第109話 パン(兄妹)


 買い物客で賑わう〈ジャンクタウン〉の大通りを幼い妹と手をつないで歩いていると、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。それは少年にとって、これまでにいだどんな食べ物の匂いよりも食欲をそそる香りだった。


 幼い妹も同じ気持ちだったのかもしれない、彼女はぎゅっと兄の手を握る。


 少年は妹に声を掛けたあと、人混みのなかを慎重に歩いて目的の露店に近づく。すると木製の台に焼き立てのパンを並べている男の背中が見えた。薄汚れた軍手で熱々のパンを無雑作に取り、慣れた手付きで台にのせていく。その動きを見ているだけでお腹が鳴った。


「おいしそう」と、妹が思わず口に出しだ。

「あったかいパンが食べたい……」


 大通りを行き交う人々の話し声や、広告ドローンから絶えず聞こえる音楽で周囲は騒がしかったが、大柄の店主はふたりの気配に気がついて振り向いた。けれど客に見えなかったからなのか、すぐに不機嫌な顔になる。どうやらボロ切れのような野良着を身につけている兄妹が気に入らなかったようだ。


 店主はふたりに聞こえるように舌打ちして、それから言った。

「金はあるのか」


 少年は〈IDカード〉を持っていなかったし、取引に使えるようなモノも持っていなかった。価値があるモノと言えば、母親が持たせてくれた情報端末だけだったが、とても大事なモノで取引に使うことはできなかった。


 少年は腰に紐で吊るしていたハンドガンに触れる。それは使い捨ての拳銃で、少しの金属と最低品質のバイオプラスチック――最低限の強度しかなく短時間で自然分解する安物で、露店で買える出所の怪しい情報端末よりも安く手に入るモノだった。


 店主はオモチャのような拳銃をじろりと睨んで、それから鼻を鳴らした。

「悪いが俺はゴミ箱じゃない」


 少年はムッとしたが、店主の言いたいことは理解できる。その拳銃は、ジャンク品としての価値すらないガラクタが捨てられるゴミ集積所で拾ったモノだったのだ。護身用として持ち歩いていたが、実際のところ、その拳銃に弾丸が残っているのかも疑問だった。


 風が吹くと焼きたてのパンの香りが辺りに漂う。少年は涎を垂らしている妹の口元を拭いたあと、男の背後にある露店を見つめる。市場はいつもより買い物客で混雑していて、大きな身体からだを持つ店主が歩くには苦労すると思われた。妹のためにパンをひとつだけ取って逃げても、店主に捕まることはないかもしれない。


 その気持ちを見透かされたのか、店主が冷たい声で言う。

「やめておけ、市場のあちこちに監視カメラがあることを忘れたのか。すぐに警備隊がやってきて、大変なことになるぞ」


 少年はハッとして周囲を見回した。色彩豊かなネオン看板で目立たないが、たしかに通りのあちこちに監視カメラが設置されていて、ホログラムで投影される大きな猫の向こう側でレンズが光を反射しているのが見えた。


「あれを見ろ」

 店主が顎をしゃくると、小銃を持った警備隊がふたり歩いてくるのが見えた。


 松葉色まつばいろの戦闘服に使い古されたチェストリグ、若い男女は揃いの装備で身を固めていて、すぐに射撃できるように引き金に指をかけていた。


 少年は警備隊の姿を見ると、緊張して思わず身体を強張らせる。黒光りする小銃を持った人間が妹の近くにいると考えるだけで、胃が縮むのが分かった。少年は後退り、小銃から妹を庇うように立つ。


 怖がる素振りを見せた少年を見て、店主は鼻を鳴らした。

「理解したみたいだな。警備隊の世話になりたくないなら、バカなことは考えるなよ」


 少年はコクリとうなずいた。でも本当に怖いのは警備隊じゃない。


 市場で警戒しなければいけないのは、商人組合が安い賃金で雇っている傭兵くずれのチンピラどもだ。組合が後ろ盾になっているからなのか、市場で好き勝手に振舞っている。彼らが買い物客に因縁をつけて、路地裏に女の人を連れていくのを見たことがあった。その夜は彼女の悲鳴を思い出して眠ることができなかった。


 少年は腰に吊るしていたプラスチックの拳銃が妹の身体に触れないように、位置を確認しながら彼女のとなりに立つと、その小さな手をそっと握った。幼い妹は物欲しそうな目で露店のパンを見つめていたが、兄に声をかけられると上目遣いで彼を見つめて微笑む。


 物分かりが良く、滅多にワガママを口にしない健気な妹を見ていると、少年は不憫に思い泣きそうになった。だからなのだろう。周りを見ていなかった少年は歩き出そうとして通行人とぶつかってしまう。


「ごめんなさい」

 咄嗟に謝罪を口にして顔をあげると、短いスカートを穿いた若い女性が立っていた。桃花色の綺麗な髪の女性で、妹の好きなアニメに出てくる女の子たちが着ているような服を身につけていた。


「痛くなかったから気にしないで。それより、そのパンは買わないの?」

 女性の言葉に少年は思わず下唇を噛む。


「ぼくたち、その……お金がないんだ」

「お金かぁ。それならさ、そこでちょっと待ってて」


 彼女はトコトコと露店に向かうと、大柄の店主に物怖じせずにパンを指差しながらあれこれ指示する。それから紙袋につめたパンを――まだ温かいパンを持ってきて紙袋ごと少年に差し出した。


「えっと……」

 少年が困っていると、彼女は可愛らしい表情で微笑んだ。

「食べたかったんでしょ? 妹と一緒に食べな」


 喉から手が出るほど欲しかったが、妹の手前、他人から施しを受けるわけにはいかなかった。もしも彼女が二人を騙すつもりなら、妹の命を危険に晒してしまうし、他人からモノを受け取ってもいいという悪い影響を妹に与えてしまう。


「食べないの?」彼女はパンを口に入れながら言う。

「でも、ぼくたちお金がないから――」

「あぁ、そういうことね」


 彼女は納得したようにうなずいたあと、背負っていたぬいぐるみリュックのなかに手を入れる。それは無数の脚を生やした白い生物のぬいぐるみで、どうして彼女がこんな悪趣味なリュックを背負っているのか彼には分からなかった。


 しばらくすると彼女はリュックから〈IDカード〉を取り出す。そして少年に手を差し出しながら言った。


「君の端末をかして」


 その情報端末は、〈鳥籠〉の外でスカベンジャーとして働いている母親と連絡を取る唯一の手段だったので、今まで誰にも見せたことはなかったし、無闇に触らせることもしなかった。けれど彼女の勢いと雰囲気にあてられていたからなのか、思わず端末を手渡してしまう。


 気がついたときには遅かった。少年はすぐに取り返そうとして手を伸ばす。

「はい」彼女はすんなり端末を返してくれた。


「このIDカードに入ってたお金を君の端末に移しておいたから、妹と一緒に好きなだけパンが食べられるよ」


 少年は唖然としていたが、すぐに端末を操作して彼女の言っていることが正しいのか確認した。パンを買うどころか、半年間ほど食べ物に困らない額の〈電子貨幣クレジット〉が振り込まれていることが分かった。


 驚きのあまり口をパクパク動かしていると、彼女はニコニコ微笑んで、もう一枚IDカードを見せてくれた。


「こっちは君の妹の分だよ」


「パンが食べられるの?」

 幼い女の子が首をかしげると、ベティはその可愛らしい仕草に思わず笑みを浮かべる。とにかく彼女は機嫌が良かった。ケンジの容態が安定して、インプラントの移植手術を受けられる日がやってきたのだ。


 IDカードの一枚や二枚など、どうという事はなかった。略奪者や〈カルト集団〉の拠点から大量のIDカードを頂戴していたので、余計な荷物が減って良かったと感じたくらいだ。


「ここにいたのか、ベティ」

 声がして少年が顔をあげると、〈ジャンクタウン〉で暮らす人間なら誰もが知る危険人物が彼女のとなりに立っているのが見えた。


 人形のように整った顔立ちの青年に見つめられると、少年はライフルの銃口を頭に突きつけられているような恐怖を感じて、思わず妹を背中に隠した。


 たったひとりで廃墟の街を探索するスカベンジャーのことは少年も知っていた。市場のチンピラどもを一瞬で殺してしまった話は有名で、しばらく噂になっていたほどだ。


 それに、酒場から出てきた酔っ払いだけを狙って路地で殺しているという悪い噂もあれば、医療組合を脅迫して受付の人を殺したという噂もある。もちろん嘘のような噂話もある。


 たとえば凄腕の傭兵が手に入れた〈遺物〉を殺して奪ったという話だ。ひとりで廃墟の街を探索しているだけでも信じられないことなのに、傭兵を襲うなんてバカげてる。


 でもそれらの噂話には共通点がある。それは彼が時と場所を選ばず容赦なく人を殺していることだ。その危険人物が目の前にいる。少年は怖くなって思わず目を伏せた。


 レイラに怯えている少年を横目に、ベティは小さな女の子に声をかけてから、レイラの手を引いてその場をあとにする。ふたりの姿が見えなくなると、少年はホッとしたが、すぐに感謝の言葉を口にしていなかったことに気がついた。


 キラキラした瞳で紙袋を見つめていた妹にパンを手渡すと、今度ふたりにあったときには、怖がらずに感謝しようと心に誓った。

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