幸福のモラトリオ
山田まる
第1話 鏡の前
ぱさり、と鏡の前で布を落とす。
露わになったのは、華奢で未成熟な少女の身体だ。
未だ女らしいふくよかな曲線はなく、肋にはうっすらと骨が浮いている。
風呂上りの白く滑らかな肌には傷一つなく、未だしっとりと潤っている。
女としての魅力は未だ花開かない、青い蕾さながらでありながらも、それでも十分に手入れを施されていることがわかる美しい身体だ。
ミルクティのような、ほんのりピンクがかったブラウンの髪もまた艶やかに長くうねり、少女の身体のふくらはぎのあたりまでを覆っている。
硝子のような蒼みがかった灰色の双眸とあいまって、可愛らしくもどこか無機質な、人形のような印象を人に抱かせる少女だ。
それは、表情のせいもあるのかもしれない。
鏡に映る少女は、あまりに無感情だ。
そのうっすらと色づいた桜色の唇が、ゆっくりと開く。
「姫は、可愛いん」
幼げな声の響きと、やはりどこか淡々と響く声音。
少しばかり風変りな一人称と、おかしな語尾は彼女が彼女なりに『可愛い』を追い求めた結果の産物だ。
人はおそらくそれを迷走、と呼ぶ。
少女の名は、リリィ・ベル。
伯爵位を持つベル家の一人娘だ。
ベル家は、風光明媚なローインド地方に広大な領地を所有するシスタリアの中でも有力な名家の一つ――…だったと言われている。
ただそれも過去形だ。
今から200年ほど前にシスタリアは周辺諸国との間に自由経済同盟を結び、絶対王政から議会制へと緩やかに変わっていった。
経済、文化、技術の発展と引き換えに身分制度のもとに成立していた貴族文化もまた姿を消していき、ベル家もまたそんな時勢に呑まれたかつての名家の一つである。
リリィの祖父などは資本主義の波に乗ろうと意欲的に商売に乗り出したりはしたものの、不慣れな人間が簡単に成功を収められるほど甘い世界でもない。
結局かえってベル家の財政を圧迫するだけに終わってしまった。
そんな祖父の姿を目の当たりにしたからか、当代のベル伯爵、すなわちリリィの父親であるラングストン・ベルは商売で身を立てることを早々に諦め、かつては領地とされていた広大な土地を切り売りすることでなんとか伯爵家としての面目を保ち続けている。
そして、そんな父の元で、リリィはずっといずれ名家に嫁いで家を救うのだと言い聞かせられて育てられてきたのだった。
『可愛いパパのお姫様、お前ならきっと素敵な王子様を射止めることができるよ』
おとぎ話のように言い聞かせられてきたその言葉が、家のための政略結婚を意味しているのだと気づいたのはいつの頃だっただろう。
病弱であることを理由に学校に通わせてもらえなくなった頃だろうか。
それとも、父親にとって自分が家に富を齎すための道具でしかないのではないかと疑いを抱いてしまった時だっただろうか。
10歳の頃、風邪で一日学校を休んで以来、リリィは学校に戻しては貰えなくなった。
父親は、リリィが特別な子どもだからだと言った。
伯爵家の娘であり、特別なお姫様であるリリィには庶民と同じ学校での勉強など相応しくないのだと、そう言って父親はリリィに家庭教師をつけた。
様々な通信手段が発達した現在だ。
インターネットを通して、いくらでも画面越しに通信教育は受けられる。
とはいえ、友達に会えなくなったのは寂しかった。
学校に行かせてもらえなくなったのは悲しかった。
それでも、それは貴族としての生まれを誇りに思う父親なりの愛情なのだと思ってリリィはおとなしく受け入れた。
ちょうどその前の年に、リリィの年の離れた兄、ジャックが家を出て行ってしまったこともあったからだ。
ジャックは、父親の厭う祖父によく似た気質をもっていた。
貴族であったことにしがみつき、手持ちの財を食いつぶして過ごすよりも、それらの財を元手にビジネスを始めて財を増やすことを考えなければならないと父親相手に主張した。
もう、貴族の世が戻ることはないのだ。
祖父が経験したように、最初から上手くいくことはないだろう。
だがそれでも、新しい世界の理に適応しなければベル家の未来はない、という兄、ジャックの主張は父親には受け入れられなかった。
祖父の代に失った財の大きさを実感として知っているからなのだろう。
貴族の矜持を捨て、商売などに手を出した見る目のなさからベル家に代々伝わってきた財を手放したのだと周囲から責められ、嘲笑われる祖父の姿を見て育ったこともきっと原因の一つだろう。
結局、兄は家を出て行った。
兄が二十歳になってすぐのことだ。
父親は兄がすぐに頭を下げて戻ってくると思っていたようだった。
だが、兄はそのまま自力で大学を卒業して以来、一度も実家には戻ってはきていない。
その間に父親は後妻を迎え、その後妻との間に次男を設けた。
思えば、リリィが学校に行かせてもらえなくなったのは弟が生まれてからのことだ。
「…………」
嫌な、符号だ。
きっと父親は、後妻との間に生まれた男の子こそをベル家の後継者にすると決めてしまったのだ。
後妻と、その子どもだけを守るべき『ベル家の家族』として設定しなおしてしまったのだ。
だから、リリィのことを家に閉じ込めた。
だから、リリィのことを名前ではなく「お姫様」としか呼ばなくなった。
だから――14歳のリリィを、社交界デビューさせることにしたのだ。
通常、シスタリアの社交界においてのデビュタントは16歳の誕生日に行われる。
年頃の少女が一人前のレディになったのだと。
もっと身も蓋もない言い方をするのならば、結婚可能な年齢になったことを周囲にお披露目する意味合いの強いパーティーでもある。
それを14歳のリリィにやらせようというのだ。
『パパの可愛いお姫様、来月のお前の誕生日には盛大なパーティーを開こうね』
そう父親に言われた時、思わずリリィはぽかんと目を丸くしてしまった。
最初はついに父親がおかしくなったのかと思った。
娘の年齢もわからなくなってしまったのかと、そう思った。
けれど、リリィの肩に手を置き、「せっかくのデビュタントに向けてお前も楽しみにしておきなさい、素敵な男性を射止められるようにしっかり自分を磨いておくのだよ」とのたまった父親の目はどこまでも本気だった。
異様な熱に浮かされつつも、どこか罪悪感に昏々とした父親の目は夢に出そうなほどにおぞましかった。
学校にも通わず、『自宅療養』を長期間続けていたベル家の一人娘の本当の年齢など誰も気に留めはしないだろう。
例えどこかから指摘が入ったとしても、父親のことだ。
きっと、病弱な娘に華やかな社交界を早めに見せてやりたかったのだとでも言い繕うだろうし、リリィのことを気に入って結婚したいというような男が現れたのならば許嫁という名目で共に暮らすように仕向けていくのだろう。
リリィに逃げ場はなかった。
いや、ないこともないのだ。
兄に助けを求めれば、きっと兄は助けにきてくれる。
ぽつぽつと届き続ける兄からの手紙は、リリィの宝物の一つだ。
けれど、リリィはそうはしなかった。
ベル家を出ていき、自分ひとりで道を切り開いて生きていこうとしている兄の足手まといにはなりたくなかったし、兄と違ってベル家を捨てることも出来ず、ベル家の娘としてここまで育てられた以上は、ベル家の娘として嫁ぐしかないと受け入れようと思ったのだ。
床にわだかまっていたタオルを拾いあげて、身体を覆う。
リリィの誕生パーティーを兼ねたデビュタントは三日後に迫っている。
その日、リリィは見知らぬ男に買われるのだ。
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