第91話 気配(アネモネ)


 下水道に続く金属製の重い扉は、錆びた鎖で施錠されていて開きそうになかった。

「鍵を探している余裕なんてないのに」


 アネモネが舌打ちするのを見ていたベティは、スカートのなかに手を入れるとブロック状に小分けされた可塑性かそせい爆薬ばくやくを取り出す。

「ねぇ、お姉さま。これで扉を吹き飛ばしちゃおうよ」


 アネモネは爆薬を受け取ろうとしたが、思い直してすぐに手を引っ込めた。

「建物の基礎に深刻なダメージを与えるかもしれない。ほかの方法を探そう」

「残念」


 ぬいぐるみリュックに爆薬を放り込むと、〈ビー〉が操る偵察ドローンが飛んでくるのが見えた。


『アネモネさまに賛成です。それに「急がば回れ」という言葉もあります。近くの部屋を探索すれば鍵が見つけられるかもしません』

 ビーがそう言ったときだった。ハクの容赦のない蹴りで重い扉が騒がしい音を立てて吹き飛んでいくのが見えた。


「やっぱりハクは頼りになるね」

 得意げなベティの姿に、ビーは思わず溜息をついてしまう。

『ハクさまに頼ることに慣れてしまうのも、どうかと思いますよ』


「わかってる。でも今は緊急事態でしょ」

 ビーの偵察ドローンは、まるで首を振るように機体を左右に動かすと、下水道に続く暗い通路に入っていった。


『ハク、めんぼくない?』

 白蜘蛛がトコトコとやってくると、ベティは頭を横に振る。

「ううん。ハクのおかげでケンジを助けに行けるようになった」


『ケンジ、あぶない?』

「ちょっとだけピンチなのかもしれない。でもヒーローは仲間を見捨てたりしない」

『ん。ハク、ヒーロー』


 ハクのモコモコした体毛を撫でたあと、ベティはショルダーライトをつけて、先行していたアネモネと偵察ドローンのあとを追うように扉の先に向かう。


 地下に続く通路は湿気でジメジメしていて、足元の床はヌルヌルしていて滑りやすくなっていた。けれど二機の偵察ユニットが確認していた気色悪い昆虫の姿はなく、足元さえ不確かな闇が立ち込めているだけだった。


「ハクの気配に怯えて逃げ出したのかもしれない」

 アネモネはそう結論付けたが警戒は怠らなかった。下水道に得体の知れない変異体が潜んでいることは分かっていた。あのグロテスクな化け物はハクのことを恐れない可能性がある。彼女はいつでも戦闘行動に移れるように、恐るべき集中力を発揮して神経を研ぎ澄ませていく。


 そんな彼女とは対照的に、ベティとハクは下水道の環境にウンザリしていた。足元はヌルヌルしていて、通路の端にある溝には汚水が流れ込んでいてボコボコと嫌な音を立てている。ガスマスクを装着していなければ、臭いで頭がおかしくなっていただろう。


「ねぇ、ハクは大丈夫?」

 ベティの言葉に白蜘蛛はベシベシと地面を叩く、するとネチャネチャ液体が飛び散る。


『ひどい、ばしょ』

「だね。すぐにケンジを見つけ出さないと、わたしたちも湿気にやられてネトネトに溶けちゃう」


『ハク、とけないよ?』と、白蜘蛛は身体からだを斜めに傾ける。

「たとえだよ。ほんとに溶けたりしない」

『ふぅん』


「ねぇ、ハク。危険な気配は感じる?」

 ハクは立ち止まると、その場で身体を回転させる。

『けはい、たくさん』


「敵が沢山いるってこと?」

『ん』

「こんな暗くて狭い場所で戦うなんて嫌だなぁ」


 ベティが深い溜息をついたときだった。ゴリゴリと堅いモノがこすれる音が聞こえてくる。


 彼女はすぐにライフルを構えると、照明でぼんやりと浮かび上がる通路に銃口を向けた。すると昆虫の変異体が人間の死骸をむさぼっている姿が確認できた。先ほどから聞こえている嫌な音は、おそらく骨を咀嚼していた音なのだろう。


 偵察ドローンから受信していた敵の位置を確認しながら、アネモネとベティは攻撃に適した場所まで静かに移動する。その間も不気味な昆虫は食事を続けていて、ハクに関心を持つこともなかった。やはり異界からやってきた怖いもの知らずの生物なのかもしれない。


 鞘翅しょうしの隙間から見えている腹部に照準を合わせたあと、アネモネはベティとハクに攻撃の合図を出した。


 射撃時に発生するマズルフラッシュによって通路が明るくなると、無数の昆虫の姿が浮き彫りになる。けれど怖気づくことはしない。目の前の脅威を排除することだけを考えて射撃を続ける。


 ゴキブリにも似た甲虫は硬い甲殻に覆われていたが、腹部などのやわらかな箇所に攻撃を命中させることができれば、それほど苦労することなく倒すことができた。けれど動き回る生物に弾丸を命中させるのは至難の業だ。


 ましてや自分をい殺そうとする相手ならなおのことだ。弾薬を無駄にしないように射撃を続けていたが、ハクの助けがなければ弾薬が底を突いて窮地に陥っていただろう。


 そのハクは強酸性の糸の塊を吐き出して、暗闇から姿を見せる邪悪な蟲を次々と始末していく。


 天井や壁に張り付いて、空間を立体的に使いながら容赦のない攻撃を続ける。その動きには微塵の躊躇ちゅうちょもなかった。地底の深い闇と温もりのなかで憎しみを蓄えてきた化け物も、まさか己よりも恐ろしい生物に殺される日が来るとは想像していなかったはずだ。


 弾倉の再装填が間に合わなくなると、アネモネは義手の仕込み刃を使って昆虫をほふっていく。空間の揺らぎとしか表現できないような不自然な空気の流れを感じたのは、ヌルヌルした体液に濡れた触角が彼女の身体に触れそうなほど近づいていたときだった。


 どんよりとした重たい空気が、突如通路の奥から吹きつけた風によってかき混ぜられると、見ているだけで全身の鳥肌が立つようなグロテスクな昆虫が遠ざかっていくのが分かった。化け物は音も立てず暗闇のなかに身を隠して、その気配さえ消しながらいなくなってしまう。


 ベティは二機の偵察ユニットを呼び寄せると、ハクに手伝ってもらいながら周囲の捜索を行うが、邪悪な蟲は完全に姿を消してしまっていた。あとに残ったのはまずしい集落でも目にする手のひらほどのゴキブリだけで、その数も驚くほど少なかった。


 なにが起きたのか彼女たちには見当もつかなかったが、とにかく脅威が去った。この機会を無駄にするわけにはいかなかった。彼女たちは不気味な――以前にも増して、奇妙な静けさに支配された通路を歩いてケンジを探した。


「お姉さま、こんなところに鳥居があるよ」

 しばらくして聞こえてきたベティの言葉に彼女は疑問の表情を浮かべるが、たしかに草臥くたびれた石鳥居が立っているのが見えた。


 二機の偵察ユニットで探索したときには姿形もなかったので、まるで狐に化かされているような不思議な気持ちになった。しかし石鳥居は実在していて、触れることすらできた。


「通路の先に何かあるみたい」

 ベティとハクのあとを追うように石鳥居の先に向かうと広い空間に出る。半球型の天井を持つ広場のような場所で、地上から水が流れ込んでいるのか、四方の壁は常に水に濡れているような状態だった。


「あの化け物の死骸だらけだよ」


 ベティの言葉にうなずくと、昆虫の死骸が転がっている広場に足を踏み入れる。先ほどまで激しい戦闘が行われていたのか、昆虫の体内から飛び出た内臓からは湯気が立ち昇っていた。けれど広場の中央に近づくにつれて昆虫の死骸は減り、代わりに人間の遺体を多く見るようになった。その多くは子どものモノだった。


『みつけた』

 幼い声が内耳に聞こえると、アネモネはハクのもとに駆けていった。すると地面に倒れているケンジの姿が見えた。彼女は彼のことを抱き起すが、昏睡状態なのか、何度も名前を呼んでも答えてくれなかった。


 すぐにビーに頼んで怪我をしていないか調べてもらうことにした。深刻な怪我をしていないことが分かると、ハクに頼んで地上まで連れて行ってもらうことにした。


 この場所で何かが起きたことは間違いない。しかしアネモネとベティにはその痕跡を見つけることはできなかった。周囲には死骸が横たわっているだけで、ケンジが遭遇した不思議な女性も、そしてあやしげな祭壇も存在しなかった。そこでは血も凍るような空気が横たわっているだけだった。

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