第111話 拡張(ケンジ)
道路の溝に溜まった真っ黒なヘドロから腐臭が漂ってきているのか、
風の向きが変わったのかもしれない。ケンジは〈
地下街の商業施設でベティが回収していた義眼は、性能面としては軍用規格の製品に及ばないが、それでも市場で入手できる〈人工眼球〉としては最上位モデルであり、高い解像度に加え、ナイトビジョンや各種環境センサーを標準搭載しているだけでなく、情報分析に役立つ〈ネットワーク接続型スキャナー〉を備えた代物だった。
欠点という欠点が見当たらない製品だったが、その当時に流行していた完全没入型映画〈イシュタルの陥落〉――異星生物による侵攻と虐殺によって陥落した植民惑星の最後を描いた映画と一緒に発表された限定商品であり、人類を襲った異星生物の眼を再現していて〈虹彩変色〉機能がなく、つねに淡い光を帯びた真っ赤な瞳だった。
眼球というより小型望遠レンズと呼んだほうがしっくりする形状の義眼を移植している人間も珍しくない世界なので、光る瞳を持つ人間がいても誰も驚かないが、隠密行動には向かない瞳なのかもしれない。
崩壊した空中回廊に視線を向けると、無意識に視界が拡大表示されて、背中に複数の花びらからなる
数百メートル先に佇む化け物から視線を外すと、拡大表示されていた視界が自然にもとの状態に戻った。想定していたよりも〈人工神経システム〉の構築は円滑に行われていて、ほぼ無意識に脳内にインストールされた〈ブレイン・マシン・インターフェース〉にアクセスし、操作することが可能になっているようだ。
瓦礫に埋もれた通りの先から音が聞こえて視線を向けると、泥の中から
便利な機能だが、移植直後は学習型支援インターフェースに慣れず、必要のない大量の情報を網膜に投射して混乱することになった。けれどレイラが言っていたように、扱い方に慣れてしまえば、これほど便利な瞳はないだろう。ケンジは新しい目を通して見ることができるようになった拡張された世界を楽しんでいた。
ノロノロと歩いてくる人擬きに対処するため、ケンジに同行していたアネモネがライフルを構えるのが見えたが、彼は落ち着いた動作でレーザーライフルを手に取る。それから左手首に移植された〈インターフェース・プラグ〉から伸ばしたケーブルをライフルに接続する。
射撃統制装置から受信する各種情報が視界に表示されたのを確認すると、ライフルを構えて人擬きに銃口を向ける。
適切な射撃位置にレティクルを合わせて引き金を引く。空気が抜けるような間の抜けた音が聞こえて、糸のように細いレーザーが射出され人擬きの頭部を貫通するのが見えたかと思うと、次の瞬間には膨張して水風船のように破裂する。
沸騰した体液が飛び散り、頭部を失くした人擬きがドサリと倒れる。生体活動は続いているようだが、思考する能力を失くした人擬きはもう脅威ではなくなっていた。
兵器との接続状態を確認して満足すると、ライフルからケーブルを外して、カマキリの頭部にも似た黒いヘルメットを装着する。ケンジの脳波を受信してシステムが立ち上がると、光学機器を専門に扱う日本企業〈センリガン〉のロゴタイプが表示されて、昆虫の複眼を思わせる大きなレンズがチカチカと明滅する。
それからケンジはヘルメットに備え付けられたフラットケーブルを伸ばすと、首筋に移植された〈チップ・ソケット〉に接続した。すると視覚情報が一気に拡張されて、背後の景色まで認識できるようになる。
すでに何度かヘルメットのシステムに直接接続していたが、上下左右だけでなく前後の光景をひとつの映像として認識できるようになるので、脳が慣れるまで時間が必要だった。
一対のレンズから受信する膨大な情報に慣れてくると、ケンジは思わず笑みを浮かべる。両目を失ったことで一時はどうなることかと思っていたが、ケンジが楽しそうにしている姿を見てアネモネは安心してホッと息をついた。たったひとつのミスが命取りになる世界で、ケンジは幸運に恵まれた。
けれど、その幸運がいつまで続くのかは誰にも分からない。実際、彼女たちは〈人造人間〉の襲撃で多くの仲間を失っていた。だからこそ、より一層気を引き締めなければいけない。
アネモネは地面に横たわる人擬きが痙攣する様子をじっと見つめて、それからケンジに声を掛けて、先行していたベティたちを迎えに行くことにした。
合流地点に到着してしばらくすると、装甲車にも似た
「ただいまぁ、お姉さま!」と、ベティが笑顔を見せる。
「こっちに戻ってくるとき、厄介な人擬きの群れに絡まれて大変だったよ」
「ああ、聞いたよ。大変だったみたいだな。でも、怪我はしていないんだろ?」
アネモネの言葉に彼女は無邪気な笑みをみせながら胸を張る。
「ハクが一緒だったから今回は楽勝だったよ」
「そのハクはどこにいるんだ?」
『なぁに?』
幼い声が聞こえたかと思うと、返り血で体毛を赤黒く染めた白蜘蛛が姿を見せる。幼くて可愛らしい声とは対照的に、人々を恐怖のどん底に落とすような血塗れの姿にアネモネは驚くが、すぐにハクが怪我をしていないか確認する。ハクを目の前にすると誰も彼も過保護になるようだ。
『ん! ちょっと、だいじょうぶ』
その〝ちょっと〟が、何を意味しているのか彼女には分からなかったが、ハクが大丈夫だと言うのなら心配する必要はないだろう。白蜘蛛がベティを連れて道端に転がるガラクタを漁りに行くのを確認したあと、車両のそばに待機していたレイラのもとにケンジと一緒に向かう。
瞳を
レイラは〈建設人形の墓場〉を偵察して入手した情報をアネモネたちと共有する。
アネモネが数日前に調査したときから大きな変化は見られなかったが、それでも入場ゲート付近には、同一の遺伝情報を持つと思われる男たちの部隊が展開しているのが確認できた。上半身裸に派手な刺青をした男たちは銃火器を手に、周囲の巡回警備を行っていた。
けれど偵察ドローンや機械人形の姿は見られない。
「通信障害はカグヤのネットワークにも及んでいる」
レイラの言葉にアネモネは眉を寄せて困惑する。
「あの辺りで〈データベース〉に接続できるのは、やはりビーだけなのか?」
「何度も確認したから間違いない。でも入場ゲートから一定の距離を取れば――まだ正確な距離は把握していないけど、ゲートから離れると通信が回復するみたいだ」
「間違いないのか?」
「ああ、壁の向こう側で活動する機械人形の部隊を見た」
「通信障害は入場ゲート付近を中心にして限定的に発生しているのか……」
「俺が襲われた場所だな」
ケンジの言葉にレイラはうなずく。
「あそこで何かが起きた。そしてその影響は今も続いている」
「連中と事を構えるには不確定要素が多すぎるな」
「それに」と、アネモネが言う。
「あの組織とやりあうには、もっと力をつける必要がある」
ケンジは押し黙ったまま何かを考えていたが、やがて小さくうなずいた。
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