7-5
「お待たせしました」
「いいのよ、私が頼んだんだもの」
堀北の母親ともう一度向かい合って座り、ノートを返そうとしたが首を振られた。
「それはあなたが持っていてくれると嬉しいわ」
「でも……いいんですか?」
堀北の母親はゆっくりと頷いた。
「それは、あの子があなたのために書いたものだもの。あの子もそれを望んでいるわ」
栞はノートを丁寧に鞄にしまい、堀北の家を出た。茜色に染まった空が徐々に色彩を失っていく。世界のどこかで戦争が始まろうとも、一つの国が滅びようとも、小さな命が誕生し、そして失われようとも、時間は平等に流れる。
家に帰り着き、夕食を作るつもりでリビングに出たが、既に二人分の食事が机の上にラップをかけて置いてあった。
机に置かれた何かの切れ端に、母の字で『時間があったので作りました』と書かれていた。堀北と出会う前の栞の家族の関係からは著しい変化だった。母も父も、少しずつ変わっていっている。立ち止まってしまったのは栞だけだ。
母が作った夕食は、かつて食べたことがあるかどうかはわからなかったが、ひどく懐かしい味がした。
自室に戻り、栞はもう一度堀北のノートを開いた。何度も読み返し、白紙のページを捲っていると、ノートの最後に続きがあることに気がついた。どうやら結末は先に決めていたらしい。
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思い返せばあっという間で、でも人生で一番濃密な三年間だった。引退してから髪も伸び、卒業証書の入った筒を持っていることに現実味があまりない。
忘れもしない入学式の日、彼女が立っていた場所で、俺は彼女を待っている。桜はぽつぽつと白いつぼみを付けている段階で、まだ準備中のようだった。
「勇樹」
現れた彼女は三年前より大人びて、より一層美しくなった。思えば高校生活は、白球と彼女のことばかり追いかけていた。
「卒業おめでとう」
「勇樹も卒業するでしょ」
何度言ったかわからない言葉を、最後にもう一度彼女に伝える。いつもなかったことのように流されてばかりで、表情すら変えずにまともに取り合ってもらったことはなかった。
「俺は入学式で栞に一目惚れして、三年間関わってきて、何が好きで、何が嫌いで、どんな考え方をしていて、どんな人なのかをたくさん知った。その上で、俺はずっと栞が好きだよ」
言い終わるとなぜかとてもスッキリした気分になった。返事は期待してない。今までだって答えてもらったことはなかった。今も風でなびいた髪で隠れているが、表情を変えていないのだろう。そして、またねといつものように別れるのだろう。
風が止み、彼女の顔が見えた。上気した頬、細められた目は光を帯び、口元は緩んでいた。彼女は今日初めて無表情をやめた。
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【最後に】
これは私の理想を少し、いや、かなり脚色した物語です。できることなら、この主人公のように、日頃から『好きだ』と伝えられたらどんなに良かったか。今これを書いている私には未来が約束されていません。ですが、必ず現状を克服し、これからも生きると決めました。最後に、と書いていますが実は物語を書き始める前に既に書いてしまっています。どうしても伝えたい相手に、私はこの気持ちを伝えられるよう、生きると誓います。
これから先の堀北勇樹の物語に、花木栞がいつまでも側にいること、花木栞の物語でも、堀北勇樹が側にいることを、筆者は願っています。
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栞に握られたノートはくしゃくしゃに歪んでいた。止めどなく溢れる涙はノートに染みを作る余裕を与えず表面を流れていく。
堀北が死んだ。もうこの世にはいない。
もう二度と笑った顔を見ることは叶わない。
名前を呼ばれることもない。
本の感想を話し合うこともできない。
もっと話がしたかった。
もっと声が聞きたかった。
もっと笑顔を見ていたかった。
物語の世界に逃げ込まないように、いつまでも見守っていてほしかった。
もっと導いてほしかった。
堰を失った涙と共に、感情が溢れ出してくる。
読書で覚えた綺麗な表現も、流暢な言い回しも、今の感情を表すことはできない。今一番栞の心を支配している言葉は一つしかない。
生きてほしかった。
栞も伝えたかった。堀北が好きだと。
この想いを伝え合うことができたのは、堀北の書いた物語の中だけだった。
部屋で一人、嗚咽しながら栞は思った。どうしようもなく辛く悲しい。現実から目を背けたい。しかし、それを堀北は望んでいない。
現実を、堀北がいた世界を生きていく。堀北がいたということを証明するために、堀北の書いた物語が活字の世界で生き続けられるように、堀北が栞の物語の中でいつまでも生き続けられるように、栞は生きる。
物語のように終わりが決まっていない不確実な現実、人生という物語をこの命が役目を終える時まで綴っていく。
堀北勇樹が花木栞の側にいつまでもいられるように。
【完】
現実逃避の読書家と元野球部の変わり者は物語で恋に落ちる 陽稲(はると) @wakeharuto24
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