第86話 暗闇(ケンジ)
扉を開いた瞬間、まるで波が引くように、無数の昆虫が闇の中に隠れるのが見えた。下水道に続く階段に視線を向けたあと、ケンジは周囲の環境を確認することにした。相変わらずデータベースとの接続はできなかったが、情報端末とガスマスクの機能は回復していたので、酸素濃度と有毒ガスの確認を行う。
安全性が確認できると、ひどい湿気で曇っていたフェイスシールドを綺麗にしてから移動を開始した。階段の隅には溝があって、どこからか汚水が流れ込んでいることが確認できた。
ヌメリのある壁には、親指ほどのゴキブリが大量に張り付いていたが、あの奇妙な小箱を持っているからなのか、長い触角を動かすだけでケンジに近づくことはなかった。
階段の先は道幅の狭い通路になっていて、天井のあちこちに照明が設置されていた。作業員たちが用意したモノなのか、適当につなげられたケーブルが垂れ下がっている。階段の近くに電気を供給する小型発電機があることも確認できたが、故障していて動かなかった。
ジメジメした薄暗い通路を歩いていると、急にショルダーライトが
そして異変に気がつく。それは奇妙な暗闇だった。
重たく、粘液質で、ドロリと
ケンジはその闇のなかに、得体の知れない気配を感じ取っていた。まるで姿の見えない亡霊が、深い闇の中から、こちらの様子をじっと
死期が迫る病人めいた臭いを漂わせながら、亡霊がひたひたと迫ってくる。ケンジは気配を感じた方向に身体を向けた。すると鼻先に腐臭を吹きつけられたような気がした。が、それは錯覚だったのか、ふと亡霊の気配が消えてしまう。そこには深い闇に満ちた空間があるだけだ。
形あるモノが何ひとつとして認識できない暗闇のなか、ケンジは
それから子どもの声が聞こえてきた。無邪気に笑い合う声だ。それが背後から近づいてくる。ケンジは身体を動かそうとしたが、手足は麻痺したかのように本来の感覚を失っていた。彼は大きく息を吐き出した。
そして〝落ち着け〟と自分に言い聞かせた。
あれはただの幻聴だ。だから落ち着いて対処すればいい。
ケンジは子どもたちがそばを通り過ぎていくまで、じっと暗闇に立っていた。やがて手足の感覚が戻り、あの得体の知れない気配も消える。するとショルダーライトが明滅して、機能が完全に回復する。彼は深呼吸すると周囲に視線を向けた。通路に変化はなく、人擬きの気配も感じられない。
ユーティリティポーチからフラットケーブルを取り出すと、情報端末に接続したあと、レーザーライフルの外装に触れながら接続端子を探す。〈データベース〉との接続が遮断されている状態では、たとえ〈ビー〉がいたとしても無線接続することはできなかっただろう。しかし有線なら何とかなるかもしれない。
汎用性が高く信頼できるケーブルだったので、接続に関して問題は起きないだろう。ライフルのシステムに接続すると、情報端末に情報が表示されるようになる。ガスマスクの側面にある小さな装置から細いケーブルを伸ばして情報端末に接続すると、フェイスシールドに投射されていたインターフェースにも同様の情報が表示された。
ライフルは日本製だったので、システム言語を再設定する必要がなかった。難しい漢字が使われていなかったので、ケンジはホッとする。兵器使用の権限に関する注意事項が表示されたが、どういう訳かケンジの生体情報は登録されていて、問題なく使用できるようになっていた。
そのことに関して困惑していると、通路の先から子どもの
『マルデカラカワレテイルヨウダ』
子どもたちの笑い声が薄暗い通路に
どうかしてる、とケンジは頭を振る。
この暗闇がありもしない声を聞かせている。これもすべて恐怖の
ライフルの仕様に関する説明が表示されるが、まずは〈超小型核融合電池〉の装填方法を調べる。
フェイスプレートに表示された映像に従って所定の位置に電池を装填すると、エネルギー残量の表示方法に関する選択肢があらわれる。カラーバーやパーセント表示などの項目があったが、数字で残弾数が表示されるシンプルな表示方法を選択する。
射撃方法も選択可能で、単射と連射、それに高出力の連続射撃にも対応しているみたいだった。レーザーを発射するさいに手動で出力調整ができるように、ピストルグリップにダイヤルがついているのが確認できた。インターフェースを通して無線で操作することに慣れてしまえば無用の長物になるが、現状では有難い仕様だった。
変形機構も備えていて長距離射撃にも対応しているようだったが、さすがにソフトウェアを介した操作が必要だったので、今は制限されて使えない機能だった。
と、通路の先からネコほどの体長がある小動物が接近してくるのが見えた。下水道に迷い込んだドブネズミだと考えていたが、薄闇から姿を見せたのはバッタの
そのネズミにもリスにも見える変異体は、壁に張り付いているゴキブリに向かって跳躍して、目にもとまらない速さでゴキブリを捕まえる。
異形の変異体が昆虫を捕食する様子をじっと眺めていると、両手にゴキブリを握っていた生物がこちらに視線を向けた。ゾクリと嫌な予感がすると、すぐにライフルを構えて
赤い閃光が暗闇に残像を浮かび上がらせたかと思うと、変異体の上半身だけが溶けて消失しているのが見えた。レーザーはそのまま後方の壁にも直撃していて、貫通痕がある場所は赤熱していて、そこだけぼんやりと明るくなっていた。
ダイヤルの位置が最低出力を示す〈小〉に設定されていることを確かめたあと、インターフェースに表示されていたエネルギーの残量を確認する。現在の出力での射撃なら――銃身の劣化と交換について考慮しなければ、数百回の射撃が可能だということが分かった。
エネルギーの転化効率が優れているのか、それとも電池が特別なのか分からなかったが、この兵器を使えば難しい仕事も遂行できるかもしれない。念のため、自己診断プラグラムを走らせる。システムに異常がないことが確認できると、ライフルを構えながら通路の先に向かう。
しばらく歩くと、壁に張り付いていたゴキブリがいなくなって、代わりに手のひらほどの大きさの昆虫を見るようになる。黒光りする甲殻を持つゴキブリに似た甲虫だったが、カマキリのように二つの大顎があり、小さな昆虫をムシャムシャと咀嚼していた。
最悪な環境で育ったからなのか、ケンジは昆虫に慣れていたが、それでもそのグロテスクな昆虫には近づきたくないと考えた。
その昆虫に照準を合わせたときだった。ガサガサと嫌な音が聞こえた。まるで大きな
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