超短編 優しさは誰がために

絶佳(ぜっか)

優しさと罪

 優しい人は何のためにその優しさを人に向けるのか、僕はいつも考えている。優しいというのは、自分のためでしかないのではないか。周囲から嫌われないように、好かれるように優しさを仕向ける。全員に優しくすれば、誰を大切にするべきかなんてことを考えずに済む。優しい自分に酔うこともあるだろう。

 こんなことを考えるのは、僕が醜い人間だからだろうか。自分の優しさがないことを正当化するための言い訳なのだろうか。もうわからない。しかし、僕はいつも優しさに疑問を投げかける。

 全員に優しくするなんてのはエゴだ。大切な人を守るためには、誰かを傷つけなければならない。誰にでも優しいとは、誰も守れないことを意味する。

 優しさには責任も伴う。多くの人間はそれに気づかない。人を傷つけることと同様に重い責任があるのだ。見知らぬ人を助けたとしよう、その人が生きていることで嫌な思いをする人間が確実に存在する。その人が生存することで多くの食物が犠牲となる。もちろん、誰かを助けることは悪いことではない。しかし、何の責任もない最善な行為ではないのである。そこで死ぬはずだった人の命を助けることは、見殺しにするよりも自分に大きな責任がのしかかる行為だ。

 僕はある人が死のうとするのを止めた。そのせいで彼女は今日も苦しんで生きている。どちらがいいかなんて僕にはわからなかった。ただ、社会で正しいとされている「助ける」という行為に走ってしまった。僕は彼女の人生の苦痛の全ての責任を感じることになった。こんなに苦しい思いをするなんて。彼女の全てを受け止める覚悟のない自分が、彼女の運命を左右しようなんて傲慢であった。おそらくこの苦しみはその傲慢に対する罰だ。つまり、世間で言われる優しさに対して罰が下った。優しさが罪だとされたわけである。

 もう僕はどうしたらいいのかわからない。人はなぜ生きるのだろう。ありきたりな問答を繰り返して、僕はその無限地獄に逃避する。誰しも優しくありたい。優しさはだれのために。どうして優しさは正義とされるのだろう。優しさの対義語が傷つけることだというのが間違いだ。優しさは傷つけることの対義語ではなく類義語であるように思われる。人のする行為なんて自分への何らかの見返りがあってこそだ。プラスに見える行為も、マイナスに見える行為もすべて他人には悪である。

 では、生まれたことが罪なのだろうか。生きることが罰なのだろうか。そんな考えが僕を支配する。大切なものなんて何もない。僕は他人と接することがすべて罪に繋がる気さえしている。もう、自分を信ずることができない。そのせいで、人を信ずることもできない。

 世にいう優しい人はどうなのであろうか。100%善で構成されている人間などいるのであろうか。私は常に彼らを疑う。疑うことでしか心を落ち着けられないのだ。大切なものはいつも目の前にあるはずなのに、それを信じることができない。

 彼女を抱きしめることもできなくなっていた。そんな資格がある人間ではないように思えた。彼女は優しさを求めていない。僕があげられるものは、、、何もない。

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超短編 優しさは誰がために 絶佳(ぜっか) @Zekka27

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