第85話 小箱(清掃員)


 長く尾を引く悲鳴が聞こえたあと、トタン屋根を叩く雨音で目が覚めた。悪夢を見ていたのかもしれないが何も思い出せない。


 とにかく体調が悪かった。身体からだが重く熱っぽい。唾を飲みこむだけでも喉が痛くて、血液が混じった痰を吐くようになった。それでも身体を起こす、ひどく気怠いが何か食わなければ死んでしまうだろう。


 やっとのことで古ぼけたチェストフリーザーが置かれた部屋まで歩いてきたが、足元はふらついていて、何度も倒れそうになった。


 部屋の掃除をサボっていた所為せいもあるが、ゴミで散らかった部屋のあちこちでゴキブリに似た奇妙な昆虫を見かけた。それは腐肉を好む昆虫で下水道でしか見たことがなかったが、どうして集落にいるのだろうか。


 フリーザーに手を掛けたときだった。どこかでロープが軋んでいることに気がついた。幻聴だろうか、となりの部屋に向かうと吐瀉物のような嫌な臭いが鼻を刺す。誰かが吐いたのだろう。建て付けの悪い扉を開くと、天井のはりに吊るされた人間の姿が目に入る。


 口内から垂れ下がる舌には、あの奇妙な昆虫が張り付いていて、眼球のない眼窩がんかから体内に出入りしているのが見えた。


 顔面の皮膚は腐敗していてドロドロになり、粘液質の液体が糸を引いて滴り落ちている。その状態になってから時間が経っているのか、ロープが食い込んだ首は引き千切れそうなほど伸びていて、腹は今にも破裂しそうなほど膨れていた。


 それでも時折、モゾモゾと手足を動かしているのが見えた。人擬きに変異していることに気がついて、仲間を襲うようになる前に自ら命を絶ったのだろう。


 損傷がひどく誰なのか分からなかったが、ソレが身につけていた作業着には見覚えがあった。下水道で一緒に作業していた清掃員だ。何とはなしに手を合わせると、ゆっくりと扉を閉めて鍵をかけた。


 喉が渇いていたが飲料水を見つけることはできなかった。昆虫がカサカサといずるスチールラックに視線を向けると、数週間前に下水道から持ち帰った薄汚れた小箱が置かれているのが見えた。


 理由は分からなかったが、その小箱の周囲にだけ昆虫は近寄らなかった。重たい腕を持ち上げると、ひったくるように小箱を手に取って部屋をあとにした。


 さびれた建屋が並ぶ通りに立つ。熱で火照った身体を小雨が冷ましていく。教団の幹部が戦闘員を連れて逃げるように集落を出ていってから数日、人間の姿を見かけなくなった通りは寂し気で、憂鬱な天気と相まって無人の集落に見えた。


 と、子どもが路地に向かって駆けていくのが見えた。治療法すら存在しない熱病で多くの子どもが亡くなったと聞いていたが、最悪の事態は避けられたのかもしれない。


 どうしてだか分からなかったが、その子どものあとを追うように歩きだした。


 人気ひとけのない路地に入ると、ガサガサと昆虫がいずる音が聞こえてくる。足元に視線を向けると、昆虫の行列が目についた。小指ほどの大きさのモノから、手のひらほどの大きさの気色悪い昆虫の列だ。


 そこだけ油を流れているように、赤茶色の艶を持つ昆虫がうごめいていて、その行列は途切れることなく続いている。


 吐き気がしたが、嘔吐えずくだけで唾すら出なかった。

 途中で何度も引き返そうと考えた。けれど足を止めることができなかった。行列の先から音が聞こえる。まるで呼び声のような音が聞こえるのだ。


 不意にその音がピタリと止まる。昆虫が発する音も聞こえない。

 ……

 ……完全な静寂だ。


 視線を動かすと、地面に泥沼のようなモノがあるのが見えた。肥溜めだろうか……いや、あれは下水道に続く縦穴がある場所だ。深くて誰も近づかない縦穴だ。その縦穴の表面が蠢いている。異形の沼を確認しようとして近づく。


 それは昆虫の集合体だった。何百、何千と数え切れないほどの昆虫が密集して蠢いて、ヌラヌラと濡れた体表をこすり合わせながら絶えず動いている。痛みをともなう耳鳴りのあと、嫌な音が聞こえるようになった。ゴキブリに似た昆虫が立てる嫌な音だ。


 急に怖くなると、護身用につねに持ち歩いていたハンドガンに手を伸ばすが、この日に限って武器を持たずに小屋を出たことを思いだす。薄汚れた小箱を後生大事に持っているだけだった。


 その場から走って逃げ出そうと考えた。けれど、あの呼び声が聞こえる。気色悪い昆虫が蠢く縦穴の底から声が聞こえる。熱に浮かされた頭のどこかで、戻ろう……すぐにこの場所から離れよう。そう考えるが、足が動いてくれない。あの小箱を手に入れた場所に戻りたい、その思いだけが強くなっていく。


 覚悟を決めて縦穴に近付いた。すると鼓膜を揺さぶるような甲高い悲鳴が聞こえた。次の瞬間、縦穴から昆虫がドッと溢れて、四方八方に散り散りになりながら消えていった。


 昆虫がいなくなり、ぽっかりと口を開いている縦穴を覗き込んだあと、地下に向かってゆっくりと歩き出した。


 大丈夫、この小箱があれば昆虫に襲われることはない。

 そう思いながら手元の小箱を見つめた。



 いつの間にか手にしていた小箱を見た瞬間、ケンジは驚いて箱を取り落としてしまいそうになった。けれどすぐに周囲の異変に気がついて、小箱を脇に抱えるとライフルを構えた。


 数え切れないほどの〈苗床なえどこ〉の赤子が、ケンジを取り囲むようにして暗闇の中から姿を見せた。しかし攻撃の意思はないのか、彼のことをじっと見つめるだけで何もしてこなかった。


 ひどく混乱していると、ブヨブヨとした太い触手がズルズルと何かを引きりながらあらわれて、上半身だけになった死骸をケンジの目の前にドサリと置いた。それは清掃員の作業着を身につけた人間の遺体で、化け物の触手が男の頭部に突き刺さっていた。


 光が流れていた触手が激しく輝くと、ケンジはコクリとうなずく。


 化け物の意図は理解できなかったが、この小箱を持って下水道に行かなければいけないと感じた。振り返ると通り道をつくるように〈苗床〉の赤子が暗闇に姿を隠すのが見えた。ケンジは発光し続ける化け物の触手を一瞥したあと、小箱を脇に抱えたまま廊下に出た。


 ガスマスクの側面を指先で叩いたが、相変わらずアネモネたちとは連絡が取れなかった。〈ワヒーラ〉と二機の偵察ドローンからの情報も受信できない。状況は最悪だった。けれど引き返すことはできそうになかった。振り返ると〈苗床〉の赤子が壁をつくるように上階に続く非常階段を塞いでいるのが確認できた。


 危険を冒して赤子を処理するという選択肢もあったが、あの得体の知れない化け物の望み通り、この小箱を然るべき場所に置いて来ることを優先したほうがいいだろう。


 それがどうして化け物の望みなのかは分からない。ただ、そう感じるのだ。この小箱を本来あるべき場所に返す。そうすれば、あの奇妙な現象や体験の数々から解放されるかもしれない。


 下水道に続く扉の前に立つと、〈廃棄物処理場〉と書かれた標識にちらりと視線を向ける。錆びが目立つ両開きの扉を開く前に、上階で回収していたレーザーライフルの電源を入れて射撃可能な状態にする。どこかで試射を行う必要があるが、実弾系のライフルより役に立ってくれるかもしれない。


 触れているだけで鳥肌が立つような不気味な小箱は、持参していたパラコードを巻き付けて腰に吊るすことにした。この先には〈苗床〉の赤子にとって脅威になるような、そんな恐ろしい化け物が潜んでいる。だからこそ強力な武器を装備した人間を送り込むのだろう。


 ケンジは気を引き締めると、重い扉を押し開いた。

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