第106話 失敗(ケンジ)


 失敗した。

 刃が眼球と鼻根びこんの間を撫でるように通過した瞬間、鋭い痛みと熱を感じて、ケンジは反射的に顔に手をあてる。熱を持った液体が手のなかで広がり、ヌルリと指の間から流れ落ちていく。


 途端に後悔の念に駆られる。どうして重装甲戦闘服を装着したまま彼らの相手をしなかったのだ。そもそも強力な後ろ盾がある連中だからといって、下手に出る必要なんてなかったのだ。


 装甲服の能力を使えばビーの偵察ユニットを奪い、この場から逃走することも難しくなかったはずだ。こんな連中に腕を差し出すなんて正気じゃない。


 激しい痛みに思考が遮断される。

 顔面に鋭い金属を無理やり捻じ込まれるような痛みに頭の中が燃え上がる。鼓動のたびに目と目の間から後頭部にかけて痛みが全身に広がり、拷問にも似た激痛に間断なく襲われる。


 そのあとにやってくるのは感情のたかぶりだ。血が沸き立つような耐え難い怒りだ。己を傷つけたモノに対する深い憎しみの感情だ。


 けれど何もかも手遅れだということも分かっている。自分は底なし沼に立っている。そして視界を奪われた今、そこから抜け出すことは不可能に近い。


 それよりも痛みだ。激痛によって思考が中断され、自制できない痛みによって何も考えられなくなってしまう。装甲服を装着していれば、自動的に痛みを和らげる作用のある鎮痛剤や抑制剤が投与されていたが、この状態ではクスリの投与は望めないだろう。


 片膝をついた状態で顔面を押さえて止血を試みるが、痛みで何も考えられなくなる。そもそも考えるどころではない。皮膚は肉体を保護するためのモノでなくなり、痛みを全身に伝える感覚器官に、苦痛そのものを伝播する器官に変化する。痛みが全身をいまわり、動けば動くほど痛みが広がる。


 けれど経験したことのない痛みに対処する方法は存在しない。どんなに訓練された傭兵でも、痛覚を制御するインプラントがなければ痛みに耐えることはできない。

 血液に濡れた手で痛み止めの錠剤が入ったケースを探すが、直後に痛みで動けなくなる。


 どうすればいいんだ。


 間断なく襲い来る痛みの隙間を埋めるように、同じ質問が頭の中で木霊する。


 どうすればいい。俺はこれからどうすればいいんだ?



 兄弟が義肢を変形させて敵対者の顔面を斬り裂くのが見えた。いつものように鮮やかな手口だ。けれど今回はいつもと様子が異なっていた。全身の鳥肌が立つような恐怖に身体からだ強張こわばるのを感じたかと思うと、次の瞬間には兄弟の頭部が風船のようにふくらみ、ポンと破裂するのが見えた。


 兄弟が殺された。それを認識したときには物陰に身を隠して戦闘に備えていた。


 狙撃手が潜んでいたのだ。それも相当に腕の立つ狙撃手だ。けれど同時に疑問が浮かぶ。周辺一帯は光学迷彩を備えた超小型ドローンによって監視されていて、蠅のように飛び回る偵察ドローンの網の目を潜ることは不可能に近い。たとえ高性能なインプラントで身を固めていても結果は変わらないはずだ。


 と、多脚戦車の近くに立っていた兄弟の身体が破裂して、血液や内臓が地面に飛び散る。


「一体なんだっていうんだ」


 ライフルを手に取り薬室確認を行ったあと、気持ちを落ち着かせるために息をつく、それから瓦礫がれきの陰から身を乗り出して周囲の様子を確認した。すると入場ゲートのそばに立っていた兄弟が存在も朧気おぼろげな触手につかまり、乱暴に身体を引き裂かれながら宙に放り投げられるのが見えた。


 あの化け物は……俺は何を見ているんだ?


 恐怖に身体が硬直するのが分かった。未知の変異体に襲われている。しかしそれこそあり得ないことだ。地中から接近してくる多種多様な化け物を監視するセンサーが常に稼働していて、警備システムによって管理されている。その監視網を避けることのできる生物は存在しないはずだ。


 そこでハッとして拠点にいる兄弟と連絡を取ろうとする。けれど〈サイバネティクス〉が機能せず、誰も侵すことのできない〈セラエノ〉のネットワークに接続することすらできなくなっていることに気がついた。


 何かがおかしい。得体の知れない恐怖が足元からい寄るような、言葉にできない恐怖に身体の震えを抑えることができない。


 俺たちは何に手を出してしまったんだ。


 そしてそこで気がつく。侵入者のとなりに女が立っている。存在が不確かな、まるで亡霊のように半透明な姿をした女性だ。


 けれど女性だと思っていたモノは瞬きのあと、触手に覆われた肉塊に姿を変えていた。それは数え切れないほどの瞳を――ひとつひとつが拳ほどの大きさを持つ瞳がキョロキョロと動き、周囲の様子を注意深く観察していて、粘液質の体液に濡れた触手は肉塊を優しく包み込むようにうごめいている。


 その場に立っていられないほど眩暈めまいと吐き気に襲われ、思わず目を逸らす。


 違う。あれは変異体なんかじゃない。あれはもっと別の――。


 超構造体の地下にある〈神の門〉を使い、異界を調査している精鋭部隊〈テング〉の隊員から、〈混沌の領域〉に生息する化け物の話を聞いたことがある。


 それらの化け物は、高度な技術によって遺伝情報の改変が行われ、地上を警備する兄弟たちを遥かに凌駕する身体機能を有する〈テング〉でも太刀打ちできない存在だという。


 もしかしたら、自分はそんな化け物と対峙しているのではないのか。しかし最後のそのときまで化け物の正体を知ることはできなかった。そこまで考えて瞬きをしたあと、視界が目まぐるしく動いて、どういうわけか目の前に自分自身が履いていたブーツがあることに気がついた。そしてそこで意識が途切れた。



 周囲の敵対者を殺しても彼女の気持ちは収まらなかった。

 彼に気づいてもらえた。そのことが嬉しくて気持ちが浮ついていた。


 ちょっとした悪戯心いたずらごころのつもりだったのに、結果的に大切な存在を傷つけてしまうことになってしまった。幼い彼女がその胸のうちに抱いた感情は、後悔と、自分自身に対する怒り、そして〝えだ〟としての不甲斐なさだった。母にどう説明したらいいのだろうか。


 彼女の身勝手な怒りは周辺一帯の生物にまで及び、やがて彼女を中心にして半径一キロ圏内に生息するすべての生命が、小動物から昆虫、そして植物にいたるまで死に絶えることになった。


 周囲を監視していた機械人形やドローンは電子回路を焼かれ機能を停止し、いかなる通信も不可能になり、監視衛星からも確認できない空白地帯になる。


 けれど彼女はもう失敗をすることはできなかった。

 ケンジのとなりに立つと彼の手から転がり落ちた偵察ユニットを拾い上げる。そしていにしえ御呪おまじないを口にしてから、そっと息を吹きかける。するとそれまで機能を停止していた機体が起動し、彼女の手からフワリと離れていく。



 この場でネットワークに接続できる唯一の存在になったことを知らないビーは、システムが立ち上がると同時に自己診断を行いながら周囲の様子を確認する。


 建設現場に続く壁に近づきすぎないように注意しながら飛行しているとき、何者かの攻撃を受けて捕まってしまったところまでは覚えていたが、それ以外のデータは破損していて確認することができなかった。


 ビーの周囲には襲撃者だと思われるモノたちの残骸が転がっていたが、それは重要なことではなかった。ビーは負傷していたケンジの姿を見つけると、スキャンを行い素早く状況を把握することに努めた。


 眼球は完全に破壊されていたが、それほど深刻な傷ではない。しかし致命傷にならない傷でも、急速に血液が失われることで出血性ショックに陥り、深刻な状態になることもある。


 すぐさまケーブルを伸ばし装甲服に有線接続すると、遠隔操作しながらケンジの応急処置を行う。マニピュレーターを器用に動かし傷口を圧迫しながら止血を試み、適切な量の鎮痛剤を投与する。


 すでにレイラとアネモネに連絡していたが、この場所がどこよりも安全な地域になっていることを知らなかったビーは、すぐに移動することを選択した。動体センサーを起動し、周辺に動きがないことを確認すると、霧深い夜の集団墓地のように静まり返った通りを歩いて拠点に向かった。

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