第4話

「今日の早いうちに本社からコメントが出ると思います。本社もこの件をかなり気にしていたので、もしかしたら、もうコメントを出しているかもしれません。確認がとれ次第、改めてご連絡させていただきます」

西本さんはそう言って再び頭を下げた。

「いや、そもそも私が間抜けな間違いをしなければこんなことにはならなかったんですから、自業自得ですよ」

俊輔は笑う。皆本さんの顔を見る。無言で固い表情をしている。そこにいつもの笑顔はなかった。

「……皆本さん、僕ね、仕事の合間にこうしてこのお店で皆本さんとちょっとだけお話しする時間が好きなのよ。いつも楽しそうにニコニコ笑って、軽口言って。あなたのおかげで午後からの仕事も頑張れる。だから、そんな顔しないで。平気だからさ」

俊輔がそういうと、皆本さんは顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。悲しいというより、安心したような涙に見えた。

時計を見ると時刻は12時半を回っていた。

「……時間もあれですし、これで失礼します。ご忠告いただいた通り、できるだけ注意はしようと思います。しばらくここに来れないのはちょっと寂しいですけど」

三人で並んで事務所を出ようとしたその時だった。店内に轟音が響いた。何かがぶつかる音。何かが倒れる音。ガラスが散る音。一拍置いて、叫び声が上がる。

西本さんが事務室を飛び出していく。俊輔も後に続く。皆本さんは呆然としている。

レジカウンターに出ると、店内はひどい有り様だった。窓際のマガジンラックの置かれた区画に、車が突っ込んでいる。マガジンラックの下には一人の男性が挟まれている。割れた窓から風が吹き込み、床に散らばった雑誌のページをめくっている。飛び散ったガラスがキラキラ光っている。

西本さんがカウンターを飛び出していく。俊輔はぼんやりとそれを眺めていた。

「救急車を!早く!」

西本さんが叫ぶ。マガジンラックに潰された男性を助けようとしているらしい。俊輔は慌ててポケットを探り、スマホを取り出す。

119か、110か。

救急車を、と言われたので119にする。

「……はい、こちら消防です。火事ですか?救急ですか」

俊輔は口を開こうとして、固まってしまう。車が動き出したのだ。初めはゆっくり、それから一気にバックする。店内で誰かが悲鳴をあげる。車は滑らかに駐車場まで下がると、一旦停止する。ボンネットは歪み、バンパーが地面を擦っている。そして、車はそこから勢いよく前進する。進行方向には西本さんとマガジンラックに潰された男性をがいる。

俊輔は声を上げようとする。しかし、出てくるのは喉を潰したような吐息だけだった。

再び轟音が響く。背後で叫び声が上がる。皆本さんだ。俊輔のシャツの背中をぐっと掴んでいる。

西本さんは突っ込んできた車に跳ね飛ばされ、商品ラックにぶつかった。衝撃で並列に並んだ商品ラックがドミノ倒しに倒れていく。

車は再度バックをする。車体が何かに引っかかったらしく、一瞬動きが止まる。しかし、エンジンが唸りを上げ、タイヤが軋み、店を飛び出ていく。今度は駐車場で停止した。エンジンはかかったままだ。ドアが開いて、運転手が降りてくる。

ドアの向こうから現れたのは、黒のジーンズに黒のトレーナ、頭に馬の被り物をつけた人物だった。背格好から男のように見える。黒い手袋をはめた両手に、スマホとナイフのようなものを持っている。

俊輔はただ呆然と立ち尽くしていた。数人いる他のお客も同様だ。男は悠々とマガジンラックの山を越えて、店内に入ってきた。商品を物色するようにあたりを見回す。その顔がマガジンラックの下でうめいている男性で止まる。男は左手に持ったナイフと右手のスマホを持ちかえる。それから、ゆっりとした動きでしゃがみ込み、ナイフを振り上げる。止める隙はなかった。躊躇なく振り下ろされたナイフは正確に男性の眼窩に命中し、少し、水気のある嫌な音を立てた。男性の体が跳ね上がり、マガジンラックがガタガタと揺れる、

一人の女性が悲鳴を上げながら、カウンターの前を横切り、店を飛び出していく。馬の顔がカウンターの内側に立っている俊輔と皆本さんに向く。男はゆっくりと立ち上がると、再びナイフとスマホを持ち替え、右手でスマホを操作する。俊輔の背後から、「手袋したままで動かせるんだー」という、皆本さんのぼんやりした声が聞こえる。馬男は何かを確認した後、再びスマホとナイフを持ち替えてこちらへ歩き出した。一歩一歩、ゆっくりと。

俊輔は男の一挙手一投足に目を奪われ、その場から動けずにいた。近づいてくる馬の真っ黒な目が俊介を見据えている。

俊輔は悟る。あいつの目当ては僕なんだ。

さっき、事務室で西本さんに言われた言葉が頭をよぎる。

――「『ネット上の人間』なんて、存在しません。彼らは現実に生きる人間です。あなたや私のように」

西本さんはレジカウンター前の床に倒れている。男がその身体を跨ごうとしたその時、西本さんの手が、男の足を掴んだ。男はバランスを崩し、前のめりに倒れ込む。

「逃げろ」

西本さんの声は小さかった。口の端から血が垂れている。男は起きあがろうともがいている。

急に後ろに引っ張られ、俊輔はバランスを崩す。

皆本さんだった。

「逃げないと」

皆本さんは俊輔の腕を掴んで、ぐいぐいと事務室の方へと引っ張っていく。背後で数回、グチャという音がする。俊輔は振り返ろうとするが、皆本さんは構わずにぐいぐいと進む。

フライヤーの置かれた調理場を抜け、その先の事務室に入る。皆本さんが事務室のドアに鍵をかける。

「これ!」

皆本さんは事務室の入り口に置かれた机を引っ張る。俊輔も手伝い、バリケードにした。

「こっちに裏口があります」

皆本さんに手を引かれ、ダンボールや食材の積まれたスチールラックの前を通って、事務室の奥へと進んでいく。

「ちょっと待って!」

俊輔はスチールラックを掴んで力を入れる。しかし、ラックはびくともしない。

「耐震のためにしっかり固定してあるんです。倒すのは無理ですよ」

仕方がないのでラックに置かれた荷物を床に落とす。少しは時間稼ぎになるだろう。

「ここが出口です」

ラックの向こう、事務室の一番奥に、その扉はあった。

「ここから建物の横に出ます。ドアを出てすぐ右に進めば駐車場です。いつも車で来てますよね?鍵は持ってます?走って車に乗り込めば逃げ出せますよね?」

「でも、西本さんが……」

「やめてください!とにかく、二人で逃げるんです。二人で助けを呼べば西本さんも……」

そう言いながら皆本さんは泣き始めた。

「……わかった」

二人はドアノブに手をかけた。

ドアは開かなかった。

二人がかりで体重をかけるがびくともしない。焦って何度も扉を叩く。皆本さんは泣き続けている。

入り口の方から金属がぶつかるガチン!という音が響いた。もう一度、もう一度。俊輔と皆本さんは肩を抱き合って震えているしかできなかった。

それからしばらく、わずかに人が動くような音が続いた。水のような音も。だがそれから急に静かになった。裏口のドアの向こうから、車が走り出す音が聞こえた気がした。アスファルトにバンパーを引きずるような、ガラガラという音も。ただの願望による幻聴かもしれない。俊輔も皆本さんも確かめに行く勇気はなかった。

それから二人は抱き合ったまま、永遠とも感じる時間を過ごすことになった。

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