第87話 蟲(ケンジ)


 暗闇に残像だけを残して、赤い閃光がすうっと消えていく。その閃光の直撃を受けた昆虫の甲殻には大きな穴が開いていたが、損傷箇所の周囲は赤熱していて蒸気をあげていて、体液が飛び散ることはなかった。


 大型犬ほどの体長の昆虫がドサリと倒れると、壁や地面をっていた小さな昆虫が死骸に群がるのが見えた。どこにこれほどの昆虫が潜んでいたのか分からなかったが、近づかないほうが賢明だろう。ケンジは昆虫の群れに警戒しながら、通路の先に広がる暗闇にレーザーライフルの銃口を向けた。


 するとライフルの角張った外装に組み込まれていた超小型環境センサーが展開して、暗闇に潜む生物を検知し、ケーブルで接続されていた端末に情報を送信する。


 ケンジはフェイスプレートに表示される甲虫の輪郭線を確認する。赤い線で輪郭を縁取られた無数の昆虫は天井や壁に張り付いていて、安全に進むには、それらすべての昆虫を相手にする必要がありそうだった。


 まるで鞭のように長い触覚をユラユラと揺らしながら、ガサガサとはねこすり合わせていた昆虫に照準を合わせたあと、思いとどまって天井に張り付いていた一際大きな個体に照準を合わせた。フェイスプレートには個体の大きさを基準にして、生物を破壊するのに最適だと思われる射出力が計算されて表示される。


 ケンジは引き金にかけていた人差し指を動かすと、出力調整のダイヤルをカチカチと操作して最適な出力に設定して引き金に指を戻した。暗闇に耳を澄ませたあと、呼吸を意識して引き金を引いた。閃光が残像の尾を引きながら暗闇を突き進む。


 硬いモノが砕けて水が沸き立つような奇妙な音が一緒に聞こえたかと思うと、水気を多く含んだ破裂音が聞こえてバラバラになった甲虫の肉片や体液が飛び散る。その音に反応して、大きな昆虫が暗闇のなかでガサガサと動くのが見えた。


 たしかに標的を破壊するのに適した出力だったが、けれど目的を達成するには出力を調整する必要があった。ケンジはじっとその場にとどまると、活発に触角を動かしていた昆虫が落ち着くのを待った。


 彼の周囲には無数の昆虫が――手のひらほどの大きさのゴキブリに似た昆虫が地面をっていたが、あの奇妙な小箱を所持しているからなのか、近づいてくることはなかった。それでも昆虫が首筋や背中を這っているような、不快感を伴う嫌な感覚が続いていた。


 ケンジは深呼吸したあと、フェイスシールドに投射される昆虫の輪郭線に照準を合わせた。すでに出力は調整していた。


 あとは適切なタイミングで射撃を行うだけで良かった。赤く細い線が暗闇に浮かび上がると、頭部を失った昆虫がドサリと地面に落下する。その瞬間、周囲の昆虫がガサガサと動いてむさぼるようにして死骸を処理していく。


 今回は狙い通りに攻撃することができた。得体の知れない昆虫が死骸に集中している間に、この場を離れるだけでいい。効果があるのか分からなかったが、念のため〈環境追従型迷彩〉を起動する。


 一呼吸置いたあと、ケンジは通路の先に向かって歩いて行く。大型犬ほどの昆虫の群れは、ふたつの大顎を交互に動かしながら硬い甲殻ごと死骸の肉を咀嚼していた。ケンジに対して関心がないことは分かっていたが、それでも近くを通るときはゾッとして全身の鳥肌が立つのが分かった。


 恐怖に思わず走り出してしまいそうになるが、なんとか気持ちを落ち着かせて歩き続けた。空気はどんよりとしていて重たく、通路にとどまり続けているようだった。


 それは汚泥のようにケンジの身体からだに絡みついて歩みを遅くした。このまま何もせずに座ることができれば、どれほど楽ができるだろうか。悪魔のさえずりにも似た誘惑を払いのけながら進む。


 ショルダーライトの薄明りを頼りにジメジメした通路を歩いていると、どこからか水が流れる音が聞こえてくる。


 気がつくと壁も地面も濡れたようにぐっしょりと湿っている。ライトを動かすと、天井や壁に設置された配管から漏れ出した油脂状の物質が固まっているのが見えた。灰色がかった油の塊はあちこちで見られ、黒光りする甲虫が張り付いている。


「気をつけて」と、女性の姿をした〝何か〟が言う。

「この先には、あの邪悪な〈蟲〉よりもずっとおぞましいモノがいる」


 ケンジはライフルを肩につけ、前方を睨みながら女性のことについて考えた。おそらく幻覚を見ているのだろう。あの澄んだ声も幻聴に違いない。でも、それがなんであれ、彼女の警告は間違っていない。


 彼の視線の先には広場のようなガランとした空間があって、天井のずっと高いところから外の光が差し込んでいるのが見えた。


 その光に浮かび上がるように、広場の中央に台座があり――まるでにえの祭壇のようなモノがあって、その周囲に数え切れないほどの死骸が積み上げられていた。しかしそれは上階で見たモノと異なり、死体の多くは人間の子どものモノだった。


 手足が欠損しガスで膨張した腐乱死体には、奇妙なことに昆虫が群がっていなかった。あの背筋が凍るような恐ろしい暗黒の虫でも近づくことを躊躇ためらわせる異質な空間なのかもしれない。


 ケンジは心を落ち着かせるように、ガスマスクをしっかり装着しているか確認したあと、祭壇に向かって歩き出した。


 と、真っ白な腕が死体の山から飛び出すのが見えた。その腕はヌラヌラした体液に濡れていたが、損傷は見られなかった。その腕がもう一本あらわれると、死体の間からいずるようにして幼い子どもが姿を見せた。衣服を身につけていない子どもは、粘液質の体液に濡れた身体からだを揺らし、ひたひたと歩いて祭壇の側に立つ。


 子どもは死者のような青白い顔でじっとケンジを見つめる。それがまともな人間じゃないことは、火を見るより明らかだった。ライフルの高性能なセンサーでも子どもは人間として認識されず、不明個体としてタグ付けされて、敵性生物を示す赤い線で輪郭が縁取られた。


 少年にも少女にも見える繊細で傷ひとつない未発達な身体に、こぶのようなモノがあらわれるのが見えた。それは見る見るうちに身体中にできていき、あぶくのように盛り上がると、次々と破裂していった。すると膿のようなドロリとした体液が、気色悪い昆虫と一緒に飛び散るのが見えた。


 無数の瘤が破裂した所為せいで先ほどまで傷ひとつなかった子どもの身体には、まるではす花托かたくのように無数の穴が開いてしまい、その穴のひとつひとつから吐き気をもよおす昆虫がモゾモゾと這い出てくる。


 髪は抜け落ちて爪が剥がれ、皮膚がズルリと垂れ下がる。そうして子どもだったモノは、大量の昆虫によって覆われてしまい人の形すらとどめられなくなっていった。


 ケンジは直感的に感じた。混沌が忍び寄っているのだと。彼がそこで感じた気配は、〈兵器工場〉の地下深くに存在する坑道で感じたのと同じ気配だった。このままにしておくことはできない。


 昆虫の集合体に変異した子どもに照準を合わせたあと、ソフトウェアが指定した出力に設定する。先ほどの甲虫よりも脅威度が高いのか、高出力のレーザーで攻撃を行うことになる。


 相当なエネルギーを消費することになるが、ここであの化け物を倒せなければ生き残ることはできない。ダイヤルを操作すると、間髪を入れずに引き金を引いた。


 空気を震わせる特徴的な鈍い音が響き渡ると、暗闇が赤い閃光に染まる。放熱によって一瞬の間に熱せられた空気が身体に掛かる。


 思わず顔をしかめたが、化け物から視線を外すようなことはしない。赤熱し膨張した化け物の肉体が破裂すると、昆虫やらブヨブヨした白身、そして気色悪い体液が飛び散る。


「これで終わりなのか」

 拍子抜けしたように息を吐き出すと、背後から女性の声が聞こえる。

「油断しないで」


 大型犬ほどの体長を持つ甲虫が天井から次々と降ってきたかと思うと、熟れた果実のようにグシャリと潰れていくのが見えた。しかしすべての甲虫が潰れた訳ではなかった。ブヨブヨとした死骸の上に落下して、かろうじて生き延びることができた甲虫が長い脚を動かし、黒光りする翅をガサガサと震わせながら近づいてきた。

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