終わり逝く世界で二人だけ

青海夜海

終わり逝く世界

第1話 これがこの世界

 蝉が鳴いていた頃だったはず。

 なのに、泣いているのは季節にそぐわないうぐいすの鳴き声であり、瓦礫の山の間や半壊した地面から怏々に育った木々は金木犀を優雅に風に揺らした。

 香りが少年の鼻孔を擽り、散策していた少年の意識がうぐいすが鳴く金木犀へと注がれた。


「へーこんな所にこんなに綺麗な花があるなんて」


 感心する少年の声音は尖りなく流水のように穏やかだった。けれど、抑揚は小さく薄い笑みをたたえているのではと、うぐいすは鳴くを止めてしまう。

 サラサラと風に靡いていた金木犀の花が宙を舞い、少年の黒い髪に引っかかった。

 それは歪な美しさで、夜の海を漕ぐランタンのよう。暗い世界でただ一つの命を燃やす儚さが垣間見える。

 うぐいすは金木犀から飛び立ち、青空へと消えていった。その姿を見つめていた少年は「はー」と息を吐いてもう一度金木犀に瞳を移す。

 淡いブルーの瞳はどこまでも未知数で澄み切っていた。


「金木犀が咲くってことは……今は秋なのか?いや、でも昨日は蝉がいたし、今日も夏みたいに暑いし……そういえば今日は蝉を見てないな」


 そう呟いて首を傾げた少年だが、「まーいいか」と歩き始める。


 少年が進む先は見るからに無惨な都市であった。

 ビルの崩壊に瓦礫の山、罅割れた道路に水が噴き出す街路、蔦に囚われた廃墟に大きなネオンの残光。


 その都市は滅んでいた。


 まるで、人っ子一人いない静寂の中、少年の足音だけが嫌に響く。水没した公園で二匹のリュウグウノツカイが逢瀬を楽しみ、崩壊したビル群の隙間からネズミや鹿、熊が顔を覗かせる。空には全長二メートルを超えるような大きな鳥が、キャワァーと奇怪な鳴き声を上げた。光輝く砂の平地から水が湧き、そこには見たことのない未知の生物が喉を潤している。遥か遠くの大空は、ここの青空とは違い水中でライトアップされた珊瑚のような色合いで、大空が海だと錯覚してしまう。


 ここは日本だった。かつて日本として栄えていた国であり、その最大都市たる東京都。

 けれど、今目の前の景色は誰もが知らない未知の世界。

 コツコツと音を鳴らして歩いていた少年が唐突に立ち止まった。瓦礫の山から見渡す変わり果てた東京都——日本は、『無人』の廃墟そのものだった。

 誰もいない世界で、少年は一人、ただ事実を告げるように口を開いた。


「滅んだ世界は、終わりを迎えるだけだ」


 青空の中を雷が走り、森林と成り果てた森から動物たちが凱旋とばかりに少年を見上げた。風が流離い、少量の水飛沫を世界に散らす。それは恵の水のようで、けれど終わった世界を美しく見せる以外に何もなかった。


 少年はまた歩き出す。淡々と歩いていく。

 この終わり逝く世界の傍らで。



                 *



 基地と呼べるような場所ではない。ましてや家などとは論外。そこは森林の手前に存在する樹々や草花に囲まれた家の屋根下だった。

 草木を掻き分けて入れば、思ったよりも広いそこは、元の住民が使っていたであろう家用の二つのベッドと、その周辺には壊れた機械やビーズのような光る珠にビニール袋一杯に詰め込まれたお菓子などでごった返していた。落ちかけの屋根は大きな木によって支えられており、家の四分の一だけが残っている有様。

 けれど、木漏れ日が射す陽気な基地は秘密を恍惚と胸に光らせる。


 そんな基地と呼んでいる基地の広場で、花々に囲まれて寝転がっている一人の少女がいた。

 少年は少女に近づく。


 草をかき鳴らす音が心地よい。

 木漏れ日に祝福されている少女の金色の髪が陽の光を浴びて純白に流れる。眼にかかっていた髪が攫われ、その相貌が明らかになった。

 まるで一つの聖画に描かれる女神か天使のような美麗な容姿に相貌、生命という全てに息を呑ませるほどに絶していた。

 高く透き通った鼻梁、薄く彼岸花が雪解けたような小さな唇、白麗たる肌はほんのり朱に染まっている。金か白からわからぬ長い髪は花に溶けているようで、彼女自身が一凛の花だった。

 身体を丸めていた彼女の口元がゆらりと動く。


「…………おかえり、アオト」

「ただいま、アカネ」


 開いた縁どられた大きな眼の奥、その瞳は木漏れ日のような色を宿し、嬉しそうにそっと細めた。


「また寝てたのか?」

「あはは。だって、暇なんだもん」

「まー時間だけは幾らでもあるもんな」

「そうそう!明日できることは明日やればいいんだよ。て、わたしを置いて散策に行ったアオトのせいで暇だったんだからね」


 仰向けになって頬を膨らますアカナの頬を指で触ると、プスっと空気が漏れる音がした笑ってしまう。

「あー何するの⁉」と怒るアカネに「わるいわるい」と言いながら、アオトは膝をついてその膝に彼女の頭を乗せ、純金白の髪を撫でた。絹のようにサラリと解れていく。

 アカネは擽ったそうに、どこか気持ち良さそうにアオトに身を委ねた。そんな時が静かに流れていく。


 暫くするとアカネはよいしょっと身体を起こして立ち上がる。それに倣って腰を上げようとするアオトだが、アカネは「ちょっと待って」と制止を呼び掛けた。


「どうした?」


 そう問うとくすりとアカネは口もとを緩める。


「髪の毛に花びらがついてるよ。この匂いは……金木犀?」

「あーさっき、駅の辺りで咲いてたんだ。その時かも」

「へーこの夏に咲くなんて、可笑しいね」


 そう笑うアカネだが、その実以外とは思っていない。不思議と思っているだけで、それ以外に疑問はアオトも浮かぶことはない。

 髪を払って落とそうとすると、アカネは「わたしが取ってあげる」と言ってアオトの髪に触れた。瞬間であれ、それは女神の御手を想起する。


「ほらね!綺麗な金木犀」


 そう言って、笑顔を咲かせるアカネに。


「うん。本当に綺麗だね」


 と、アオトは微笑んだ。



 二人して軽く昼食を済ませて、鞄に水や懐中電灯、ロープやスタンガンなどをあらかた詰め込んで基地を出た。

 戻ってきた時とは打って変わり、黄金に染められた大空は七色のオーロラを携え、雲の間から天使の道を世界中に降りかけていた。それは幻想的で破滅的。この世界そのものの表裏だと思えた。


「わー!絵画とかに出てきそー」

「絵画だったらなんだろ?」

「晩鐘とか?あとは星月夜?」

「よくわからないけど、わたしはジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリアがいいな!」

「どうして?」


 そう尋ねる彼に彼女は神話の一夜のような天を見上げながら、小さな吐息と共に沫のように零した。


「——どうせこの世界が終わるなら、わたしは綺麗に歌を口ずさみながら終わりたい」

「————」

「きっとわたしたちは花のように咲き誇る命を散らしていくの。散るために咲いたわけじゃないけど、それでも最期まで美しく在り続けようとする。だから——わたしはオフィーリアが好き」


 それはアカネの夢であり、願うたった一つの終わり方だ。滅び逝く世界で、いつかどこかで彼女たちも終わる。それがいつの話かはわからない。それでも、夢に話、夢に見て、夢に焦がれる。昔みた美術館での水に濡れたオフィーリアに、憧憬を求める。

 アオトは静かに手を伸ばし、彼女の小さな白い手を握った。

 振り向くアカネにアオトは視線を合わせない。彼は静かに変貌した不思議な夜空を見上げる。


「なら、俺は君の隣に居続ける。狂わせたりなんて、しない」


 彼は宣言する。終わり逝く世界であれ、二人の物語を悲劇になんてしないと。


 その啖呵が嬉しくて、アカネは微笑みを浮かべた。きっと、最期の笑みもこんな微笑みなんだろう。


「信じてるよ、わたしの王子様」

「…………」

「なんで何も言わないの⁉」


 顔を赤に染めてあ~と顔を覆うアカネを見て、アオトはどこまでも嬉しかった。彼女はただひとりの女の子。


「それよりも、オーロラって初めてみたよ」

「それより⁉……も~恥ずかしがりやだね。わたしも本とかネットでしか知らないかも」

「えー……ノルウェーとかアイスランドで見える本物と一緒だっけ?」


 記憶がはっきりしないアオトは、まさに目の前の七色のオーロラが本物であると言われれば「そうなのか」と納得してしまう。けれど、アカネは本などで見た記憶を頼りに、「ううん」と首を振った。


「本当のオーロラは確か緑っぽい色で、虹色じゃなかったよ」

「そうだっけ?言われてみればそんな気がするかも……」


 そういうと「何それ」と笑う彼女。彼はいつでもその笑顔を憎めないでいる。


「別にいいだろ。アカネだって、この前グリフォンとドルフィンを間違えて大きな鷲をイルカイルカって言ってたし」

「そっそそそんなこと言ってないよ⁉」

「で、俺が訂正しても意地張って認めなくて、結局図書館で図鑑を見せたら、すっごく顔真っ赤にしてさ」


 そう思い出しただけで笑えてくるアオトとは違い、アカネは「あぁあああああああっっ⁉」と羞恥に悶絶する。

 その姿もまた絶妙で、堪え切れなく手で口元を抑えるアオトにお返しとばかりにアカネは話し始めた。


「わ、わたしだって!急に雨が降って来た時にアオトがドヤ顔で見つけてきた傘を差したあれ!」

「おいやめろ⁉」


 制止をかけるアオトに眼もくれずアカネは口を止めない。


「でも、その傘穴だらけだったよね~。あの時のアオトの顔、すっっごくっ面白かったな~」

「黒歴史が⁉」


 次はアオトが悶絶する番で、懐かしんでいたのも束の間、アカネは堰を切って笑った。楽し気に嬉し気に命に准じて、大きな声で笑った。笑った。


 それにムキになったアオトがまたあれやこれやを振り返って、顔色をコロコロと変えるアカネも負けずとあれやこれやを話した。

 そうして、黄金の空に照らされながら二人は笑いあった。

 この世界に響く、たった二人だけの声だった。



 世界は当に滅んだ。


 原因はわからない。けれど、世界は崩壊し、人類は絶滅した。それがどのようにして起こったのか、誰も知らない。


 そしてそんな世界でアオトとアカネの二人だけは生きていた。


 まるで物語を混濁させたように変化した世界で、二人は眼を覚まし、導かれるように出逢った。

 それは運命であり、宿命であり、またも意思でもあった。

 二人は目覚めた瞬間に理解している。

 この世界は終わりへと向かっていると、それは永遠に近い時の流れだと。


 この終わり逝く世界で二人は生きている。



 話し終えた二人は息を絶え絶えに腰を下ろし、黄金が星空に変わるのを見上げていた。

 黄金は白く霞んでいき、黒い花火を打ち上げたように空の中心から円形に夜の闇が広がっていき、空から雪のような光の粒子が舞い降りてくる。

 それはアオトとアカネを避けるように地上を埋め尽くし、粒子は鏡よりも純粋な透明な水へと進化した。


 そこに映るのは夜の闇と星々の輝き。


 顔を上げた時、鏡の水と同じように夜空は星に埋まっていた。

 満点の星空はどんなプラネタリウムよりも、どこの星空よりも、綺麗で綺麗で永遠だった。

 次々と星が星と巡り光の線で結ばれていく。それは一見星座のようで、その実は幾何学模様でしかない。アオトとアカネのいる瓦礫の山の天辺以外を呑み込んだ鏡の水はその夜空は映し、正しく世界は夜に包まれた。


「綺麗だね」

「ああ、綺麗だ」

「…………わたしさ、アオトに出逢えてよかったって思ってるんだ」

「…………知ってる」

「うそだー」

「ほんとだよ。だって、俺もアカネに出逢てよかったって思ってるから」

「…………アオトって変に真面目だよね」

「変ってなんだよ?アカネがそんなこと言うかから、ちゃんと答えたんだぞ」

「ふふっ。わかってるよ。わたしも、ここでこの景色を一緒に見ているのがアオトで嬉しいよ!」

「俺は別にそこまで…………」

「わかってるよ。キミもわたしと同じ気持ちなんだって……わかってる」

「…………」

「金木犀の花言葉は『真実』。——わたしは生きていて、今、物凄く嬉しいよっ!」


 その笑顔は忘れない。

 その言葉も忘れない。

 その声も仕草も金木犀の香りと彩と花も、きっと忘れない。

 この世界で一つ、二人は互いに惹かれ合った。


 言葉じゃ伝わらない感情で、行動だけじゃ伝えきれない想いで、形にすることすら止めてしまいたい情動だ。

 だけど、『真実』だけは迎え入れてくれた。

 アオトはそっとアカネの小さく細い手を握り、彼女に笑顔を向けた。


「俺もだ。……世界が終わっても、きっとアカネだけは離さないから」


 そう強く手を握るとアカネもまた握り返した。アオトの肩にぽすりと身体を預けるアカネの体温を感じながら、その美しい夜空を二人で見上げ続けた。


 やがて、ひと風が水面を揺らし、夜空の星が流れ出す。どこか、世界のどこかへ流れていく。それを背中に二人は立ち上がった。


 この誰もいない世界で、運命に生きる二人は歩き出す。


「行こっか」

「ああ、行こう」


 そうして、アオトとアカネは鏡の水の上を歩いていった。

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終わり逝く世界で二人だけ 青海夜海 @syuti

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