第10話 覚醒剤(レイダー)


 綺麗に編み込まれた空色の長髪を背中で揺らしながら、アネモネは廃墟の薄暗い通路を進む。カビ臭い廊下には戦闘糧食の缶詰と大量のゴミが放置されていて、廊下の隅には黄ばんだマットレスが無雑作に置かれていた。


 その汚物まみれのマットレスには、ヘッドマウントデバイスで仮想現実を楽しんでいる女性が涎を垂らしながら座っているのが見えた。彼女の側には〈メタ・シュガー〉と呼ばれる覚醒剤の注射器が転がっていた。


 ドブネズミがやってきて彼女の太腿の上に乗ると、女性は狂ったように笑い出した。大量に摂取したドラッグの影響で、現実と幻覚の区別もつかなくなっているのだろう。


 メタ・シュガーは通常の覚醒剤よりも優れた効果が得られると言われている。頭が妙に冴えて、時間や距離に関する感覚に変化が生じたり、異常な幻覚作用と共に快楽を得たり、眠気を感じなくなって疲労感が失われたりする。


 それは誰もが知る効果だったが、メタ・シュガーが特別なドラッグだとされていたのは、副作用の心配をする必要がないからだった。


 覚醒剤の効果が切れると、個人差はあるが、大抵の人間は激しい虚無感や疲労感に襲われる。それが覚醒剤に対する依存性を強くしている要因でもあった。しかし乱用を続けると、精神に異常をきたすほどの幻覚や妄想に囚われる。


 ひどいときには錯乱状態になって、発作的に他人に暴行を加えたり、無意識に仲間を殺したりすることがあるほどだった。


 旧文明の施設で手に入るエナジードリンクよりも効果があり、安価だったメタ・シュガーはレイダーギャングから愛され、鳥籠で暮らす人々の間にも瞬く間に普及していった。けれどメタ・シュガーは夢のようなドラッグではない。


 メタ・シュガーを常用している人間だけが昆虫型変異体の標的にされて、襲われたという報告は後を絶たない。原料に昆虫の関心を惹く何かが含まれているのではないのか。誰もが疑問を抱いていたが、メタ・シュガーの売り上げが落ちることはなかった。


 鳥籠を支配している富裕層を相手に、レイダーギャングが商売を始めたからだと言われていたが、真相は分からない。


 この世界に誕生してから死ぬまでの間、鳥籠を離れないような連中は、凄腕の傭兵に護衛されていて、昆虫に襲われる心配なんてする必要がない。だからメタ・シュガーの需要がなくなることはないとも言われていた。


 だけどメタ・シュガーだけで商売をする組織は存在しない。その理由は簡単だ。メタ・シュガーを製造する際には、専用の設備を備えた大規模な施設と、製造の過程で発生するガスに引き寄せられる大量の昆虫を処理するための傭兵部隊が必要だったからだ。


 メタ・シュガーを製造するための原料は安価で、ツテがあれば旧文明の販売所で大量に仕入れることができるが、引き換えに施設と護衛部隊の維持に莫大な金が必要になる。だからこそ、メタ・シュガーを製造している組織は限られている。


 メタ・シュガーについてつらつら考えて歩いていると、アネモネは目的の部屋の前に到着する。両開きの大扉の前には二メートルほどの大男が立っている。男性の平均的な身長よりも背が高かったアネモネが見上げなければいけないほどの大男だ。


「武器を持っていないか調べさせてもらうぞ」

 大男は下卑た笑みを浮かべながら言う。


「調べるだと?」アネモネの背後から声がすると、彼女の部隊に所属しているケンジが前に出る。「俺たちが誰だか分かってんだろ? ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」


「規則なんだよ」大男は舌打ちする。

「大丈夫だ」アネモネはケンジの肩に手を置く。

「さっさと済ませよう」


「なら調べるぞ」

 大男が手を伸ばすと、ケンジがまた前に出る。

「おい、金属探知機はどうした?」


「失くしたんだよ」大男はニヤリと笑みを浮かべる。

 アネモネは肩をすくめると、腕を軽く広げた。大男のゴツゴツした硬い指が腰を撫でると全身の鳥肌が立つのが分かった。


 大男はそのままアネモネの乳房を執拗に触り、そして彼女の股間にゆっくり手を伸ばした。その瞬間、アネモネは義手の前腕を変形させて刃を出現させると、大男の首筋にそっと刃をあてた。


「んん」と、アネモネは頭を横に振った。

「そいつはやり過ぎだ。分かるだろ?」


 大男は敵意がないことを示すように、両腕を持ち上げると飛び退くように後退る。

「ちょっとした冗談だ。気分を悪くしたなら謝る」と、彼は汗を掻きながら言う。


 アネモネはうなずくと義手を変形させた。ぞっとするほど鋭い刃が白地に金で装飾された義手に収納されると、アネモネは指の感覚を確かめるように手を握りしめた。


 ケンジは舌打ちすると、大男を押し退けて部屋に入っていった。薄いベニヤ板で窓という窓が塞がれていた部屋には、タバコの煙と大麻が持つ独特の臭いが充満していて、部屋の奥では半裸の女性たちが気だるい表情で抱き合っているのが見えた。


 アネモネとケンジは部屋の中央に置かれたソファーまで歩いていくと、分解したアサルトライフルを整備している男性の前に立った。


「イカれた守護者に拠点が襲われたらしいな……」

 男性は整備を続けながら言う。

「災難だったな、アネモネ」


 アネモネは男性が顔をあげるまで待って、それから彼の青い瞳を見ながらうなずいた。

「あんたの部下の大半も死なせてしまった」

「想定していた事態だよ。それに、連中の代りはいくらでもいる」


 アネモネは溜息をついて、それから天井に吊るされていた照明に視線を向ける。

「それで、私たちに話があるって聞いたけど」


「これからどうするつもりなんだ?」

 アネモネは男性の長い睫毛を見つめて、それから言った。

「どうするもなにも、この世界で生き延びるために最善を尽くすだけだよ」


「やれるのか?」と、男性は挑発的な笑みを浮かべる。「部下の大半が死んだんだ。支援してくれる組織もツテもなくなった状態で、どうやって廃墟の街でやっていくつもりなんだ」


「さぁ?」

「なぁ、アネモネ。意固地になるな。助けが必要だったら、俺たちが支援してやれるんだ」

「代わりに私は何をするんだ?」


 アネモネの声が冷たい響きを帯びていることに気がついていたが、男性はあえて気づいていないフリをした。


「知っていると思うが、俺のボスは気が弱い男でな……誰かに自信をつけてもらって、優越感を得られないと、まともに仕事もできないような人間なんだ」


「それで?」アネモネは目を細めながら言う。

「綺麗な女性にその役目を与えてやりたいんだ。やることは簡単さ、ボスが気持ちよくなることを耳元で囁いてやればいい。そういうことに身体をつかってはいけないほどに、女性の身体は神聖なものじゃないだろ?」


「断る」

 アネモネは落ち着いた声で答えた。


 男性は溜息をつくと、手にしていたリコイルスプリングをテーブルに載せた。

「ならどうするんだ?」


「仕事を探すよ」

「奴隷を捕まえる仕事はしたくないんだろ?」


「メタ・シュガーだ」アネモネは足元に転がる注射器を見ながら言う。

「メタ・シュガーの製造拠点の警備はできないか?」


「ダメだ」

 男性が頭を振ると、アネモネは顔をしかめた。

「どうしてだ」


「拠点が存在しないからだ。潰されたんだよ」

「敵対する組織にやられたのか?」

「違う。やったのは白い蜘蛛を使役する男と、姉妹たちのゆりかごの警備団だ」


「蜘蛛?」ケンジが驚く。

「大樹の森からやってきた蟲使いですか?」


「違うようだ」

「白い蜘蛛……?」

 アネモネが首を傾げると、男性は彼女の目を見つめながら訊いた。


「何か知っているのか?」

「拠点が守護者に襲われたとき、白い蜘蛛を見たんだ。そのときは錯覚だと思っていたけど……」


「男の姿は見たか? 若い野郎だ」

「いや、見てないよ」


「ケンジ、お前はどうなんだ?」

「見てません。あの場にいたのは狂った守護者だけでした」


「そうか……」男性はうなずくと、カード型の携帯端末を懐から取り出して、それをアネモネに手渡した。「そこにメタ・シュガーの製造拠点を襲った野郎と白い蜘蛛の情報がある」


「こいつらを殺すのか?」

 アネモネの言葉に男性は苦笑した。


「まさか。組織の精鋭が警備していた拠点を襲撃するような奴の相手を、部下を失ったお前にできる訳ないだろ」


「なら、この情報は?」

「そいつと面倒事を起こさないための情報だ。その野郎の顔を頭に叩き込んでおけ」


「わかった」

 アネモネは携帯端末を胸の谷間に滑り込ませた。


「それから」男性は思い出したように言う。

「怪物退治の仕事に興味はあるか?」


「変異体を相手に戦うのは慣れているけど……」

「それなら、すぐにジャンクタウンに行け」


「そこに何があるんだ?」

「イーサンって男のことは知っているな?」


「もちろん。この辺りで奴のことを知らない人間はいない」

「なら決まりだ。仕事の詳細はイーサンが教えてくれる」


「わかった……」

「さっさと行け」

 男性はそう言うと、アネモネたちをあしらうように手を振った。


「ありがとう」

「気にするな」

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