第82話 金切り声(ベティ)
薄暗い廊下を徘徊する人擬きが立てる水気を含んだ嫌な足音を聞きながら、アネモネとベティは物陰に身を隠して脅威をやり過ごす。
生きたまま得体の知れない昆虫の棲み処にされていた人擬きは、かつては〈カルト集団〉の戦闘員だったのか、小銃を肩に提げ、カチャリカチャリと小さな金属音を鳴らしながら歩いていた。
小銃は人擬きの皮膚から噴き出す腐敗液で汚れていて、ゴキブリにも似た奇妙な昆虫がカサカサと移動しているのが見えた。
その人擬きはガラスのない窓枠から差し込む光を嫌うように、廊下の隅を歩いていたが、壁が崩落して明るくなっている場所に出ると、それまで
かろうじて活動を続けられる限界の状態で生かされているからなのだろう、フラフラと歩いていた人擬きが壁にぶつかると、皮膚がズルリと剥がれ落ちる。
それは見ているだけでも気分が悪くなる光景だったが、危険な人擬きから視線をそらすようなことはできない。グロテスクな化け物が通り過ぎるのを待って、それからアネモネたちは行動を再開した。
『アネモネさま、興味深いモノを見つけました』
「了解、場所を教えてくれ」
ビーから受信した情報をもとに暗い廊下を進み、非常階段を使って上階に向かう。各階層の出入り口は厚い防火扉で閉ざされていたが、最上階の防火扉だけは開け放たれていた。
「人擬きの足跡がある」
アネモネは床にべったりと残されていた体液を確認すると、ワヒーラから受信する索敵情報をもとに人擬きの位置を推測する。その間、ベティは薄暗い通路に照明装置を向けて近くに人擬きがいないか確認する。しかし、どういうわけか最上階では階下よりも壁が崩落していて、外の光が差し込む場所が多く見られた。
「行くよ、ベティ」
アネモネが通路の先に向かうと、ベティも周囲に警戒しながらそのあとを追った。縦横無尽に
けれど日の光が届かない空間に入ると景色は一変する。植物は見なくなり、経年劣化で使い物にならなくなったテーブルやイスが雑多なゴミと一緒に転がっている。
「ビー、照明を頼めるか」
偵察ドローンが音もなく飛んでくると、暗い部屋を照らす。扇状に広がる照明に浮かび上がったのは、無数の標本瓶だった。
ここでは化け物の研究が行われていたのか、人擬きのモノだと思われる奇妙な肉塊が多数確認できた。
「人擬きは信仰の対象ってだけじゃなくて、研究する対象でもあったんだな」
アネモネは前屈みになると、机に並べられていた標本瓶の中身を確認する。
水溶液に浸かる人擬きのモノだと思われる頭部には、無数の眼がついていて、アネモネの動きに合わせてゆっくり眼球を動かしていた。
「これはちょっと苦手だなぁ」
ベティの言葉にアネモネは全面的に同意した。
「たしかに気味が悪い場所だ。でも――」と、彼女は部屋の奥に照明を向けながら言う。「ここで人擬きに関する何かしらの研究が行われていた可能性がある。人擬きの特殊個体を調査しているペパーミントの役に立つ資料があるかもしれない」
「特殊個体って、〈
「そう。だからベティも突っ立ってないで、探すのを手伝ってくれ」
「了解」
彼女は気怠そうに返事すると、標本瓶が並ぶ不気味な部屋に照明を向けた。
砂埃を被った棚を調べていると、生後間もない赤子にも似た変異体が入った標本瓶を見つける。
ベティは顔をしかめるが、その瓶のすぐ後ろに空間があることに気がつく。彼女は
「あぁ、そういうことね」
得意顔で腕を組むベティのとなりにアネモネがやってくる。
「なにか見つけたのか?」
「うん、この棚のうしろに隠し部屋があるみたい」
アネモネは眉を寄せると、標本瓶の間から見える空間に照明をあてた。
「ビー、この中を調べてきてくれ」
偵察ドローンによって室内の安全が確認できると、アネモネとベティは標本瓶を倒さないように注意しながら棚を移動させて、隠し部屋に入っていった。
「むしろ拷問部屋だな」と、アネモネは溜息をつく。
薄暗い部屋には鎖につながれた状態で白骨化した遺体と、拷問器具として利用されていたと思われる血染めの工具、それに、部屋の様子を常に監視するためのカメラが複数設置されていた。
「ハズレだ」
アネモネは手に持っていた錆びたペンチを床に捨てると、さっさと部屋を出て行く。ベティもそのあとに続いたが、カード型の記憶装置が机に置かれているのを見逃さなかった。
そのカードを回収してぬいぐるみリュックに放り込んだときだった。地響きのような音に続いて、生物が発する金切り声のような音を聞いて慌てて廊下に向かう。
崩落した壁から外の様子を確認すると、高層建築群の何処かで――厚い雲の
「……マズいな」
アネモネが不安を口にしたときだった。空を黒く染めていた飛行生物の群れは、急降下しながら真直ぐ飛んできた。
身を乗り出して生物の群れを観察していたベティが視界に入ると、アネモネは彼女のことを強引に引き込むようにして壁から遠ざける。次の瞬間、無数の生物が嫌な音を立てながら建物の壁に衝突していった。
ひどく混乱していたのだろう、大型犬ほどの体長があるコウモリのような変異体は、建物を避けることができずに、次々と壁に激突して息絶えていく。そのうちの何体かは崩落していた壁から建物に侵入してくる。最悪なことに、翼を激しく損傷して
赤紫色の体毛を持つ変異体が口から粘度の高い血液を吐き出している様子を見ながら、ベティはライフルを構えた。
「お姉さま?」
ベティの言葉にアネモネは迷うことなくうなずいてみせた。
「射撃を許可する。あれに接近される前に殺せ」
銃声を気にしている余裕なんてなかった。今も混乱した無数の化け物が建物に衝突していて、崩落していた壁から建物内に侵入する化け物の数も増えていた。
ベティは〈大樹の森〉に生息するサルの変異体について噂を聞いたことが何度かあった。そのサルは縄張りに侵入した生物をことごとく殺すと言われていたが、縄張りに接近した生物に対して警告を行うことでも知られていた。
警告を聞いて素直に引き返すことができれば、サルの餌食になることはないという。そしてその警告は、耳をつんざく金切り声で行われると言われていた。
「きっとこんな声なんだろうな……」
ベティはコウモリの化け物が発する金切り声に顔をしかめながら、フルオート射撃で攻撃を行う。
赤紫色の体毛を持つ化け物は、深緑色の体液を撒き散らしながら死んでいく。どうやら通常弾でも殺すことができるようだ。そのことが分かると、ベティは息をゆっくり吐き出しながら気持ちを落ち着かせて射撃に集中する。
不死の化け物だって相手にしてきたのだ。殺せる生物なら恐れる必要はない。
「ベティ、階段まで後退する!」
金切り声に言葉を掻き消されないように、アネモネは声を張り上げると、背後からベティに襲い掛かろうとしていた化け物を義手の刃で両断する。
コウモリの化け物は恐ろしい牙と、翼の間にある爪をつかって二人を引き裂こうとする。コウモリと同じように、あの翼も手脚が変化したモノなのだろう。親指だと思われる箇所には鋭い鉤爪が見えていた。
化け物と交戦しながら非常階段の入り口までやってくると、二人は防火扉を閉じて化け物の侵入を何とか食い止めることに成功した。しかしこれからは銃声で目を覚ました人擬きの相手もしなければいけない。そのことを考えるだけで気が重くなった。
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