第51話 盲いた旅人(廃墟の街)


 あなたのうわさを耳にはしておりました。

 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

 それゆえ、私は塵と灰の上に伏し

 自分を蔑み、悔い改めます。


                  ヨブ記42章5-6節


 黄金に輝く光芒こうぼうの導きに従い、彼女は荒廃した街を歩き続けた。廃墟の通りを徘徊する偽りの不死者の群れは、狂気をはらんだ彼女の眼に脅え、薄闇のなかに醜い姿を隠す。


 しかしめしいた旅人の眼に映るモノはなく、ぼんやりとした黄金の――あの懐かしく、そして美しい輝きだけが、彼女の世界を、暗黒に満ち満ちた世界を照らすことができた。


 そのぼんやりとした輝きのなかに、ふと見知らぬ少女の姿を見た。


 燐光りんこうを帯びた青白い肌に、透き通るような銀髪、そして紅い瞳。少女は廃墟と化した教会の尖塔せんとうから飛び降りると、音もなく盲いた旅人のそばに近づき、どこに行くのかとたずねた。


 わからない。

 彼女はそう答えると、静かに頭を横に振った。


 不死の祝福を与えられし征服者にして、いやしい裏切り者として知られた簒奪者の末裔は、鉄の王冠を胸に抱き、少女にどこに行くのかと訊ねた。


 少女はどこにもいかないのだと答えた。

 散策するのが好きなだけだと。


 私も同じなのかもしれない、と盲いた旅人は思う。


 人々に見捨てられた世界の――廃墟に埋もれた街のすべてを彷徨い歩く。そして人形に管理された壮麗な建物が崩れ、すべての生命が塵に変わっても、私は生きていかなければいけない。


 少女は軍用車両の車列に近づくと、ベルト給弾式の錆びついた銃火器を興味深そうに眺めた。盲いた旅人は少女に声をかけると、完全に水没した地下鉄駅の入り口を指差した。少女が松葉色の水面に視線を向けると、波が立ち、汚れた戦闘服を身につけた男性があらわれた。


「女の死体……」と、彼の声は震える。

「それに……あれは大蜘蛛なのか?」


 盲いた旅人が男性の近くに立つと、男は腰を抜かし、濡れた小銃を取り落とした。


「頼む、殺さないでくれ……」

 男性は震える声で言う。

「お願いだ。殺さないでくれ……」


 人擬きから逃げるのに夢中になり、仲間とはぐれてしまった哀れなスカベンジャーは、祈るように言葉を繰り返した。


 どうして汚れた水溜まりのなかに隠れていたのかと少女が訊ねても、男性が返事をすることはなかった。彼は怯えながら命乞いを繰り返し、少女と目を合わせようとしなかった。


 盲いた旅人が歩き出すと、少女もそのあとに続いた。男性の存在を気にするモノは、腹を空かせた獰猛な変異体だけになってしまった。


 そびえ立つ高層建築物によって、暗く深い峡谷を思わせる場所に変わってしまった幹線道路を歩いていると、暗がりから緑の巨人がぬっと姿を見せる。ツル植物と枯れ枝に覆われた巨人は、青白い燐光を帯びた少女を捕まえようとして無数の触手を伸ばしたが、盲いた旅人の姿を見つけるとピタリと動きを止めた。


 そして放置された無数の車両を踏み潰しながら、その場にひざまずいてみせた。

『千の名を持つ卑しい裏切り者よ、この地は貴様の呪いを必要としない』


 盲いた旅人はうなずき、それから言った。

 自分たちはただの通りすがりだと。


『神に逆らう者よ、それは〝神々の大いなる怒り〟で暗躍した女の娘だな。どうして彷徨える獣は、その娘と一緒にいる』


 盲いた旅人は幼い少女に顔を向けると、やわらかな表情で微笑み、それから巨人に向かって冷たい声で言った。


 どうして私にそんなことを訊ねる?

 でも……〝どうして私にそんなことを訊ねるんだ〟


 緑の巨人は首を振り、おもむろに立ち上がると、地響きを立てながら林立する高層建築物の間に消えていった。盲いた旅人は地響きが聞こえなくなるまでその場に立ちつくしていたが、やがて瓦礫がれきで埋め尽くされた通りに向かって歩き出した。


 暗く危険に満ちた森のそばを歩いていると、ふと少女の気配が消える。盲いた旅人は立ち止まり、風に揺れる木々の音を聞きながら少女が戻ってくるまで待つことにした。風が吹くと、植物の青臭く咽むせるような臭いがあたりに充満する。


 しばらくすると、大量の果実を抱えた少女が戻ってくる。盲いた旅人は少女に感謝すると、言われるまま手にした果実を口に運んだ。熟れた果実は甘く、舌にピリピリとした刺激を残した。


 森を離れると、崩壊寸前の高架橋を歩いて街の上層区画に向かう。風はつめたく、時折、腐臭が混じることがあった。しかし彼女は気にしなかった。死の臭いには慣れていた。


 地面に広がる血溜まりの上をベチャベチャと歩く。周囲には略奪者と変異体の死骸が積み重なるように横たわっている。


『待ってくれ』と、青ざめた略奪者が言う。

『俺の足が何処にもないんだ。あんたが何者か知らないが、一緒に探してくれないか』


 盲いた旅人は首をかしげて、それから訊ねた。

 どうして足が必要なんだ?


うちに帰りたいんだ。もうこんなところにはいたくない』

 ちらりと少女の脚に顔を向けると、青ざめた略奪者は笑った。


『違う、それは俺の足じゃない。その脚じゃ、俺は家に帰れない』

 彼が笑うと、横たわっていた無数の死骸も堪えきれずに笑い出した。


 死骸を踏み越えて十字路に差し掛かると、彼女の周りに無数の警告文が投影される。それが何を意味しているのか少女には分からなかったが、盲いた旅人は慌てなかった。人間を模してつくられた人形があらわれ、取り囲まれてしまったときでさえ、彼女は少しも慌てることはなかった。


 どうして〝彼ら〟は、こうまでして人間の似姿をつくりたがるのだろうか。

 盲いた旅人は目に見えない事実を掴もうと虚空に手を伸ばすが、そこには何もなかった。


 意識を持たない人形がいっせいに動きだす。けれど盲いた旅人が手のひらを向けると、人形は動きを止め、彼女にこうべを垂れる。少女は人形が見せた動きに驚き、そこに潜む秘密を暴きたいと考えた。


 盲いた旅人のあとを追って無数のホログラム広告が投影される通りを歩いていると、黒曜石にも似た不思議なうろこを持つ生物が近づいてくるのが見えた。


 二対の小さな複眼に細長い触覚、そして四本の腕を持つ生き物は、盲いた旅人の姿に驚きその場に立ち尽くす。


 敵意はない、と彼女は頭を横に振る。

 ただ冷たい道を歩いているだけだと。


 人間のように歩く不思議な生物は、鮮やかな青色の花と黄金色の草に覆われた広場に盲いた旅人を案内する。そこには六本の手足を持つ生物が整列し、空を仰ぎ見ている。彼女は導かれるまま広場の中央に向かう。そして彼女は雲間から差し込む光の柱のなかに立って、じっと空を見つめる。


 少女はそれから何が起きるのか観察することにしたが、盲いた旅人は黄金の彫像に変わり、岩のように動かなくなってしまった。


 退屈になってしまうと、少女は広場を離れてしまう。彼女が経験した不思議な現象は、どこか形而上学的な体験を含んでいたが、そのすべてが実在しないものとは考えられなかった。現実と夢を区別することが、ある種の信仰において常に議論されるのと同様に、それを嘘だと断言することは不可能だったからだ。


 やがて盲いた旅人はゆっくり深呼吸をして、果てのない旅に出るだろう。彼女は海が乾き、世界が塵に埋もれるそのときまで歩き続けるだろう。あるいは、いつか許しが与えられ安寧を見いだすのかもしれない。しかし彼女は神々に抗ったことを後悔していない。


 地の底に隠された人々の秘密が暴かれるその日がこないことを、彼女は願い祈り続ける。今日も明日も、そして遠い未来も。


 不思議な体験をした少女は、愛する人々が待つ家に帰る。いつか彼女の記憶は色褪せてしまう。しかしそれが失われることはないだろう。

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