第4話 夫となる男


 なんやかんや、話はまとまったらしい。

 リリィにはよくわからないままに、蓮糸楼のオーナーである男とリリィの結婚は無事に父親の同意を得て正式に成立したようだった。

 パーティーの夜以降も、やはり男の肩書が気になるのか多少渋る様子を見せていた父親だったが、何度かのやり取りを経て結局最終的には首を縦に振らされた。

 父親が頷かざるを得なくなるようなものを、あの男は提示して見せたのだ。

 まあそうだろうな、とリリィは思う。

 リリィから見ても、父親と彼とでは役者が違う。

 彼のほうが一枚も二枚も上手だ。

 そんなわけでいよいよ本格的にリリィの結婚の話は進み始めたわけだったのだが。

 ここで問題になってくるのはリリィの年齢だ。

 シスタリアの法律では男女ともに親の承諾があることを条件に16歳から結婚することが出来る。

 が、現在リリィは14歳なのである。

 さすがの父親も、戸籍には手出しできない。

 そのため、リリィが16歳になるまでは事実婚の形で通すことが決まった。

 籍は入れないままに、夫婦として暮らすのだ。

 建前上は許嫁ということになる。

 どこかから指摘が入るようなことがあれば、いずれ結婚することが決まっているため、少しずつ慣れるために同居に踏み切った、とでも言うような説明をすることになるだろう。

 そう父親から告げられて、数日。

 ついに今日、リリィは実家を出る。

 リリィが両手で抱えられるほどのボストンバッグの中に、部屋に残っていた数日分の着替えや、ちょっとした身の回りの小物をしまっていく。

 他のものはほとんどもう送ってしまった。

 家具の類は新たに買い揃えたため、何も持ってくる必要はないと言われている。

 それはおそらく気遣いでもあるのだろうが、幼い頃より慣れ親しんだ家具のほとんどを置き去りに実家を出るのはなんだかとても心細い気がして、リリィはそっとベッドの上に置かれたままの、ひとかかえほどの大きさのクマのぬいぐるみに目をやった。

 大切に扱ってはきたものの、それでも年月には勝てず、中の綿が潰れてどこかくったりとしたクマのぬいぐるみは、リリィを産んですぐに亡くなった母親がリリィのために用意しておいてくれたものだ。

 本当は、このクマだけでも連れていきたかった。

 リリィにとっては母親の形見であり、学校に通わせてもらえなくなってからはずっと唯一の友達でもあった子だ。

 けれど、父親には子どもじゃあるまいしそんなくたびれたぬいぐるみを婚家に持っていくなどあまりにみっともないと言われて却下されてしまった。

 やわらかく、指先に馴染むぬいぐるみの表面を撫でる。

 父親は、このぬいぐるみを残しておいてくれるだろうか。


「……だめな気がするん」


 しょもりと呟く。

 元より、リリィには富んだ家に嫁ぐという役割しか父親に与えられてはいなかった。

 父娘らしい交流など、まだ兄が家にいた頃に多少あった程度だ。

 ここ数年はほとんど会話らしい会話すらなかった。

 リリィがいなくなれば、この部屋は封をするように閉ざされて忘れられるか、すぐに中身を入れ変えられてリリィの痕跡を消されるかのどちらかだろう。

 できれば、前者であってくれたら良いとリリィは思う。

 そうであったのならば、いつか迎えに来ることも叶うかもしれない。

 コンコン、とドアが鳴った。

 顔をあげたところでドアが開き、父親が顔を出す。


「パパの可愛いお姫様、下に皓月氏が迎えに来てくれたよ」

「……はい」


 名残惜しい気持ちを押し隠して、リリィは丁寧にクマのぬいぐるみをベッドに座らせる。

 さよならの言葉を小さく口の中で呟き、ボストンバッグを持ち上げようとして。


「まちなさい、お前に話がある」

「おとう、さま?」


 呼び止められて、首を傾げる。


「いいかい、パパの可愛いお姫様、お前にね、渡しておくものがあるんだ」


 そう言って、父親がリリィへと差し出したのは――……短剣、だった。

 リリィにはそういった知識がないもので、正式な名称はわからない。

 だが、父親に手をとられ、手のひらに載せられたそれはナイフと呼ぶには少しばかり大きいような気がした。

 ずしりと、重い。

 そして、取り落してしまいそうなほどにひやりと冷えていた。

 得体のしれない凶器への拒否感が、そんな風に感じさせるのかもしれない。


「……お父様、これは」

「お前の夫となる男は、サザルテラを根城にカジノを営む野蛮な成り上がりだ。出自すら定かじゃない。前科こそないものの、裏で何をしているやら」


 嫌悪の滲む声で、父親は言う。

 この数日の間に、人を使って調べさせたのだろう。

 父親の言葉にリリィの心は冷えていくばかりだ。

 そんな男に、娘を嫁がせようとしているのはどこの誰だ、と言ってみたくなる。

 子どものように泣きわめいて責めたなら、父親はどんな顔をするのだろう。

 ほんの少し、そんなささやかな夢想が胸をよぎるものの、リリィはまるで他人事のようにぼうと父親を見つめ返して言葉の続きを待つ。


「もしもね、あの男がお前に乱暴するようなことがあったのなら、それで身を護るんだよ。いいかい、パパの可愛いお姫様。お前のような子どもに手を出す男なんて、ロクなものじゃないんだからね。我慢などしてはいけないよ。パパも、世間も、みんなお前の味方だ。だから、躊躇ってはいけないよ」

「……っ」


 ぎゅ、と痛いほどの力で、短剣を持つ手の上に掌を重ねられる。

 心配するような顔と、声で――実際本人は、そう装っているつもりだし、もしかすると装っているという自覚すらないのかもしれない――父親は諭すように言う。

 娘の安否を気遣う父親のような口ぶりで、ただしその目だけに追い詰められた色がぐるぐると渦をまいているかのように昏い。

 光のない、不気味な目だ。

 その目が何よりも切実に、夫となる男を殺してほしいのだと告げていた。

 男の財産を狙ってのことなのか、他に何か思惑があるのかはリリィにはわからない。

 リリィ自身の人生だというのに、リリィにはわからないことが多すぎる。

 それでも、14歳の子どもでしかないリリィは濁流に身を任せる木の葉のように諾々と流される他はない。

 渡された十代の少女には重すぎる短剣を言われるがままに受けとることしか出来ないのだ。

 父親が、にこりと笑う。


「皓月氏がお待ちだよ」


 たった今殺せと口にしたのが嘘のように穏やかに促される。

 リリィはぎくしゃくとした動きで短剣をボストンバッグの中へとしまった。

 持ち上げたトランクケースは先ほどよりもずっとずっと重く感じる。

 部屋を出る足取りもまた、夫の迎えを待つ新妻というよりもいっそ処刑場に赴く罪人めいて重い。

 父親に先導されるままに階段をおりていく。

 玄関ホールには、男が立っていた。

 あのパーティーの夜に会った男だ。

 蓮糸楼のオーナーだ。

 ……そのはず、だ。

 一見すると別人のように見えるのはその身に纏う装束のせいだろう。

 東洋の民族衣装、とでも言えば良いのだろうか。

 裾に濃紫の刺繍のあしらわれた白の長袍に、黒の下衣を合わせ、腰回りには飾り紐とアンティークゴールドの飾りをしゃらりと垂らしている。

 デビュタントの夜は目元を隠すように下ろされていた長めの前髪も今日はサイドを上げる形で複雑に編みこまれ、露わになった片耳には長い房の飾りが揺れる。

 目元に朱を刷いた紫闇の双眸が階段の途中で思わず足を止めてしまった姫を見上げて、ゆるりと笑みの形に細くなった。

 リリィの知らない、異国の美しい神様のようだと思った。


「やあ、こんにちは」

「こんにちは」


 残りの数段を、一歩、二歩、と確かめるようにして降りる。

 男に見惚れて踏み外すなんてことにでもなったら、あまりにも恥ずかしい。


「準備は良いかな」

「はい」

「お父様にご挨拶は?」

「済ませました」


 あれを別れの挨拶と言って良いのかどうかは知らないが。

 ただ、これ以上リリィには父親とかわすべき話題が思いつかなかった。

 少なくとも、今は。


「では、ベル伯爵」

「娘を、どうかよろしくお願い致します」

「ええ、もちろん。幸せにしますとも。そして……、彼女の夫としてベル家の一員として迎えてくださったベル伯爵、あなたのお心の広さに感謝致します。これからは僕もベル家の人間として恥ずかしくない振舞いをすると約束しましょう」

「そう言っていただけると安心できます」


 白々しい会話を交わして、男と父親が交互に頭を下げあう。

 それから男は、軽く背後を振り返って声をかけた。


「ガーベラくん」


 声の応えるようにして入ってきたのは、デビュタントの夜に蓮糸楼のオーナーのふりをしていた護衛の男だ。


「荷物、頼めるかい?」

「了解」


 護衛の男はリリィから荷物を受け取ると、軽々と車へと運んでいってくれる。

 リリィにとっては十分重くて大きかったボストンバッグも、彼にかかるとちょっとした手荷物の扱いだ。

 

「さて、それじゃあいこうか」

「…………」


 リリィの空になった手に向かって、男が手を差し出す。

 そろりと重ねれば、柔らかに包み込むように握られた。

 その手を覆う黒のショートグローブは上質のラム革製だろうか。

 薄い生地ごしに体温が伝わる分、感覚的には互いに素肌で手を繋いでいるようにも感じられる。

 けれど、確かにそこには隔たりがある。

 それはなんだか、リリィとこの男の関係の象徴のようにも感じられた。

 お互いに思惑があっての結婚だ。

 うまく表面を取り繕っても、気持ちが通じているわけではない。

 玄関先にとめてあった車のドアを、護衛の男が開けてくれる。

 リリィが後部座席に乗り込んだあと、続いて夫となった男もリリィの後に続いた。

 二人並んで後部座席に収まったところで、静かに車が振動もなく滑らかに走り出す。

 家族の見送りはなかった。



■□■



 どれくらい走っただろうか。

 車中は静かなままだ。

 ベル家の敷地からだいぶ離れたところで、リリィはじっと自分のつま先を見つめていた視線を隣へとやって、ぽつりと口を開いた。


「あの」

「うん?」


 黙ってはいたものの、決してリリィから注意をそらしていたというわけではなかったのだろう。

 車のエンジン音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だったというのに、男は当たり前のように首をかしげてリリィへと視線を流す。

 その拍子にさらりと零れた長い前髪を、黒の指先がかきあげて耳にかけた。

 そうすると目元の朱がよく見えて、どきりとする。

 シスタリアでは、男性の化粧というのはそれほど一般的ではない。

 だというのに、リリィの夫となる男にはそれが不思議なほどよく似合っている。

 決して女性的というわけではないのに、あまりにもしっくりとくるのだ。

 そういう人なのだと、そういう男なのだと周囲に思わせる説得力のある似合いよう、とでも言えば良いのだろうか。

 言葉の続きを促すように視線を向けられて、リリィはとつとつと言葉を続ける。


「お名前を、教えていただけますか。どうお呼びしたら良いのか迷って、いて」


 男が父親に名乗った名前は覚えているのだ。

 あの晩彼は、蓮糸楼の皓月と名乗った。

 だが、それだけだ。

 リリィは、自分の夫となった男の家名すら知らないままに、こうして車に乗せられている。


「僕のことは、皓月と。ただの皓月だ。家名、なんていう大層なものはなくてね」

「こうげつ……、さま?」

「呼び捨てで良いよ」

「…………こう、げつ」

「そう」


 一回りほど年の離れていそうな男を名前で呼び捨てにする、なんていうのには流石に抵抗があったものの、男、皓月はリリィが口に出した呼び名に大変満足そうにほそりと双眸を細めた。


「そちらで運転をしてくれているのがね、ガーベラくんだ」

「ガベイラ。ガベイラだよ。アルトゥーロ・ガベイラって言うんだ。僕のこともガベイラ、って呼んでくれたら良いよ。皓月の護衛とか、あとまあ身の回りのこまごまとした雑用とかを引き受けてる。ああ、それとたまに影武者も」


 ガベイラ、と訂正するように口を開いた運転席の男が、ミラー越しににっこりと笑いながら悪戯っぽく言う。

 立場としては皓月の部下、に当たるのだろう。

 だが、上司であるはずの男を名前で呼び捨てにするあたり、随分と近しい仲であることがリリィにも窺い知れた。 


「ガベイラ」

「うん」


 試しに呼んでみれば、こちらもまた気を悪くした様子もなく当たり前のように返事が返ってくる。


「君のことは何と呼んだら良いかな。家族にはなんと?」

「…………、」


 少し言葉に迷ってから、ひめ、と小さく答える。

 父親は、リリィのことをお姫様と呼んだ。

 パパの可愛いお姫様、と。

 以前は、兄が家を出る前は、ちゃんと名前で呼ばれていたような気がするのに、いつの間にか名前では呼ばなくなった。

 リリィが家を出る最後まで、名前では呼ぼうとしなかった。


「ひめ」


 その二文字を、皓月が唇に馴染ませるように復唱する。

 それから、ゆるゆるとその口元が笑みの形に綻んだ。


「可愛くて良いね。僕たちもそう呼ばせてもらおうかな。姫、て呼んでも良いかい?」


 拒否する理由はないと思ったもので、リリィはこくりと頷く。

 どう呼ばれても、どうせ同じだと思った。

 どうせ彼らにとっても、リリィは何か目的を達成するために必要な道具なのだ。

 リリィという個人を見ているのではなく、『ベル伯爵家の娘』という肩書でしか見ていないのだから、名前で呼ばれなくとも当然だ。

 そんな日々にはすっかり慣れ切っている。


「ああ、それとね」


 何気ない口調で会話を続けられて、リリィはふと自然と伏せがちになっていた視線を再び擡げて彼の顔を見た。

 紫闇の双眸が存外に優しい色を浮かべているのに、リリィが戸惑っているうちに皓月は穏やかな調子でさらりと言葉を続ける。


「口調、いつもので良いよ。かしこまらないで。ほら、僕たち夫婦なんだし。パーティーの夜は、もっと砕けた口調だっただろう?」

「……あれ、は」


 なんと続けたものか、とリリィは唇をきゅ、と咬む。

 困る。

 困ってしまう。

 あの口調は、素、といえば素、なのかもしれないが、どう考えても『ベル伯爵家の娘』に相応しいものではない。

 ただ単に長い間一人で、リリィが『可愛い』の形を求めてこねくりまわした概念が作り上げてしまったものだ。

 あの夜は、取り繕う余裕がなかったから見せてしまっただけで。

 本来は家族以外には、見せるつもりなどなかった。

 それだって家族にだから見せる、というような特別な意味があってのことではないのだ。ただ、家族であれば『ベル伯爵家の娘』として相応しくない行動をしたところで内々のことであれば特に問題にはならないとわかっていたから、というだけのこと。

 見せる必要などなかった。

 素のリリィなんて、誰も見ないと思っていたから、誰も必要としないだろうと思ったから、せめて一人のときぐらい『ベル伯爵家の娘ではないただただ可愛い何か』に思いっきりなりきってやろうと思っただけだった。

 なのに、リリィの夫となる男はそれで良いと言う。

 

「……本当に、良いん?」


 わざと、隠さずにいつものトーンで問う。

 少しだけおどおどと揺れてしまった細い声音には気づかないふりをして、皓月の目元が笑みの形に細くなる。


「可愛いね」

「……っ」


 柔らかな低音に甘く褒められて、どきりとリリィの胸が跳ねた。

 そっと胸に手をあてる。

 とっとっと、といつもよりも早いペースで脈打つ鼓動に、ますます動揺してしまった。

 言われ慣れた言葉のはずだった。

 なんていったって、リリィはこれまで『可愛い』を追及してきたのだから。

 父親はもちろん、家に出入りする大抵の人々には「可愛い」と言われてきた。

 けれどそれは、『ベル伯爵家の娘』として振舞うリリィに対して向けられてきた言葉だ。

 リリィ自身に向けられた賞賛というのは存外に少ない。

 思えば、デビュタントの夜に蓮糸楼のオーナーとして振舞っていたガベイラに言葉を向けられたときにもそうだった。

 あのときも、ガベイラの言葉がリリィ自身に向けられているものだと思ってしまったとたんに、ぽろりと零れ落ちるように素の言葉が出てしまった。

 対人経験の浅さが、出てしまっている。

 気を付けないと、と改めて胸の内で呟きつつ、リリィは火照った頬を誤魔化すように窓の外へと視線を流した。

 窓の外では代り映えのない穏やかな田園風景が次々と右から左へと流れていっている。

 ベル伯爵家の屋敷のあるローランドはシスタリアの中でも農業や牧畜を中心に行われている風光明媚な地域だ。

 窓から見えるのは、森や丘、畑ばかり。

 この穏やかな故郷を後にして、リリィは遊興都市として名高いサザルテラへと貰われていく。

 ローランドからサザルテラまでは、だいたい車で3、4時間程度だ。

 リリィにはほとんどローランドから出た記憶がない。

 雑誌やテレビ、本でしか見たことのないサザルテラはどんな場所なのだろうか。

 三人を乗せた車は、滑るようにサザルテラへと続く道を走り続ける。


■□■


 全身を包んでいた心地良い振動が止まったのに気づいて、ふとリリィの意識が浮上した。

 ぼんやりとした中で、男二人の声が聞こえてくる。


「まだ眠ってるみたいだし、抱いて運んじゃう?」

「いやでも気づいたら見知らぬ部屋、というのはなかなか怖いものがないかい……?僕だったら窓から逃げる」

「たぶんそれ皓月だけだよ」

「そうかな……」


 うとうと、とまだ心地良い微睡の中でそんな会話をぼんやりと聞いて……この声の主たちは一体誰だっただろうかと考えたところで、ようやくリリィの意識ははっきりとした。

 ぱち、と目を開けたところで、覆いかぶさるようにリリィを覗きこんでいた紫の双眸と視線が重なる。


「…………」

「…………」


 お互いのリアクションを待つような、不思議な間が数秒。

 どうしようか迷って、どうやら自分がサザルテラへと向かう車の中で眠りこけてしまっていたらしいということに気づいたリリィは、「寝てたん……」と素直な自己申告を口にすることにした。


「うん、そうだね。よく眠ってたよ」


 ちょいと皓月の黒革の手套に包まれた指先が、リリィの前髪を整えてくれる。

 子どもを愛でるような優しい所作だ。

 いつの間にか外に立っていたガベイラが、ドアに凭れて眠っていたリリィが間違っても外に転がり出てしまったりしまいようにと、開けるよ、と一声かけてからゆっくりとドアを開けてくれる。


「降りれそうかな。もうちょっと車で休む? それとも抱いて運ぼうか?」


 思わず驚いてしまうような過保護な申し出に、リリィは内心目をぱちくりとさせてしまった。

 まるで本物のお姫様扱いだ。

 リリィ自身はあくまで家への支援と引き換えに売られた身の上であると理解しているのだが、どうも彼らの扱いは金で好きにして良いものに対するそれではないように感じてしまう。

 内心目を白黒させつつも大丈夫なん、と告げて自分で車から降りる。

 車は、一軒の洋館の玄関ポーチ前に横づけにされていた。

 ここが、皓月の私邸なのだろう。

 夕暮れ時の薄闇の中、ポーチの下だけがくっきりと明るく浮かび上がっている。

 実家であるベル伯爵邸よりはこじんまりとしているが、一人暮らしの男が所有するには随分と大きな一軒家だ。

 晧月が手馴れた所作でロックを解除し、玄関の扉を開く。

 ぱちりと明かりをつけて、それからリリィを振り返った。


「――おいで」


 呼ばれて、皓月の少し後ろまで距離を詰める。

 隣に並ぶのはなんだか図々しい気がしてそうしたのだが、皓月本人は緩く首を傾げたままリリィが隣に来るのを待っている。

 もう数歩、前に出て皓月の隣に並んでみる。

 皓月は満足したようにそっとリリィの背を柔らかく押すようにして、改めて案内を始めた。


「玄関ホールの正面にある階段は二階に続いていてね。僕の部屋や君の部屋、そういったプライベートな部屋は大体二階にあるようになっている。左側にあるのが応接間で、滅多にないけれども――…来客などがあるような時にはそちらに通すことになるかな。誰か来るような予定があるときは君にもちゃんと知らせるようにするよ。右手にあるのがキッチン、ダイニング、リビングだ」


 ゆるゆるとした足取りで実際に歩きながら、皓月は一部屋ずつ丁寧にリリィへと説明をしてくれる。

 壁も床も家具もよくよく手入れされているのか、まるで新品同然だ。


「ここがキッチン。基本的にこの家にあるものはなんでも好きに使ってくれて構わないよ。冷蔵庫の中にあるもの、戸棚にあるもの、そういうものは自由に飲み食いしてくれて大丈夫だよ。まあ……、その、僕があまりそういったところに気が付かない人間だから、食べたいものや好きなものはガーベラくんに伝えておくと良いかもしれない。適当に買って入れといてくれると思う」


 実際がぽりと皓月が開けて見せてくれた冷蔵庫の中には、ほとんど食材らしいものが入ってはいなかった。

 果物と、いくらかの種類のジュースと、ミルク、といった飲料類が中心だ。


「料理も含めて家事のほとんどは外注でね。君がきてからもそのままの形を続行しようかと考えているんだけどどうかな。何か人に触られたくないものだとかはあるかい?」

「大丈夫なん」

「良かった。ああ、そうだ。こう……、了見が狭くて申し訳ないのだけれども、ハウスクリーニングだとか業者を入れるのは基本的には下の階まで、ということにしてあってね。二階の自室周りに関しては自分で管理することになってしまうのだけれども大丈夫かな?」

「大丈夫なん」


 こっくりと頷く。

 この調子で、皓月はリリィに一つ一つ了解をとりながらこの家で暮らす上でのルールを丁寧に説明してくれる。

 洗濯もハウスクリーニングの人間が行うため、週に二、三度ハウスクリーニングの日には洗濯ものをまとめたランドリーバッグを一階の玄関ホールに用意しておくこと。

 出し忘れたり、追加で出したいような時には一声かけてくれれば予定外の日でも取りにきてもらうことは可能だということ。

 一通り一階の案内を終えると、次は二階だ。


「一番奥から一つ手前が僕の書斎でね。そこの続きの部屋が僕の寝室になってるよ。家にいるときは書斎かリビングにいる事が多いかな。そして……、ここが君の部屋だ」


 おそらくは意図的に、だろう。

 リリィのために用意された部屋は、家主である皓月の書斎及び寝室とは一番離れた部屋だった。

 一度部屋の前で足を止めて、皓月は説明を続ける。


「隣に浴室とトイレがそれぞれあるよ。ソープ類はとりあえず今回は僕が用意したものがおいてあるんだけれど、もしお気に入りのものがあるようだったら後でガーベラくんにでも伝えてくれるかい? すぐに用意してもらえると思うからね。ああそれと……僕の部屋には別に浴室とトイレがついているので、ここは君専用だと思ってくれて構わないよ」


 さらりと言われた言葉に、リリィは茫然と瞬く。

 部屋付きの浴室というのは基本的に利便性のためについているだけの附属品だ。

 リリィの実家にもそういった部屋はあったが、そういった浴室というのは軽くシャワーを浴びる、といった目的によって使われるものであり、一日の疲れを取るためにきちんと風呂に入ることを考えたときには独立した浴室を利用するのが常だった。

 それを、皓月はリリィ専用にして構わない、と言っているのである。

 そこまでしてもらって良いのかと思ってしまうほどの好待遇だった。


「で、ここが君の部屋だ」


 どうぞ、と促されて、リリィはドアノブに手をかける。

 部屋は、随分とシンプルだった。

 どこかのホテルのようだ。

 清潔感のある白を基調にした最低限の家具が淡々と並び、部屋の片隅にリリィが実家から送った荷物の箱がそのままの形で置かれている。

 唯一の例外は、ベッドの上に乗った大きなうさぎのぬいぐるみぐらいだ。

 リリィの体の半分ほどもありそうな大きなうさぎが、部屋の主のような顔をしてベッドに鎮座している。


「…………ええとね、その」


 珍しく歯切れ悪く、言い訳めいた響きで皓月が口を開いた。


「……君のような年頃の女の子がどういった部屋を好むのか、というのがまったくわからなくてね。それでとりあえず最低限だけ揃えました、という具合なんだ。壁紙含め、家具の類はここから君の好みのあうものを取り揃えていって貰えると助かるかな。机の上にいくらかカタログがおいてあるからね。君さえ良ければ週末あたり、家具を見に出かけても良いかもしれないね」


 言われてみれば、机の上には家具のカタログがきちんと揃えて並べられてあった。

 本当に至れり尽くせりだ。

 と、そこで足音が近づいてくるのに気づいて、皓月とリリィは背後へと視線を流す。


「荷物、持ってきたよ」


 そういってボストンバッグを床に下ろしたのはガベイラだ。

 車を置いて、それから荷物をもって上がってきてくれたのだろう。

 すっかり荷物のことなど忘れてしまっていたリリィは、眉尻を下げてお礼を言う。

 返事はにこりとした笑みと、どういたしまして、なんて紳士的な言葉だった。


「部屋、案内してたの?」

「そう。今部屋を見てもらっていたところだよ」

「あー……」


 気まずそうな声をあげて、ガベイラもまたぽりぽりと頭をかく、


「ちゃんとした部屋をね、用意してあげたい、という心意気だけは僕も皓月もあったんだけどね……こう、いかんせん十代の女の子がどういったものを好むのか、というところに関してはどうにもリサーチが足りなくって」

「店に出入りしている子に聞いてもみたのだけれども――…さすがに十代の子はいないし、なるべく若い子に聞いても皆好みが違うのだからますます困ってしまって」

「だからといって最低限の家具をシンプルに揃えたらこう……なんか無菌室というか…………あまりにも殺風景で…………」

「あのぬいぐるみは僕らのせめてもの抵抗というか………」


 心底困りきった調子での二人の掛け合いに、思わずふすりとリリィの唇から笑みが零れ落ちる。

 リリィのためにどんな部屋を用意したら良いのか頭を悩ませ、悩んだ末にシンプルで最低限の家具だけを揃えつつ、その結果仕上がってしまったあまりに愛想のない部屋に頭を抱えた彼らが『せめてもの抵抗』として大きなうさぎのぬいぐるみをベッドに座らせる姿などを想像してしまうとあまりに微笑ましい。


「……ぬいぐるみは好き?」

「好きなん」

「そう……、良かった」


 しみじみと二人が安堵したように息を吐くものだから、リリィはますます笑ってしまった。


「荷物の方もね、勝手に触られると嫌かな、と思って触ってないんだ。荷物の整理、手伝いが必要だったら声をかけて貰えるかい?」

「わかったん」


 部屋の済みに並べられている箱はそれほど多くはない。

 ずっと実家の部屋で過ごしてきて、外に出かける機会の少なかったリリィにはもともと持ち物はそれほど多くはないのだ。


「それじゃあ僕らはこれで。書斎の方にいるからね。夕食は19時頃にしようかと思っているんだけど、それで大丈夫かな」

「大丈夫なん」

「良かった。何か苦手な食べ物はあるかい?」

「…………特にはないと思うん」

「えらいね」


 伸ばされた手が、くしゃりとリリィの頭を撫でていく。

 優しい所作だ。

 それでいて、さりげない。

 二人は念を押すように、何か困るようなことがあったら声をかけてね、とリリィに言い含めてから部屋を出ていく。

 それを見送って、二人の足音が完全に遠ざかるのを待ってから、リリィは深く息を吐きだしながらぽすりとベッドへと腰掛けた。

 白一色で見目は酷くシンプルながら、ベッドは少しの軋みもあげることなくほどよい弾力でリリィの体を受け止める。

 ようやく、一息つけるような心地がした。

 先住民たるうさぎのぬいぐるみを腕の中に抱き寄せ、ぎゅうと抱きしめてみる。

 こちらもふかふかと柔らかく、肌ざわりも優しくしっくりとリリィの腕に馴染んだ。

 これだけの部屋を、彼らはリリィのために用意してくれたのだ。

 そして、これから先少しずつリリィの色に染めていってほしいとまで言ってくれている。

 良いひとたちだ。

 特に皓月に関しては、とてもじゃないが父親が言っていたような酷い男のようには思えない。

 それとも、一度安心させて信頼を得てから酷いことをするつもりなのだろうか。


「…………良いひとのままで、いてほしいん」


 ぽつりと呟く。

 もし、彼に酷いことをされたのなら、リリィにはあの父親に渡された短剣を使う名目が出来てしまう。

 例えそういう状況になったとしても、果たしてそんなことが出来るかどうかなんていうのはリリィにはわからなかったけれど、それでも少しでもそんな結末に至る可能性は少ない方が良い。

 それとも、父親のいうことを聞く良い娘である為には、逆に彼が父親の語る通りの悪い男であってくれれば、と願ったほうが良いのだろうか。

 ガベイラが運んでくれたボストンバッグの中には、今も父親に渡された短剣が静かにその出番を待ち続けている。


■□■


 ガベイラが夕食の支度ができたよ、と呼びにきてくれたのはリリィの荷物の整理があらかた済んだ頃のことだった。

 続いてガベイラは書斎の皓月にも声をかけ、三人で階下に降りる。

 食卓に用意されていたのは二人分の食事だ。

 一人分、足りてない。

 果たしてその用意された食事の前に自分が座っていいものかと逡巡しているリリィをよそに、ガベイラが皓月へと声をかける。


「それじゃあ僕はそろそろ。明日は何時に?」

「いつもの時間で構わないよ」

「了解。果物はまだ冷蔵庫にあったから……、そうだな、近所のパン屋さんで何か買ってから顔を出すよ。姫はマフィンは好き?」

「好きなん」

「良かった。あそこのマフィン、とっても美味しいんだよね。じゃあ明日の朝楽しみにしててね」


 どうやら、ガベイラは共に食事をせずに引き上げるらしかった。

 軽く明日の予定の打ち合わせを済ませると、それじゃあまた明日、との挨拶を残して至極あっさりとダイニングを後にする。

 残されたのは、リリィと皓月の二人だ。

 ガベイラが用意してくれたのは、近所にあるレストランのテイクアウトメニューなのだと皓月が教えてくれた。


「お気に入りの店でね。よく行くんだ。今度は姫も一緒にいこうか」

「楽しみにしてるん」


 きちんと皿に見栄えよく載せられた料理は、確かにとても美味しい。

 リリィの向かいに座った皓月のテーブルマナーは完璧だ。

 所作の一つ一つが綺麗で、生まれついての上流階級の人間なのだと言われてもリリィはきっと疑わなかっただろう。


「部屋は片付いた?」


 こっくりと頷く。


「何か困ったことは?」

「大丈夫なん」


 食事の合間にも、皓月はリリィを気遣ってくれる。

 そういえばこの家にきてから、リリィはずっと「大丈夫」とばかり応え続けているような気がする。

 皓月やガベイラに気遣われて、それに対する返答、という形でしか会話が行われていない。

 それはちょっと良くないな、と思った。

 リリィは別に皓月やガベイラのことが嫌いで会話を最低限にしているというわけではないのだ。

 ただ、長い間一人でいることが多かったこともあって、人と話すことに不慣れなだけで。

 ここ数年、話し相手が家庭教師かたまに顔を見にくる父親ぐらいだったといえばわかって貰えるだろうか。

 何か、自分からも話したい。

 けれど、相応しい話題がわからない。


「…………」


 困って視線を伏せたリリィに、ちらりと皓月は紫闇の双眸を流す。


「アイスは好きかい?」


 唐突な話題だった。

 ぱち、と瞬いて視線を持ち上げた先で、皓月が柔らかに微笑む。


「ガーベラくんがね、デザートに、っていくらかアイスを買ってきてくれたんだよ。食後のデザートにどうかな。まだ入りそう?」


 こくりと頷く。

 そして、ここだと思った。


「何味が、あるん?」

 

 緊張を含んだリリィの問いに、きっと気づいていただろうに皓月はあえての気づかぬそぶりでただただ柔らかな口元の笑みを深める。


「君が何が好きかわからなかったからって、ガーベラくんってば張り切ってたくさん買ってきてくれたみたいなんだ。あとで一緒に選ぼうか。さっきちょっと見ただけなんだけどね、ストロベリーとピーチと、チョコとキャラメルがあったような気がするな」

「姫は、イチゴが好きなん」

「イチゴ味のアイスが? それともイチゴ自体も好き?」

「イチゴも、可愛いから好きなん」

「味じゃないんだね?」

「可愛いイチゴは姫に似合うん」


 リリィは可愛いにはこだわる女なのだ。

 味よりも、可愛さが優先だ。


「可愛い姫が可愛いイチゴを食べていたら最強に可愛いん」

「セルフプロデュースがすごいね」


 くつくつと笑い交じりに言う皓月に、今更のように調子に乗って変なことを言ってしまったかと思うリリィなのだが、それでも少し、会話は弾んだ気がする。

 たくさん親切に、優しく気遣ってもらった分、こちらもそれを嬉しく思っているのだという気持ちが、これから良い関係を築いていきたいという思いが少しでも伝われば良い。

 夕食後、二人で冷凍庫を覗き込む。

 皓月の言っていた通り、冷凍庫にはいくつものカップアイスがぎっしりと並んでいる。

 まるでお店の棚のようだ。

 リリィはイチゴのカップを、皓月はキャラメルのカップを取って、二人今度はリビングに移動し、ソファに腰掛けてアイスを食べる。

 思惑通りの可愛らしい濃いピンクのアイスを、銀のスプーンに掬ってリリィは口に運ぶ。

 イチゴの甘酸っぱく、瑞々しい味わいが口の中に広がる。

 甘くはあるもののどこかさっぱりとした果実の風味は、食後のデザートにぴったりだ。


「美味しいん」

「良かった。こっちのキャラメルも食べてみるかい?」


 せっかくなので言葉に甘えさせてもらって、キャラメルを一口いただく。

 こちらはミルクの甘味にキャラメルのほろ苦さが加わった少し大人の味だ。


「どう?」

「姫はイチゴの方が好きなん」


 と言いつつ、リリィもそっと自分のイチゴのカップを差し出してみる。

 

「それじゃあ失礼して」


 隣から伸びてきたスプーンが、しゃくりとイチゴアイスの表面を掬っていく。


「……ん、こっちも美味しいね」


 二人、視線を交わして笑いあう。

 友人、の距離感だ。

 お互いに歩みより、寄り添い、仲を深めようとしている。

 リリィが覚悟していたよりも、サザルテラでの生活はもっと良いものになるかもしれない。

 そんな予感に心を浮きたたせながら、リリィはアイスクリームを口に運ぶ。

 皓月がリリィに酷いことをしなければ、リリィは父親から渡された短剣など使わなくてすむのだ。

 あれは鞄の一番奥にしまって、そのままクローゼットに隠してしまおうと思う。

 きっと、ここでの生活には必要のないものだ。

 あんなもののことなど忘れてしまって、リリィは皓月と仲を深め、いずれはちゃんとした夫婦になるのだ。

 イチゴのアイスを食べながら、リリィはそんな決意を固める。

 と、そこで。

 先にアイスを食べ終わっていたらしい皓月が、ふと口を開いた。


「ところでね、姫」


 顔をあげる。

 皓月の切れ長の双眸がほそりと笑みに細くなる。


「この後はそうだね、汗を流したら――…新婚らしく一緒に寝ようか」

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