第2話 壁の花
デビュタントの夜は恙なく迎えられた。
父親に手を引かれ、リリィが会場に足を踏み入れたとたんに周囲からはほう、と感嘆の息が零れ落ちる。
華奢なデコルテを見せる白のドレスはシルク所以の上品な艶を煌めかせ、同じ素材で作られた二の腕までを覆う同色の手套はどこまでも清楚だ。
リリィとしてはもう少しふわふわとパニエやレースで膨らませた可愛らしいドレスが良かったのだけれども、お前は見た目が幼いからね、と父親に却下されてしまった。
そもそも、見た目が幼いのではなく実際に幼いのだ、とのツッコミを我慢したリリィは褒められてしかるべきだと思う。
その分、髪はリリィの希望通りにサイドを編んで反対側にふわふわと流し、白を基調とした貴石やクリスタルを使った花細工を飾って貰った。
小粒の真珠が花芯にあしらわれた花飾りをさしたリリィの姿は、さながら妖精のお姫様のような仕上がりだ。
父親に連れられて、パーティーの出席者たちに挨拶をしてまわる。
本来のデビュタントであれば同年代のご令息、ご令嬢が多く集まるものなのだろうが、ベル家への援助を前提としている、ということもあって参加者の年齢層は不自然なほどに高い。
通常であれば14歳のリリィの結婚相手にはなりえない人々ばかりだ。
中には堂々とリリィの全身に舐めるような視線を這わせたのちに、「随分と可愛らしいが、妻としての務めははたせるのだろうか」などと聞いてくる男性もいた。
つまりは子どもが産めるのか、ということだ。
あまりにも直截的かつプライベートに土足で踏み込むような質問に、一瞬リリィの頭は真っ白になる。
いくら結婚を前提としたお披露目パーティーだとしても、初対面の、それもかなり年上の男性に聞かれて良い気持ちのする質問ではない。
思ってもない不躾な質問にリリィが目を白黒させているうちに、隣に立つ父親が先んじて口を開いていた。
「大丈夫ですよ、今日という日を迎えるために事前にメディカルチェックを受けておりますからね。健康面に問題はありません。ご安心ください」
「―――」
わあ、と。
声には出ない平坦な感嘆を心の中で一つ呟く。
本人であるリリィを飛び越えて頭上にて交わされる言葉たちは、どれもリリィを商品としてしか見ておらず、まるでペットか家畜の売買のようですらある。
この雌鶏は卵を産むのか、といったような、見目の良さと機能性だけが求められ、リリィ本人の人間性というものがどこまでも蔑ろにされている。
子どもだからと侮られているのか。
それとも、そもそも『妻』というのがそういう扱いをされるものなのか。
どれほど美しく、可愛らしく着飾られたパーティーの主役であっても、リリィは結局家のために競りに出された商品でしかないのだ。
そういうものなのだという諦念を胸に、リリィは父親に手を引かれるままに会場内を歩いて、人々と言葉を交わしていく。
そんな中、ふと一際目立つ男に気が付いた。
まず、背が高い。
純粋に、物理的に、周囲の人々よりも頭一つ分飛び出る長身に目が吸い寄せられる。
ところどころ明るく輝く金の混ざった濃茶の短髪はすっきりとまとめられ、柔らかに垂れて人懐こい笑みを浮かべる双眸は鮮やかな碧だ。
何かスポーツをしているのか、漆黒のタキシードを纏う胸板は厚く、着こなしに隙がない。
黒のジャケットに合わせているのは黒のタイだ。
リボンタイではなく、いたって普通のシルエットの、うっすらと光沢を帯びたタイに、V字のシルバーベストを合わせて全体的にモノトーンにまとめながらもパーティーらしい華やかさを演出している。
そんな目立つ見目の良い男が、快活に談笑しながら人の間を渡り歩いている。
リリィを目当てにやってきたというよりも、こういう場での人脈作りが目的、といった印象を受ける振舞いだ。
と、そこでリリィの視線に気づいたように、男がふと顔をあげた。
ちょうど良いとばかりに、長い脚で悠々と距離を削ってくる彼の姿に気づいて、傍らの父親がこそりとリリィに耳打ちする。
「……蓮糸楼のオーナーだよ」
小さく顎を引いて、聞こえたことを示す。
蓮糸楼、というのはシスタリアの首都近くにある遊興街、サザルテラにあるカジノの一つだ。
ここ数年のうちにめきめきと勢力を拡大させており、オーナーはとてもやり手なのだという風に言われている。
そんな事前に知らされていた参加者の情報を脳裏に蘇らせながら、リリィは改めて目の前にやってきた男へと目を向ける。
シスタリアにおいて指定された遊興区におけるカジノの運営は違法ではないものの、どうしたってその手のビジネスはアンダーグラウンドに馴染みが深い。
それ故にリリィは『サザルテラ屈指のカジノ、蓮糸楼のオーナー』という肩書から、もう少しダークな雰囲気を匂わせる男を想像していた。
だが、実際の蓮糸楼のオーナーときたら、陽の光が似合いそうな好青年然としている。
「やあ、デビュタントおめでとう」
おや、と思った。
彼は、父親ではなく、リリィへとしっかりと視線を合わせてそう言った。
「素敵なドレスだね、とてもよく似合ってるよ」
「……ありがとなん」
パーティー会場に入ってから、たくさんの賞賛の声を受けていたはずなのに、彼の言葉は不思議とまっすぐにリリィ自身へと届いた。
彼の言葉が「見目の良い娘をもった父親への賞賛」ではなく、リリィ自身へと向けらたものだったからだろうか。
この日初めて、リリィ自身に向けられた褒め言葉であったような気すらしてしまって、咄嗟に「ありがとうございます」と猫をかぶることすら忘れてしまった。
隣の父親が少しぎょっとしたようにリリィへと視線を向けるものの、蓮糸楼のオーナーは気にした様子も見せない。
見目が良く、性格が良いだけでなく、心も強そうである。
彼はふと、リリィの空の手に目を向けると、
「ああ、飲み物がないね。少し待っていてね、今取ってくるから」
気さくにそう言って、颯爽と身を翻して傍らのテーブルへとリリィの分の飲み物を取りに向かってくれた。
思えば、飲み物を勧められたのもこれが初めてだ。
ようやく落ち着いて息ができるような心地になって、リリィはほうと息を吐く。
そうして少し周囲を見渡して――……
「…………?」
壁際にぽつりと佇む男の姿に目が止まった。
東洋系の細身の男だ。
長い黒髪を背で一つに束ね、所在なさげに立ち尽くしている。
目元を隠しそうなほどに長く伸ばされた前髪が、人前に出ることに不慣れな野暮ったさを加味している。
誰かの付き添いだろうか。
着ているタキシードも、他の参加者に比べると一つか二つ格が落ちる。
サイズこそ合ってはいるものの、体格に合わせた調整までは施されていない。
購入した既製品を着ただけ、というようなどこか浮ついた空々しさが漂っている。
時折彼に目を止めた人物が声をかけたりもするものの、初々しく慌てた様子で二言三言会話を交わしては、すぐに黙りこんでしまって相手を呆れさせてしまう、というのを繰り返しているようだった。
あまりに場慣れしていない。
リリィとしてもこうしたパーティーの場は初めてだが、初めてだからこそ卒のない振舞い方を学んでからこうしてこの場に臨んでいる。
だというのに、視線の先の男はリリィより随分と年上でありながらも、そういった訓練を受けていないように見えた。
どうして、あんなひとが紛れ込んでしまったのだろう。
それが、リリィの正直な感想だった。
この場にいるのは父親が選んだリリィを嫁がせてベル家に利益がある人々だ。
あの壁際にぽつねんと立ち尽くす男が、そうであるようにはとても思えない。
と、そこへそんなリリィの視界をさえぎるように横切って、蓮糸楼のオーナーが戻ってきた。
「君はサイダーで良かったかな」
そう言って差し出されたグラスを受け取る。
お礼を告げて、蓮糸楼のオーナーへと向きなおろうとして……ふと、気づいた。
蓮糸楼のオーナーと視線を合わせようとすると、自然とあの壁際にぽつねんと立ち尽くす男からは視線が外れる。
その代わりに、リリィと話す蓮糸楼のオーナーの視界には、あの男が入る。
そうなるように、さりげなく飲み物を渡すそぶりで立ち位置を誘導された。
蓮糸楼のオーナーはわざと一度リリィの視界を横切るようにして壁の男との間に割り込み、そのあと極々自然にリリィの視線を誘導して見せた。
何か、おかしくない?
チカチカと違和感がリリィの脳裏で疑問となって瞬く。
思えば先ほどから、蓮糸楼のオーナーは常にそう振舞ってような気がする。
常に彼が人の中心にいるように見えたのは、彼が壁を視界に入れる内側に立つように心がけていたからではないのか。
言葉を交わす人々には気づかれないままに、人々の視線を壁から逸らし、それでありながら自らは常に壁が目に入るようなポジションにまわるようにしている。
遠くで、びぃんと優雅に管弦が鳴る。
ゆったりとさざなみのように広がるワルツの音色に、父親が「踊ってもらったらどうだい」とリリィを促す。
「僕でよければ是非」
蓮糸楼のオーナーが、恭しくリリィへと手を差し出した。
その差し出された手と、その手の持ち主を見て、それからリリィはちらりと壁の男を見る。
おどおどと寄る辺なく立ち尽くす男の俯いたその奥で、ちかり、と。
油断のならない紫水晶の色味が瞬いたように見えた。
ぞわりと背中の毛が逆立つ。
兄に似ている、と思った。
リリィや父親には見えぬ未来を見据えて、どんなに父親が激昂しても緩く笑って受け流していた兄の底知れぬ眸に、似ている。
「ひめ」
ぽつりと、気づいたときにはそう口を開いていた。
一歩、リリィは壁に向かって踏み出す。
蓮糸楼のオーナーが追いすがるように一歩踏み出しかけたものの、壁に立つ男の一瞥に動きを止める。
一歩、二歩、三歩。
誰に止められることなく、リリィは壁に立つ男の前に立った。
男はもう、慣れぬ環境に怯えても惑ってもいなかった。
ただまっすぐにリリィを見つめ返している。
東洋の血が入っているのだろうか。
クリームがかった白い肌に、艶やかな黒髪、切れ長の双眸は美しい紫だ。
もはや男の様子にみすぼらしさと紙一重の初々しさは見当たらない。
そうして見ると、どうして今まで誰もこの男の持つ稀有な容姿を気に留めなかったのだろう、と不思議に思ってしまうほどだった。
リリィ自身、ほんの数分前まではその男のことを誰かの付き添いでやってきた、特に気にかける必要もない不慣れな青年、というぐらいにか思っていなかったはずなのに。
纏う空気、装う表情だけでここまで人は劇的に変わるものなのか。
「……このひとと、踊るん」
リリィの言葉に、目の前の男の口元に緩い笑みが浮かぶ。
面白がるような、探るような眼差しが注がれる。
「彼じゃなくて」
男がちらりと視線で示したのは、背後に立つ蓮糸楼のオーナーだ。
「僕でいいの」
「あなたが、いいん」
口調を偽る余裕などなかった。
リリィが自分を偽れば、きっとこの男もまたあの「場慣れせずおどおどと惑う男」の仮面を被ってしまう。
それは、直観だった。
「―――」
男の口元の笑みが深くなる。
「では、僕と一曲踊っていただけますか」
綺麗な辞儀とともに、手を差し出される。
洗練されきった美しい所作だ。
男の持つ空気に呑まれないように、リリィはしゃんと背筋を伸ばし、胸を張り、しずしずと手を差し出して男の手に自らの手を重ねる。
柔く握りこまれて手を引かれ、パーティー会場の中央に向かって男のエスコートで歩み出る。
そして、ホールド。
ヒールの靴を履いていてもなお、男の方が頭一つ分以上リリィより背が高い。
男の右手が、リリィの背に添えられる。
そうして、次のカウントで滑り出すようにしてワルツの旋律に合わせてステップを踏み始める。
男のリードは驚くほどに踊りやすかった。
「……ねえ」
頭上から、男の柔らかな低音が降る。
視線を持ち上げる。
「どうして、僕と?」
そんなのは、決まっている。
「あなたが、本物だと思ったん」
「本物、て?」
「本物の、蓮糸楼のオーナー」
「ああ」
ふふ、と男の笑みがますます楽し気になった。
はしゃいでいるのだろうか。
少しだけ、ステップの歩幅が大きくなる。
リリィも、楽しくなってくる。
男の手に背を預けて、くぅと体をしならせ華やかなターン。
会場にいる人々の視線を釘付けにして踊るのはなんとも気持ちが良い。
夢中になって踊っているうちに、曲の終わりが近づいてくる。
なんだか夢から覚めてしまうような心地で、リリィが名残惜しさを噛みしめているところでふと男が口を開いた。
「僕と、結婚してくれるかい?」
突拍子のない飄々とした問いかけだった。
それなのに、驚くほど当たり前のようにリリィの腑に落ちた。
どうせこの会場にいる誰かと、ここに集ったような人々のうちの誰かと結婚しなければならないのならば、この男が良い。
こくりと頷くと、男はやっぱり楽しそうに笑って、曲の終わりと同時にリリィの手を取って父親の方へと歩み出した。
その傍らで、蓮糸楼のオーナーとして振舞っていた影武者の男が柔らかな苦笑を浮かべているのが見える。
「こんばんは、ベル伯爵。お目にかかれて光栄です」
「え、……ああ」
父親の方は、未だに状況が把握できていないのか、目を白黒とさせている。
「私はサザルテラのカジノ、蓮糸楼のオーナー皓月と申します」
「はッ、……!?」
父親の視線が、皓月、と名乗った男と、先ほどまで蓮糸楼のオーナーだと思っていた男との間を三往復。
「勘違いさせてしまったのなら申し訳ない、そちらは私の護衛を担当してくれている者でして。お恥ずかしい話、この素晴らしいパーティの熱気にあてられて私が休んでいる間に、彼には蓮糸楼の人間として顔を繋ぐように頼んであったのです」
なるほど。
確かに嘘はついていない。
実際彼は一度だって蓮糸楼のオーナーだとは名乗らなかった。
それどころか、彼自身の名前すら名乗ってはいない。
周囲にそう思わせただけ、というところであるらしかった。
「そ、それで蓮糸楼のオーナー、皓月さんが私にどのような御用で」
「実は今、彼女と踊っている間にすっかり意気投合してしまいましてね。彼女との結婚を前提としたお付き合いを、父親である貴方に認めていただければと思った次第です」
今度は、皓月とリリィの間で父親の視線が五往復する。
リリィが傍らの皓月の言葉を肯定するようにこっくりと頷けば、父親はほんの一瞬嫌悪にもにた色をその双眸にちらつかせた。
おそらく由緒あるベル伯爵家の娘が、新興のカジノオーナーなどを相手に選ぶのは風聞が悪いとでも思っているのだろう。
父親としては金と名の、両方のある家にリリィを嫁がせたいはずだ。
それを晧月もまた感じ取ったらしかった。
にこり、と切れ長の双眸が笑みの形に細くなる。
紫の双眸は、光を含むとちかちかと鮮やかな赤みを帯びる。
角度によって色味の変わる瞳が綺麗だと、リリィは隣の男を見上げながらぼんやりとそんなことを思った。
「もちろん、姻戚となった折りにはベル家への援助を惜しむつもりもありませんとも」
男がすいと身をかがめて、父親の耳元へと顔を寄せる。
そっと低く、周囲には聞こえないように囁いたのはその援助とやらの内容だろう。
父親がはっと目を瞠り、それからじわじわと頬を紅潮させる。
きっと、破格の条件を提示されたのだ。
「詳しい話はまた後ででも。機会を改めて話せますか?」
「もちろんですとも……!」
そうして、あっさりとリリィの縁談はまとまった。
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