第92話 思考(ケンジ)


 目が覚めたとき、ケンジはハクの背に横たわっていた。彼はほぼ無意識に周囲の安全性を確認したあと、しばらくの間、ハクの腹部に揺られながら身体からだに異常がないか確かめることにした。激しい戦闘が行われたのにもかかわらず、奇跡的に軽い打撲を負っているだけで、すぐに動けるような状態だった。


 あの場所でなにが起きていたのか、彼にはハッキリと思い出すことができた。しかしそれは何処か非現実的で、考えれば考えるほど、現実に起きたことだと思えなかった。けれどズキズキと痛む身体の節々が、それが現実に起きたことなのだと訴えかけていた。


 彼は溜息をつくと、そっと身体を起こした。


「目が覚めたか」

 アネモネの言葉にうなずいたあと、窮地から救い出してくれた彼女たちに感謝の言葉を口にした。


 そしてひとりで危険を冒してしまったことを謝罪した。いつもの冷静な彼なら、あんな過ちは犯さなかっただろう。けれどあのときの彼は、誰の目から見ても異常な精神状態だった。


 敵拠点で経験した数々の超常現象や、黒光りするグロテスクな昆虫のことを思うと、心臓が不吉な音を立てるのが分かった。幼いころから異常な現象に遭遇する機会が多く、これまでも廃墟の街で奇妙な光景や、普通の人間には見えないモノを見てきた。けれど今回の体験は、すべてが常軌を逸していた。


 異形の人擬きに人間をにえとして捧げていた悪魔崇拝者の巣窟を調査すること、それが今回の探索の目的だったが、我々は別の――より厄介な面倒事に直面することになった。あの奇妙な祭壇の前で遭遇した女性は、〈神の門〉を通って〈異界〉からやってきた存在なのだと考えられたが、実際のところは分からない。


 いずれにせよ、今回のことはレイラに相談する必要がありそうだ。廃墟の街の何処か、人間に想像することもできない地の底で邪悪が息づいている。そしてそれは虎視眈々こしたんたんと人間の生活圏に攻め入る隙をうかがっている。


 混沌とした地の底で、邪悪で、それでいて崇高な存在が争いを続けている。教団はそのことを知っていたのではないのだろうか。彼らは荒ぶる異形の祟りを恐れ、それを鎮めるために生け贄を捧げていたのではないのだろうか。しかし見当違いの信仰で脅威を退けることなど不可能だ。


 あるいは、美しい処女を生け贄にして現実逃避していた教団が正しかったのかもしれない。気が狂うような真実の前では、優しくて温かい虚構が必要だった。だからこそ彼らは狂気のなかに身を沈めていったのだ。


 けれど教団が壊滅してしまった今では、信者がなにを考えていたのかを知る術は残されていない。異形の人擬きである〈苗床なえどこ〉がつくりだす赤子のような生物を食料にするためだけに、あの化け物を飼い慣らしていたのかもしれない。教団の真意はもう誰にも分からない。


 でもとにかく、あの邪悪で崇高で、それでいて美しい女性との邂逅によって彼の現実は永遠に変わってしまった。世界の真実から目を逸らして生きることも、間抜けのフリをして生きていくこともできなくなってしまった。


 今なら〈混沌の領域〉から生還したレイラが抱えていた鬱々うつうつとした気持ちを理解することができる。あの尊厳的な存在の前では、自分がいかに矮小な存在に過ぎないのかを思い知らされる。


 朦朧もうろうとしていた意識がハッキリしてくると、ケンジはハクに感謝してから、ベティが操縦するヴィードルまで歩いていった。すでに夜の帳が下りていたので、動ける時間帯になるまで、安全な場所で休むことになった。


 野営地となった廃墟の周囲にハクが糸を張り巡らせているのを見ながら、ケンジは敵拠点で何が起きたのか彼女たちにたずねることにした。


 ベティとハクは、それがあたかも偉大な英雄たちの物語のように、自分たちの活躍を熱く語り出した。ケンジは適当に聞き流していたが、やがて堪えきれなくなって笑ってしまう。気分を良くしたハクとベティの話は、さらに熱を帯びていく。


 コウモリの化け物について一通り話し終えると、今度はケンジが地下での出来事を話すことになった。彼は淡々と真実だけを語ったが、燐光を帯びた触手を持つ生物など、ベティたちが遭遇しなかった変異体の話も登場したので、彼女たちに理解してもらえるように詳細を話す必要があった。


 アネモネたちはケンジを捜索する過程で、彼が異形の生物と遭遇した部屋も探索していたが、やはり彼が語った生物の姿は確認できなかった。


 ケンジの第六感とも呼べる〈超感覚的知覚〉について知っていたアネモネは、彼の言葉を疑いはしなかったが、本当にそんな生物が敵拠点に存在しているのか調べる気にはなれなかった。


 理由は分からなかったが、あの集落には二度と近づきたくないとさえ考えていた。


 そのあと、ベティはケンジが手に入れていたレーザーライフルを調べたが、彼の生体情報が登録されてしまっていたので彼女には使えなかった。ガッカリする彼女を余所に、ケンジはベティが見つけていた記憶装置を調べることにした。


 そこには教団の支部についての情報や、教団と〈不死の導き手〉との関係性について、ある程度、推測することができる情報が残されていた。


 やはり〈不死の導き手〉から提供された注射器によって、集落の住人は人擬きに変異してしまっていたようだ。教団は不死の導き手から資金や武器を提供してもらう代わりに、信者の家族を新薬の被検体として利用した。まるで動物実験のようなことが行われた結果、集落の住人は全滅することになった。


 それが〈不死の導き手〉が意図した結果だったのかは分からない。あの集落の地下では常識外の現象が起きていたのだから、想定外のことが起きていても不思議じゃない。


 それでも疑問は残る。ケンジが手にした小箱や祭壇、それに地下深くに残された石鳥居など謎は尽きない。旧文明期に進められた都市開発の煽りを受けて、名のある神がまつられた神社が地中に埋められてしまったとも考えられるが、それが事実なら恐ろしい。


 日本は神の国だ。かつて軍人たちと海を渡り、国を離れた八百万やおよろずの神々が、いつしか忘れられてしまったように、旧文明期にも多くの神が失われ、損なわれてしまったのかもしれない。そうした神々が〈混沌〉の影響を受けて、人間の脅威になるような存在になってしまう可能性はないのだろうか?


 超自然的に発生する〈神の門〉が存在する以上、そんなことはあり得ないと断言することもできない。


 廃墟の街で経験する超常現象のなかには、ある種のインチキめいたオカルトとは別の次元にある現象が存在しているのかもしれない。そしてそうした現象の多くには、〈混沌〉の意思が介在しているとも考えられる。


 これから傭兵として仕事を請け負うときには、そうした現象にも注意しなければいけない。でなければ不測の事態に巻き込まれて、のっぴきならない状況におちいってしまうかもしれない。


 でもとにかく〝彼女〟の言葉が正しければ、もう赤子の泣き声に悩まされることはないだろう。ケンジは頭の中で渦巻うずまく思考を廃墟の片隅に放り投げると、高層建築群の隙間から見える星空をぼうっと眺めた。そしていつしか暗い眠りの底に落ちていった。


 静かな寝息が聞こえるようになると、ハクはケンジのとなりにやってきて、そっと彼に身を寄せた。すると廃墟の暗がりから忍び寄ってきていた邪悪な影が姿を隠すのが見えた。


 ハクはそれに満足すると、レイラに今日の出来事をどんな風に話して聞かせるのかを考えることにした。ヒーローのように活躍したと知ったら、きっと喜んでくれるだろう。触肢で地面をベシベシと叩いたあと、ハクは考えに没頭することにした。

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