第81話 赤黒い筋(ケンジ)


 雑木林からカラスの鳴き声が聞こえてきたかと思うと、それまで聞こえていた赤子の不気味な泣き声がピタリと止まる。周辺一帯は奇妙な静寂に包まれて、風に揺れる草木の音しか聞こえてこなかった。


 この手の不可思議な体験は、これまでも何度か経験していたが、足元から恐怖がい上がってくるような感覚には慣れなかった。ケンジは辺りを注意深く見回したあと、アネモネたちが鳥居に近づかないように警告した。


 ベティはそのことを疑問に思ったが、わざわざ雑草をかき分けて近づくのも面倒に感じたので、とくに気にするようなことはなかった。


 それから三人は〈環境追従型迷彩〉を起動した状態で廃墟に接近する。壁面には弾痕が多く残り、人擬きや昆虫に食い荒らされたと思われる人間の骨が転がっていた。


 人擬きに占拠された集落に略奪者の類が潜んでいるとは考えられなかったが、それでも上階からの攻撃を想定して、死角になる場所を利用して正面入り口に向かう。


 六階建ての縦に細長い廃墟は〈旧文明期以前〉の建物に見えたが、基礎がしっかしているのか、一部の壁が崩落しているだけで倒壊しそうな雰囲気は感じられなかった。


 その建物をぐるりと囲むように、背の高い雑草が繁茂はんもしていて、ジメジメした環境の所為せいで壁面の大部分に苔が生えていた。


 集落の偵察を終えていた〈ビー〉によって建物内の索敵が行われていたが、まだ全容を把握する段階に達していなかったので、慎重に行動する必要があった。建物内に人擬きが潜んでいた場合――確実に潜んでいると思われるが、それらの個体の注意を引くことは避けなければいけない。


 エントランスまでやってくると、アネモネはハンドシグナルを使って二手に分かれるように指示した。義手の邪魔にならないように外套の袖を捲りあげていたので、ハンドシグナルが視認できないという状況にはならなかった。


 しかし光学迷彩のことを知らない人間が見たら、義手だけが空中に浮かんでいるという奇妙な光景に驚いていたのかもしれない。


 アネモネとベティがエントランスホールに入っていくのを確認したケンジは、近くの茂みに〈ワヒーラ〉を待機させると、二機の偵察ドローンを従えて建物内に侵入する。ベティほどではないが、ケンジもドローンの操作には慣れていて、的確に指示を出しながら室内の調査を進めることができた。


 エントランスを抜けて廊下に入ると、途端に日の光が届かなくなり暗くなったので、ショルダーライトを使いながら廊下を進むことになった。この状態では環境追従型迷彩は役に立たないので、すでに停止させていた。


 ガスマスクのフェイスシールドに投射されるドローンからの別々の視点映像を確認していると、〈カルト集団〉の警備隊の詰め所だと思われる部屋を見つける。


 ゴミが散らかる薄暗い廊下を歩いて目的の部屋に到着する。すでに人擬きがいないことは確認されていたが、習慣としてライフルのストックを肩付けしながら部屋に入る。


 ジメジメした暗い部屋に窓はなく、足元にはゴミと人間の骨が散らばっている。その死体から流れ出した腐敗液が赤黒い染みをつくっていて、部屋に入っていくと親指の爪ほどある無数のハエが飛びあがり、嫌な羽音を立てた。


 警備室としても利用されていたのだろう、いくつかのモニターと操作端末が備え付けられていたが、それらの機材も破壊されていて使い物にならない状態だった。拠点から逃げ出すさいに、意図的に破壊していったのかもしれない。ちらりと視線を動かすと、長机の上に無造作に小銃が置かれているのが見えた。


 旧式のアサルトライフルを手に取ると手早く状態を確認する。埃を被っていたが泥水に浸かっても作動するライフルだったので、簡単な整備ですぐに使えるかもしれない。しかし余計な荷物になってしまうので、回収は諦めることにした。弾倉は互換性があったので持っていくことにした。


 スムーズに給弾が行えるように、限界まで弾丸が詰まっていた弾倉から一発ずつ銃弾を抜き取ってからユーティリティポーチに入れていく。あまった弾丸もポケットに放り込んで、それから目ぼしいモノがないか室内を調べる。


 警備室の奥には仮眠室があり、狭い場所に二段ベッドが置かれていた。マットレスや毛布はカビで変色していて、空の缶詰や携帯糧食のゴミが散乱している。そしてやはりこの場所にも人間の骨が散乱していた。


 それが人擬きによって行われたのか、あるいは昆虫の変異体によるモノなのか断定することはできないが、集落を巻き込んだ襲撃がカルトの拠点から始まったことは間違いないだろう。そして信者には逃げる時間すら与えられなかったようだ。


 仮眠室から出て行く前にアネモネたちの状況を確認することにした。人擬きと遭遇したみたいだが、無事に切り抜けられたようだ。上階の調査は彼女たちに任せて、地下を調べたほうがいいのかもしれない。


 そう思って警備室に戻ると、入り口のすぐ脇にガンラックがあることに気がついた。開いた扉の裏に隠れていたので見落としていたようだ。


「ツイてるな」


 ガンラックは施錠されていたが、錠前には鍵が挿さった状態だった。襲撃のさいに相当慌てていたことが窺えた。錠前を外すと保管されていた武器を確認する。見慣れた旧式の小銃に雑じってレーザーライフルと、弾薬として機能する〈超小型核融合電池〉が保管されていた。


 白地に赤いラインの塗装が施されたレーザーライフルは、ジャンクタウンにある〈軍の販売所〉でも売っていないモデルだった。砂埃や泥で汚れていたが、外装に目立った傷や錆は確認できなかった。装備していた小銃を背中に回すと、レーザーライフルを手に取って状態を確認する。


 アネモネかベティが近くにいたら〈接触接続〉ができたので、ネットワークを介してカグヤにライフルの状態を確認してもらえたが、ケンジはひとりだったので調べることができなかった。


 ともあれ、貴重な装備であることは間違いないので回収することにした。専用の電池は手のひらに収まるほど小さかったが、ずっしりとした重さがあった。


 警備室を出ると廊下の先を偵察していたドローンの照明が見えた。何か見つけたみたいだ。フェイスシールドの端にドローンの視点映像を表示すると、廊下の壁に汚れた雑巾で撫でたような赤黒い筋が付着しているのが見えた。その筋は深い暗闇に沈みこむ廊下の先に続いていた。


 ドローンが廊下の先に向かって飛んで行くと、ケンジは映像で確認した壁を調べに行くことにした。


 突然、嫌な寒気がして全身の鳥肌が立つと、ケンジは違和感を覚えてふと足を止めた。ペタペタと裸足で走り回る子どもの足音のようなモノが聞こえてくるのだ。咄嗟にライフルを構えて廊下の先に銃口を向ける。が、照明で浮かび上がる廊下に子どもの姿はない。


 野生動物が入り込んだのだろうか。そう考えて周囲を調べるが、もちろん小動物の姿はない。ドローンの映像を確認しようとするが、フェイスシールドは反応しなかった。


「またあの奇妙な現象か」


 ケンジは舌打ちすると、ライフルを構えたまま廊下の先に歩いて行く。するとクマのぬいぐるみがポツンと床に落ちているのが見えた。明らかに不自然な状態のぬいぐるみを視界の端に置きながら周囲に目を配る。が、相変わらず足音が聞こえるだけで、子どもの姿は見えてこない。


 ぬいぐるみの近くに立つと、廊下の先に銃口を向けながらどうするのか考えた。しかし悩んでいても仕方がないので、ぬいぐるみを調べることにした。ライフルを背中に回すと、取り回しがいいハンドガンを腰のホルスターから抜いた。スライドを引いて安全装置を確認すると、前屈みになってぬいぐるみに手を伸ばす。


 照明装置の光に照らされたぬいぐるみに手が触れたときだった。視界の端に子どもの青白い足が見えた。ひどく驚いたが、習慣として身についていた動きが無意識に出て、ハンドガンの銃口を子どもに向けた。


 野良着だろうか、ボロ切れを身につけた子どもが照明のなかに浮かび上がる。それは異常な光景だった。その子どもには顔がなかったのだ。上顎から上は潰れていて、ダラリと垂れ下がる長い舌とオモチャのような小さな歯が見えた。


 子どもは痙攣するようにビクリと身体からだを震わせると、潰れた頭をグチャリと壁に押し付けるようにして、廊下の先にペタペタと走っていった。その間、ケンジは壁に残されていく赤黒い筋を見つめながら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

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