫はこの辺りに不慣れだし。外に出かけたいと思ったら、僕に連絡してくれる? 僕自身か……、都合がつかなければ誰か部下をつけるから」

「不自由を強いてすまないね」

「平気なん」


 平気だ。

 家から出られないはこれまでだってずっとそうだった。

 窓からぼんやりと、庭で穏やかに戯れる義母とその息子の様子を眺めることしか出来なかった日々に比べれば、付き添いがあれば外に出られるのだと思えば心が踊ってしまうほどだ。


「あ、そうそう。これも渡しておかないと」


 そう言ってガベイラが懐から取り出したのは、薄く艶のある小さなプレートのようなものだった。


「…………?」

「スマホ、見たことない?」

「お父様が使っているのは見たことあるん」

「使い方は簡単だよ」


 ガベイラがリリィの方へと端末機体を差し出し、操作の仕方を教えてくれる。

 電源の入れ方、電話のかけ片、メッセージの入れ方。

 そして簡単なインターネットの操作方法。


「ネットで調べればアプリなんかも入れられるようになるから、好きに使ってくれて大丈夫。……大丈夫なんだよね?」

「もちろん」

「だってさ」


 皓月の同意をリリィの目の前で得て見せて、ガベイラがにっこりと笑う。


「今はとりあえず僕と皓月、あとベル伯爵の番号だけいれてあるから、何か困ったらかけてきてね。もしかしたら仕事の具合によっては出られないこともあるかもしれないけど、落ち着き次第折り返すから」

「わかったん」


 これが電話帳ね、とガベイラが開いて見せたページには確かに三人分の名前と番号が並んで記載されている。

 黒く、すべらかで、艶やかなそれをリリィはそっと手にとってみる。

 思っていたよりも重みがある。

 それが自分のものなのだと思うと、なんだかじわりと嬉しくなった。

 誰とでも繋がれる。

 世界と、繋がることが出来る。

 それは今ままでリリィには与えられてこなかった自由だ。

 嬉しげに口元を綻ばせたリリィの髪をくしゃりと撫でて、「それじゃあまた昼に」とそれぞれ挨拶を残して皓月とガベイラは家を出ていく。

 それを見送って、リリィは再び食卓に戻る。

 ガベイラおすすめの刻んだオレンジピールを混ぜてふんわりと焼きあげられたマフィンは確かに美味しかった。

 グレープフルーツとコップのミルクも空にして、使った食器をキッチンのシンクに運ぶ。

 ガベイラが後で片づけると言っていたけれど、お皿を洗うぐらいにならリリィにだって出来る。

 シンクに残っていた三人分の食器を綺麗に洗って、拭いて、食器棚へと片づける。

 それから、てくてくと自室へと戻った。

 べふりとベッドに仰向けに身体を沈める。

 そこでようやく、


「??????」


 疑問符が頭の中を盛大に飛び回った。


「なん……????」


 戸惑いに満ちた鳴き声のような声が思わず零れる。

 昨夜、リリィは確かに皓月を殺そうとしたはずなのだ。

 いや、確かにリリィにそのつもりはなかった。

 あくまでお守りのつもりではあった。

 だが、第三者から見れば、リリィは初夜に閨に短剣を持ち込もうとした花嫁である。

 そしてそれを夫と、その護衛に見つかり、短剣を奪われたのだ。

 それなのに、花嫁に命を狙われた、という立場であるはずの皓月は何も気にした様子もなくリリィを抱き枕にしてすややかに眠りにつき、ガベイラはこれまた何事もなかったかのように美味しい朝食を用意してくれた。

 なんだか、昨夜の出来事が全てリリィの脳内でしか起きていない悪い夢だったような気すらしてしまう。

 そうでなければ説明がつかないほど二人の態度は至って普通で、親切なものだった。


「…………………………夢だった?」


 むくりとリリィは身体を起こすと、そっとクローゼットを覗き込む。

 くたりと萎んだボストンバッグを引っ張りだす。

 この中に今もあの短剣があったならば、きっと昨夜のことは緊張したリリィの見た悪い夢だったのだ、ということにしてしまえる。

 そんな一縷の望みをかけて開いたボストンバッグの中は、やはり空だった。

 念のため逆さにひっくり返して振っても見たものの、埃すら出てこない。

 どうやらやはり夢ではなかったらしい。

 ということは、あの二人は昨夜リリィが凶器になりうる短剣を携えて初夜に挑んだことを承知であの態度だったということになる。

 わからない。

 あの二人が何を考えているのかが、わからない。

 結局リリィは、昼すぎにガベイラが迎えに来るまで悶々と頭を悩ませることになった。


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